夜中の電話には出ない。
これが、石巻克子の主義である。
主義というほど大げさなものではないとしても、明日のために充分な睡眠を取る権利を守る、ということは、立派に一つの「生き方」ではあるだろう。
だから、克子は寝るときに、電話をいつも毛布でくるんで、ごていねいに座布団まで上にかけてやる。夏なら暑くてのびてしまいそう(?)だが、もう今は秋。それも夜には結構冷える。
昼間、勤めに出ている間、充分に日を入れることもできない状態では、夜の布団のひんやりした感触が少々寂しくもある。——もっとも、電話の方は別に寂しくも何ともないだろうが。
それはともかく……。いかに毛布と座布団で遮られているとはいえ、電話が十分近くも鳴り続けたら、いかに眠りの深さでは日本海溝に負けないと自負している克子でも、耳について来る。
うーん……。何よ、もう……。
上下の瞼をむりやり引き離して、枕もとの目覚まし時計を見ると、午前二時過ぎ。
「知るか!」
と、布団を頭からかぶってみたものの、一旦聞こえてしまうと、かすかな音だけに却って耳につき、克子は諦めて渋々布団に起き上がった。
六畳一間のアパートだ。電話まで這って進んでも、足は布団の中に残っていられた。
座布団をどけ、毛布を開いてやると、旧式なダイヤル式の電話が、フーッと息をついた(ように、克子には思えた)。
カチャッと受話器を取って、耳に当てる。——妙ないたずら電話ってこともあるので、こっちからは何も言わない。これは女性の一人暮らしの常識である。
「もし、もし。——克子か?」
「こちら税務署ですよ」
と、克子は言ってやった。
「良かった! いたのか。ずっと鳴らしてたんだぞ。外泊してるのかと思った」
「火事はどちら? はしご車は必要ですか?」
「悪いな、眠ってたんだろ? 急な用事なんだ。今からそっちへ行っていいか」
「葬儀のご用でしたら、お棺のサイズをどうぞ」
「なあ、克子——」
「お兄さん、何時か分かってる?」
と、克子は文句を言った。「こっちだって、来られちゃ困る夜もあるのよ」
少し間があって、兄の石巻浩志が、
「克子、お前……男と一緒なのか」
と、こわごわ訊いて来た。
「今夜は違うわ。——で、何よ?」
「うん……。お前の下着、一揃い、貸してくれ」
克子は、たちまち目が覚めてしまった。
「下着?」
と、克子は訊き返していた。
「うん」
「下着って——下着?」
当たり前だ。しかし、克子としては、いささか気持ちを鎮める時間が必要だったのである。
「何でもいいんだ。ともかく一揃い——何と何がありゃ一揃いなのか、よく分からないんでな」
電話だから、顔は見えないが、克子にも、兄が大真面目に言っているのだということだけは、分かった。
「お兄さん。下着をどうするの?」
と、克子は訊いた。
「そりゃ……着るんだ」
「お兄さんが?」
「まさか。——おい! 俺にそんな趣味があると思ってるのか?」
と、浩志は本気で怒っているようだった。
「何を言ってんのよ。人を夜中に叩き起こしといて」
と、克子はやり返した。「つまり、誰かが下着を必要としてるわけね」
「そういうことだ」
「女の人ね、当然。——ああ、そうか!」
やっと、克子にも合点がいった。「お兄さん、まだ〈便利屋〉をやってるの? 彼女たちの」
浩志は答えなかった。
「今からそっちへ行っていいか?」
「うん……。下着だけ? 上もいるの?」
「そうだな。何か——一応持っていくか。簡単なもんでいい」
「分かった。適当に出しとくわ。車ね?」
「二十分くらいで行く」
と言ってから、「悪いな」
石巻浩志はそう付け加えた。
電話を切って、すっかり目の覚めた克子は欠伸をした。
パジャマ姿で大欠伸、という格好は、あまり色っぽいとは言えないだろうが、克子は二十一歳にしては少女っぽい面立ちの、ふっくらしたタイプ。兄の浩志とはあまり似ていない。
まあ、今のところ浩志は声だけの登場だから、外見の方はいいだろう。
「それにしても……」
と、克子は呟いていた。「いい加減にしときゃいいのに」
言ってもむだだ。克子には分かっていた。
他のことには至って気が弱く、克子に頭の上がらない浩志だが、こと「彼女たち」のこととなると、絶対に言うことを聞かない。
「あれ……。どっちなのかな、今夜は」
と、克子は考え込んだ。「——ま、いいか」
