「見ろよ。凄《すご》い人だぜ」
と、中沢竜一郎が言った。
なつきとさやかが、窓辺に寄って来て、この映画館の建物を囲む行列を見下ろした。
「あれが、みんな私たちの映画を見に来た人たち? 信じられないみたいね」
と、なつきは言った。
色々とあったが、ともかく、『母娘坂』は完成した。そして今日は、その初日。
一回目の上映を前に、二人の舞台挨《あい》拶《さつ》があることになっている。
「これから、どうする?」
と、竜一郎が言った。「女優をつづけたいのなら、そうしてもいいぞ」
なつきが首を振った。
「私はこれきり。もうくたびれたわ。それに習いごとできないし……。あなたのこともしっかりつかまえておきたいしね」
「お前……」
竜一郎は、なつきに手を握られて、赤くなった。「そうしてくれると、嬉《うれ》しいよ」
「仲のよろしいことで」
と、さやかはからかった。「私は、少しずつやって行きたいわ」
「あなたはその方がいいわ。せっかくの機会ですものね」
「うん。それには、お父さんとお母さんが仲良くしてくれなきゃね」
と言って、さやかはウインクして見せた。
「——急にスターになって、映画に出て、人殺しがあって……。大変な何か月かだったわね、本当に」
と、なつきがしみじみと言った。
控室に、藤原が顔を出した。
「あと十分です。それから、お客様ですよ」
入って来たのは、財前浩志と、北原浩子だった。
「あら、いらっしゃい!」
と、なつきが嬉しそうに迎える。「浩子ちゃん、お母さんは?」
「お仕事で。——必ず映画館で見ますって」
「そう。良かったわ。頑張ってね」
「はい。あ、さやかさん」
「やあ、いじめてない、その子のこと?」
「何で僕がこの子をいじめるんだよ?」
「私は、浩子ちゃんに、あなたをいじめてないかって訊《き》いたのよ」
と、さやかは言った。
今、北原文代はファッション関係の仕事について、忙しく駆け回っている。——人間、働いていれば、妙なことにやきもちをやく必要もないのだろう。
「うちの母も、いつか映画館へ来たい、と言ってました。よろしくって」
と、浩志が言った。
「そう。いつでもおっしゃって。ちゃんと席をお取りするわ」
と、なつきは言った。
藤原が、顔を出して、
「客が入り始めました。凄《すご》い入りですよ!」
と、興奮した面持ち。「呼びに来ますから!」
と、また行ってしまう。
「あの人も、一向に社長らしくならないね」
「仕方ないわよ。人間、時間が必要よ、何ごとにも、慣れるには」
さやかは、やはり少し緊張しているのか、喉《のど》が乾いて、お茶を一口飲んだ。
もう秋である。——夏休みはアッという間に過ぎた。
撮影は長く、短かった。そして、今、藤原の所には、なつきとさやかの、次の仕事の企画が、山と持ち込まれているらしい。
でも——ともかく、一つの仕事が終ったのだ。
もちろん、色々と不満はあっても、さやかは、充《み》ち足りていた。
父と母の間も、何とか破局に至らずにすんだ。池原洋子の取調べの過程で、父のことが出たらどうしよう、と心配していたのだが……。何とか大丈夫だった。
学校の方では、川野雅子が、今や本気で高林和也に惚《ほ》れられていて、大いに幸せらしい。ぐっと練習中もやさしくなった、という評判である。
「お願いします」
と、藤原が呼びに来た。
「はい。——じゃ、あなた、後でね」
と、なつきは夫に言って、歩き出した。
——ステージの袖《そで》に立つと、客席のどよめきが、足下に伝わって来る。
「やあ、お二人さん」
と、監督の早坂が、いつになく笑顔を見せている。
「色々お世話になって」
と、なつきが頭を下げ、「私は、これきりで引退しますわ」
「やあ、そりゃ残念だ。しかし——個人的には賛成ですな」
「娘は、まだやりたいと申しておりますので、よろしく」
「僕の力でやれることは、きっとやらせてもらいますよ」
と、早坂は言った。
司会者が、挨《あい》拶《さつ》をして、続いて、なつきとさやかが呼ばれた。
「お母さん、先に」
「でも——」
「やっぱり、年齢《とし》の順」
「そうね」
と、なつきは笑った。
二人がステージに出て行くと、映画館を揺がすような拍手と歓声が、湧《わ》き上がった。
——藤原は、ステージの袖で、フットライトを浴びている二人を、じっと見つめていた。
「いいですな」
と、いつの間にか、中沢竜一郎がやって来て、覗《のぞ》いている。「あれがわが女房と娘とは信じられない」
藤原は、何も言わなかった。——胸が一杯で。
今、藤原は、自分の「夢」が現実のものになるという、まれな瞬間を、体験していたのだから。
なつきとさやかが短い挨拶をして、袖《そで》に戻って来た。
「あなた。——どうだった?」
「すてきだよ」
「ありがとう。——さやか、お母さん、一足先に、お父さんと帰るわ」
「うん。分った」
さやかは、父と母の後ろ姿を見送って、「結構、さ《ヽ》ま《ヽ》になってるじゃない」
と呟《つぶや》いた。
映画の上映が始まって、音楽が高らかに鳴り始めている。
「どうだね」
と、早坂が言った。「この映画作りから、何か得るところはあった?」
「ええ」
さやかは微笑んで、肯くと、言った。「朝、パッと起きられるようになりました!」
早坂が明るく笑った。