「まあ、その点は……。はあ。——いや、決してそんなつもりじゃないので……」
ドアが細く開いているので、社長の西脇の声が少し洩れて来る。
安土ゆかりは、社長室の前で足を止めていた。——もちろん、ゆかりなら、ノックもなしに西脇の部屋へパッと入って行っても、叱られることはない。
何といっても、今一番西脇が可愛がっているのは、ゆかりなのだから。
しかし、今、ゆかりが中へ入ろうとしないで立っていたのは、西脇が電話中なので遠慮したから——ではなかった。逆に、電話を盗み聞きしてやろう、と思っていたのである。
「何とかしろとおっしゃられても……。こちらとしても、できるだけのことは……」
珍しい。——ゆかりは、社長があんな気弱な口をきくのを、初めて聞いた。
一体誰としゃべっているんだろう?
「——分かりました。決めしだいご連絡します。——いや、間違いなく。——はあ、よろしく」
やっと電話がすんだらしい。ゆかりはソーッと顔を覗かせた。ドアがきしんで、社長の西脇がすぐに気付く。
「何だ、ゆかりか。おい、何時だと思ってるんだ?」
と、時計に目をやって、「大急ぎで仕度しろよ」
「はい、社長」
と、ゆかりはおどけて直立不動の姿勢をとった。「ちょっと寝坊しただけ」
「飛行機は待っちゃくれんぞ」
「今、大宮さんが車を呼んでくれてる」
と、ゆかりは言って、西脇の机のところまで歩いて行く。
社長室といったところで、この事務所は、大手とはとても言えない。半分は段ボールが積み上げられて、物置兼用という雰囲気だった。
「ね、今、誰と電話してたの?」
ゆかりに訊かれて、西脇はギクリとした様子だった。
西脇は、芸能プロダクションの社長にしては、ひどく地味な印象の男である。いかつい感じで、派手な金ピカの腕時計や、エナメル靴、サングラスなんて格好が自分に似合わないことを、よく承知していて、安物ではないが、至って地味な服装をしている。
「聞いてたのか?」
「聞こえたの。全然違うでしょ」
「怪しいもんだ」
と、西脇が苦笑する。
「借金でもしてるの?」
「お前がそんな心配をしなくていい。ともかく仕事に遅れるな!」
西脇は大きな手で、ゆかりのお尻をポンと叩いた。
社長室のドアが開いて、ゆかりのマネージャー、大宮が顔を出した。
「車が来ました」
「ほら、早く行け」
と、社長の西脇がゆかりを追い立てる。「いくら機長がお前のファンでも、飛行機の出発を遅らせてはくれんぞ」
「はいはい。ね、大宮さん、席は?」
と、ゆかりは歩き出しながら訊いた。
「エグゼクティブ。今度は間違いなしですよ」
「本当でしょうね。いやよ、乗ってから、あれ、なんて、もう」
「この前だけじゃないですか」
と、大宮が少し大げさに嘆いて見せる。
大宮は太っているので見たところ少し老けているが、実際はゆかりと大して違わない。二十五歳である。
ひどい汗っかきで、今も額を汗で光らせていた。
「じゃ、社長さん、行って来ます!」
ゆかりが振り向いて手を振る。
「早く行け!」
西脇は、もう一度にらんでやった。
ゆかりの後を、大きなバッグをさげて大宮がついて行く。——西脇は、社長室のドアを閉めると、窓へ歩み寄った。
真下に、ビルの正面玄関が見下ろせる。
車がドアを開けて待っていて、やがてゆかりたちがビルから出て来て乗り込むのが見えた。
車が走り出し、見えなくなると、西脇はホッと息をついた。
本当は、ホッとしていられるような状況ではないのである。
「ゆかり……」
と、呟く。
西脇は、これまで、大勢のスターを手がけて来た。いや、正確にいうと、ごく少数のスターと、スターになりそこねた大勢を、である。
その中でも、ゆかりは特別に光るものを持っていた。早い時期に目をつけ、契約しておいた自分の勘には、満足している。
ゆかりがこの先どうなるか、もちろんそれは当人次第というところもあるが、周囲がどんな風に仕立てて行くかでも、大きく変わって来る。
西脇は、少し売れて来たからといって、ゆかりを寝る間もないほど働かせようとは思わなかった。ゆかりはもっともっと「高く売れる」子だ、と信じていた。
しかし……。
西脇の眉の間に、深い溝が刻まれていた。
今、ゆかりが立ち聞きしていた電話。——あれが、西脇を悩ませているのである。
あるパーティーに、この事務所からタレントを一人出してくれ、という依頼だった。珍しいことではない。しかし、問題は、そのパーティーが暴力団絡みのものだ、ということだった。
