講師は緊張していた。
——間違いない。あそこに座っているのは、中沢なつきだ。
この前、俺《おれ》の話の「いいところ」でパッと席を立って帰ってしまった。おかげでこっちは調子が狂うし、クラス中の奥さんたちには笑われるし……。
いや、こっちが笑わせようとして笑ってくれるのならいいが、あの時はそうじゃなかった。「フルコース夫人」という、彼女のあだ名を知らなかったせいもある。
今日は大丈夫。絶対にあんなことをくり返したりしないぞ。——講師はかなり気負っていたのである。
この講師、別になつきに腹を立てていたわけではなかった。『母娘坂』を見て、なつきのファンにさえなっていた。
そして、なつきが映画やTVの世界に何かとコネを持っているだろうから、その辺から、自分をTV局に売り込んでもらえないか、などと考えていたのである……。
「ところで——」
と、講師はいよいよ話のクライマックスへとさしかかった。
すると——今度はピピピ、というアラームの音はしなかったが、中沢なつきが急に机の上を片付けて、立ち上りかけたのである。
「あの——奥さん」
と、講師が言った。「中沢さん。まだ話が——」
「ええ、申し訳ありません」
と、なつきはちょっと頭を下げた。
「次の予定が詰っておられるのは分ってますがね、今日の話は、これまでとは違うんです。ぜひ聞いて行って下さい」
と、講師は愛《あい》想《そ》良く言った。
「ええ……。そうしたいんですけど——」
と、なつきは少しためらって、「やっぱり失礼しますわ。これからは、自分の本当に興味のあるものだけを勉強しようと思ってますの。家族で過す時間も大切ですし、このクラス、やめようかどうしようかと迷っていたんですけど——。やっぱり、やめさせていただくことにしました。どうもありがとうございました」
「はあ……」
講師は落胆の色を隠さない。
なつきは、教室を出ようとして、ふと足を止めると、
「その内、うちの娘が、ここへ通い出すかもしれま せんわ。その時まで、頑張っていて下さい。たぶん——二、三十年もすれば」
なつきが出て行くと、何となく教室の中はシンとしてしまった。
二、三十年して、自分の娘が、ここへ通って来ているところを想像して、みんな、何だかしんみりしてしまったのである。
「——みなさん」
と、講師は、一種悲壮な印象さえ与える口調で言った。「予定を変更して、今日は我々の幸せな老後について、考えてみませんか」
教室に集まった主婦たちは、一斉に無言のまま肯《うなず》いた。
——たぶん、この日の話は、この教室始まって以来、最も充実した、切実なものになったに違いなかった……。