どっちにも合うようなの選んどきゃいいわね、と、明かりを点けると、克子は洋服ダンスの引き出しを開けて中を探り始めた。
二十分、と言ったが、結局三十分かかったのは、石巻浩志がぐずぐずしていたせいではない。
行先を、ドライブマップで確かめておく必要があったのである。そう遠くではないにしても、何しろちょっと郊外に出れば、モテルやホテルはいくらもある。しかも、そんなもの、浩志の持っているドライブマップには出ていない。
浩志は、ともかく妹のいるアパートの手前で車を停めると、急いで歩いて行った。
克子の部屋は、この古アパートの二階である。階段を上りかけると、ドアが開いて、
「静かにね!」
と、克子が低い声で呼びかけて来た。「足音たてないで!」
空中を飛んでいくわけにはいかないので、少しは足下でギイギイ階段が鳴ったが、それは浩志のせいというより、古ぼけた階段のせいだった。
「——悪いな」
と、ドアを後ろ手に閉めて、浩志は言った。
「すぐ行く? 遠いんだったら、コーヒー一杯飲んでけば? 居眠り運転は怖いよ」
「ああ……。でも——」
「お湯は沸かしたの。すぐ落とすから」
パジャマにカーデガンを、袖を通さずにはおった克子は、「上がんなよ」
「うん……」
石巻浩志は、一応ちゃんとブレザーを着て、ひげもそってあった。
ヒョロリと高い背丈、色白のところは妹と共通だが、少々骨ばった顔つきは対照的。
ただ、目はよく似ている、と言われる。
そう聞くと、克子はいつもふくれるのだが。
「——何ごとなの?」
と、コーヒーカップを出して、克子は訊いた。「どこかで下着を落っことした、ってわけ?」
「よく分からないんだ。ともかく電話を取るなり、ワアワア泣いてて」
克子はちょっと眉を上げて、
「じゃ——ゆかりさんの方だ」
「うん。そうなんだ」
と、浩志は肯いた。「どこかのホテルにいて、どうも男とケンカしたらしい」
「それで、どうして下着がないわけ?」
「俺だって、知らないよ。——や、悪いな」
熱いコーヒーを、浩志はせっせと吹いてさましながら飲んだ。
「場所、分かったの?」
「ゆかりの説明はあてにならないからな。地図を見て、そのホテルに電話して聞いた」
「ふーん」
苦情を言う気にもなれない。浩志だって、普通のサラリーマンである。朝は早い。
「じゃ、これね。一揃い、入ってる」
と、克子は紙袋を兄の方へ渡した。
「起こして悪かったな」
と、浩志はコーヒーを飲み干すと、立ち上がった。「じゃ、借りてく」
デパートの紙袋をさげて、浩志は玄関で靴をはいた。
「靴べら、いつも、買おうと思って忘れちゃうの」
と、克子は腕組みして言った。「男っ気のないのが、すぐばれるね」
浩志は、ちょっと笑った。
「ゆかりも極端だけど、お前も極端だな。勤めてて、まだボーイフレンドもできないのか?」
「人のこと言う前に、自分のこと、心配しなよ」
克子は言い返してやった。「じゃあね。——中のもの、返さなくっていいから。ゆかりさんにそう言っといて」
「ああ。じゃ、おやすみ」
「おやすみ……」
——克子は、鍵をかけ、チェーンをして、布団へ戻った。
すっかり目は覚めてしまったが……。それでも、寝つきのいい克子は、少々寝不足程度で出勤すればすむだろう。
しかし、兄の浩志の方は……。
克子は明かりを消すと、目を閉じた。
仕方ないか。あれが、お兄さんの「生きがい」みたいなものなんだから……。
やっと、目指すホテルを見付けて、車をその駐車場へ入れたのは、もう午前四時に近かった。
郊外へ出ると大分気温が低く、車から出て、浩志はちょっと身震いした。
駐車場には、外車も何台か並んでいる。さすがに週末ではないので一杯ではない様子だが、それでも七割方、埋まっている。
——部屋はすぐに分かった。
ドアを叩いて、しばらく待ったが返事がない。
まさか、帰っちまったわけじゃないだろうな、と浩志は不安になった。ともかく、もう一回ノックしてみようと、手を上げかけたとき、
「はい」
と、ドア越しに声がした。
「僕だよ」
カチャッと音がして、すぐドアが開く。
「遅いのね! 来てくれないのかと思った」
口を尖らして、会うなり文句だ。——昔とちっとも変わっていない。
「遠いしね。それに僕の所に、着替えはないし」
浩志は紙袋を渡した。
「ありがとう! これで帰れる」
バスローブ姿の、やや童顔の彼女は、少し熱心にTVを見る人間には、すでにかなり広く知られた顔だった。