タレントをかかえ、全国を回って、ツアーを組んだりする以上、「その筋」と全く縁を持たずにやっていくことは難しい。
しかし、ゆかりは今、大切な時期である。
暴力団絡みのパーティーに出て、マスコミに狙いうちされたら、大きなマイナスになりかねない。といって……。
パーティー主催者は、西脇の出すつもりだったタレントに文句をつけて来た。
うちをその程度に見てるのか、というわけである。
ということは……。向こうの要求は、はっきりしている。名前こそ出さないが、ゆかりをよこせ、というわけである。
仕事としては大したものじゃない。パーティーに三十分ばかり顔を出して、主催者の顔が立てば、それでいいわけだ。
ゆかりだって、別に疲れる仕事でもなし、気楽にこなせるだろう。問題はただ一つ。後で何もなければいいが、ということである。
西脇はため息をついた。選択の余地はない。ゆかりを、三十分という約束でパーティーに出そう。
その写真がどこかへ流れないよう、祈る他はない。
西脇は、首を振りながら、電話へ手をのばしたが——。ふと、その手が止まった。
「そうだ」
もしかすると……。うまく行くかもしれない。西脇は、分厚い手帳をとり出して、ページをめくった。
ええと……何といったかな、あの男。
「そう。——これだ」
西脇は、手帳を見ながら、電話のボタンを押した。「——もしもし、石巻さんはいらっしゃいますか」
浩志は、ちょうど仕事の電話を終えたところだった。
「——もしもし」
「ああ、石巻さん? 西脇といいますが」
浩志にはすぐに分かった。ゆかりとゆうべ、あんなことがあったせいかもしれない。
「ああ、ゆかりの……。どうも」
ゆかりを通して、西脇を知っているのだが、もちろん親しいというわけではない。
何の用だろう。ゆうべのことが、どこかへ洩れたのかな。
「実は、ちょっとご相談がありましてね」
と、西脇は言った。「お会いできませんか」
「構いませんが……。急ぐんですか」
と言って、浩志は欠伸をした。「——失礼」
ほとんど眠っていないのがゆかりのせいだとも言えない。
「ゆかりのことでね。ちょっと厄介ごとなんですよ」
と、西脇が言った。
厄介ごとか。
どうやら、ゆうべの件じゃないらしい、と浩志は思った。
「何ごとですか」
「いや、電話では、ちょっと」
「分かりました」
浩志はため息をついた。
「いつごろなら?」
と、西脇は訊いた。
浩志は、隣席の森山こずえが、電話、と指さしているのに気付いて、とりあえず、今日の帰りに会う約束をして、切った。
やれやれ、今度は何だ?
「——もしもし」
「お兄さん?」
「何だ、克子か」
と、浩志はホッとして言った。
「ゆうべ、どうだった?」
「ああ、助かったよ。よろしく、と言ってた」
「そう、お役に立って良かったわ」
と、克子は言った。「お兄さん、少しは寝た?」
「少しな」
と、正直に答える。「何か用事だったのか?」
「別に。——あれからどうしたかと思って」
克子は、何か言いたそうだった。
「さっき、邦子が来たよ」
と、浩志は、原口邦子が三神憲二の映画に出ることを、嬉しそうに話してやった……。
——本当に。
克子は、兄へかけた電話を切って、首を振った。
「お人好しなんだから」
仕事のおつかいで出たついでに、外の公衆電話で、兄の所へかけたのである。
本当は、他に話したいことがあったのだ。でも、つい——兄の声を聞くと、ゆかりや邦子の話になってしまう。
その方が楽……。そう、お互いに気楽なのだ。
いくら兄妹といっても、大人になり、社会へ出て、別々の生活を始めれば、お互いに踏み込めない領域が出て来るのである。
テレホンカードが戻って来て、克子は、ちょっとためらった。
腕時計を見る。——会社へ戻るのが遅くなると、上司がやかましい。
特に、克子の直接の上司は……。でも、ほんの二、三分ですむだろう。
克子は、ためらっている時間ももったいなくて、もう一度電話を取った。
もう指が憶えている番号。——克子にとっては、特別な意味のある番号なのである。
「もしもし」
克子の声は、少しこわばっていた。「あの……」
「君か」
すぐに彼の声がして、克子はホッとした。
同時に、「あの……」と言っただけで自分の声を分かってくれたことが、嬉しい。
「もう出かけたのかと思った」
と、克子は受話器を持ち直した。
そうすることで、気楽に話ができる、とでもいうように。
「出張? 中止になったんだよ」
と、彼が言った。「どうだい、今夜」