——浩志は、何とも派手な、というより、けばけばしい内装の、ホテルの部屋の中で、落ちつかない気分で座っていた。
バスルームのドアが開いていて、その中で、安《あ》土《づち》ゆかりが、浩志の持って来た服を着ている。もちろん、浩志の座っている位置からは、その姿は目に入らないのである。
安土ゆかりの着替えを覗きたいというファンは、たぶんいくらもいるだろう。この一年ほど、ゆかりはずいぶん売れ始めていた。
「——ねえ、これ、克子ちゃんの?」
と、ゆかりが大きな声で訊いた。
「そりゃそうだよ。他にそんなもの借りられる相手なんかいないさ」
と、浩志は座ったまま答えた。
「へえ。可愛いの、はいてんだ」
と、ゆかりは呑気なことを言っている。「今、いくつだっけ、克子ちゃん?」
「君と二つ違いだから、二十一だよ」
「そうか……。二年下だったっけ」
ゆかりは、少し間を置いて、「——ちょっとサイズが大きいのね」
「君がやせてるんだ。もう少し太れよ」
「いやよ。私、お腹が出ちゃうのよ、太ると」
ゆかりは、バスルームから出て来た。「助かった! 克子ちゃんにお礼言っといてね。ちゃんと洗って返すから、って」
ブラシで髪を直している。
「返してくれなくていい、って言ってたよ」
「そんなわけにいかないわよ」
ゆかりは、ちょっと笑って、「〈予備〉に持って歩くかな」
「どうしたんだ、一体? 下着まで盗まれちゃったのか?」
ゆかりは、肩をすくめて、
「男らしくない奴なの」
と、言った。「ここまで来てさ、私は良心的に話したのよ。今日で終わりにしようね、って。——そしたら真っ青になって」
「振ったわけか」
「そういうことになる? でも、振られたからって、私がお風呂に入ってる間に、私の服、全部持って出てっちゃうなんて、ひどいと思わない?」
浩志は、思わず笑い出していた。ゆかりがむくれて、
「何がおかしいのよ! どうしようかと思ったわよ、本当に」
「きっと、ひどいこと言ったんだろ。相手を傷つけるような」
「キズテープだって持ってるわ」
と、ゆかりは澄まして言った。「バッグを持って行かれなかったのが、せめてもね」
「相手は芸能人?」
「まあね」
と、ゆかりは肯いた。「もてる、って自認してる奴だったから、振られて、よほどショックだったのね」
と、ゆかりは、いささか同情さえしている様子。
「週刊誌とかにかぎつけられない内に、引き上げよう」
と、浩志は立ち上がった。「マンションまで送るよ」
「うん」
ゆかりは、コクンと肯いた。——そう申し訳ないとも思っていない様子だ。
「もう朝になるね」
と、駐車場へ出て、ゆかりは言った。「浩志、会社あるんでしょ」
「誰だってあるよ」
浩志はドアを開けた。「——さ、乗って。道が空いてるから、一時間はかからないだろう」
ホテルを出たのは、もう四時半を回っていた。
「——悪いわね」
と、助手席で、ゆかりが言った。「いつも浩志にばっかり迷惑かけてさ」
「珍しいこと言うじゃないか」
「何よ。——どうせ私はだらしがないの。知ってるでしょ」
と、ゆかりはすねて見せる。
何本ものCFで、ファンを捉える「小悪魔的」な目つきである。もし、ここにゆかりのファンがいたら、気絶していたかもしれない。
しかし、浩志にとっては、もう何年も前から——七年、いや八年前から、見なれた表情である。
今の方が、より洗練されてはいるが、もとの部分では少しも変わっていない。十代のころの幼なさが、二十三になった今も、そのまま同居している。そこが、ゆかりの人気の原因でもあった。
もちろん、可愛い。
いつの世でも、「可愛い女の子」は、それだけで男の目をひきつける。
「今日、夕方から香港なの」
と、ゆかりは言った。「スペシャルでね。主役じゃないけど、食ってみせる」
「凄いじゃないか」
空いた高速を、浩志の車は風の音を巻き起こしながら、突っ走っている。
「ディレクターと仲いいんだもん、私」
と、ゆかりは言った。「きれいにとってくれることになってんの。見てね」
「ああ」
——少し間があった。浩志は、
「邦子と会うことあるかい?」
と、訊いた。
返事がない。チラッと助手席へ目をやると、ゆかりはヘッドレストに頭をもたせかけて、ぐっすりと眠り込んでいた。
浩志は、ふっと微笑んで、そのまま寝かせておいてやった……。