「でも……どうして? ニューヨークだったんでしょ?」
今夜はどうだ、と訊かれたことには、わざと答えずに言った。
「向こうの取引先がインチキくさいんだ。その報告が入ったのが朝の十時。成田へ出かける直前さ。で、急遽取り止め」
「そんなこと、あるんだ」
「金のあるところ、ハッタリあり、さ」
と、彼は笑って言った。「どう、それで? 取りあえず夜がポカッと空いてね」
「ええ」
と、克子は急いで言った。「ええ、構わない」
「良かった。やかましいね。外からかけてるの?」
「会社じゃかけられないもの」
「じゃあ……ちょっと精算に手間どって、八時かな。〈R〉で。いいね?」
「うん」
克子は、肯きながら答えた。
「そうだよ」
「何が?」
「うん、って答えた方が君らしくていい」
克子はちょっと笑った。
「ファックスが入って来た。じゃ切るよ」
「それじゃ八時に——」
克子は言葉を切った。もう電話は切れていた。
頬が燃えるように熱い。——今日から一週間、彼がいないと思っていた。それが……今夜会える。
周囲の喧騒が、やっと戻って来た。しばらくは、何も聞こえていなかったのである。
「——戻らなくちゃ」
小走りに、会社へと急ぐ。帰社予定の時刻を五分でもオーバーすると、理由を訊かれるのだ。
信じられないようだが、そんなことでくどくどと三十分も文句を言って、給料をもらう課長というのがいるのである。
そのくせ、自分は高校野球だの、プロ野球の日本シリーズのときになると、平気で仕事を抜け出して、喫茶店でTVを見ている。
まあいい。そんな人間に本気で腹を立てても仕方のないことだ。
克子は、信号が赤になっていたが、急いで横断歩道を駆け抜けた。
ヒソヒソと囁く声がする。
「やっぱり、そうだよ」
「そうかなあ……」
「ね、トイレ行くふりして、こっそり見といでよ」
「自分で行きなさいよ」
何の用で飛行機に乗っているのか、セーラー服の女学生のグループ。その中の一人が、ゆかりに気付いた。もちろん、アッという間に話が広まる。
——ゆかりは座席で目を閉じていた。
眠っているわけではない。ゆうべ、浩志の方は寝不足だったろうが、ゆかりはしっかり眠った。
しかし、「スター」はいつも移動の途中では疲れて眠っているものなのである。ゆかりも、今は「演技」していた。
不思議なもので、どんなに低い囁き声でも、自分の名前は耳に入って来る。「安土ゆかり」というのは本名で、何となく垢抜けしない気がして、好きじゃなかったのだが、結局、スターになりさえすれば、どんな名前も輝いて、すてきに響いて来るものだということを、ゆかりは知った。
マネージャーの大宮は、隣の席で大口を開けて眠っている。——見ているとふき出したくなる顔だが、付き合うには気楽で、ゆかりは気に入っていた。
ゆかりはもちろん窓側の席で、小さい卵型の窓から見える雲の塊を、眺めたりしていた。もちろん目を開けているときは、ということである。
——女学生たちの中で誰か一人が、「代表」になって、やって来る気配がした。ゆかりは迷った。
眠ったふりをしていれば、大宮が目を覚まして、「今、疲れてるから、そっとしておいて」
と、断ってくれる。
しかし——ゆかりは、ファンの相手をするのが、嫌いではなかった。
「あの……。すみません」
と、おずおずと声をかけて来る。
ゆかりは、ゆっくりと顔を向けた。その瞬間には、「アイドルスター」の顔になっていなくてはならない。
「安土……ゆかりさんですか」
ゆかりは微笑んだ。
「ええ」
「あの……申し訳ないんですけど、写真、とらせていただいてもいいですか」
「どうぞ」
と、ゆかりが答えると、相手は飛び上がりそうになった。
大宮が目を覚まして、キョロキョロしている。ゆかりは、女学生の構える小型カメラに向かって、微笑んで見せた。
フラッシュが光る。——それが合図だったかのように、エコノミーの席から女学生たちがワッとやって来た。
ゆかりは、その女学生たちが、新体操のチームで、香港で開かれる競技会に参加するために飛行機に乗っているのだと知った。
入れかわり立ちかわり、ゆかりの隣の席に座って写真をとる。その間、大宮は、ずっと立っていた。
「ありがとうございました!」
と、口々に言って、中には握手して行く子もいる。
やっと落ちつくと、大宮も席に戻った。
「大勢女の子がその席に座ったのよ。いい気分でしょ」
と、ゆかりはからかった。
「断れば良かったですね。すみません」
と、大宮は欠伸しながら言った。
「いいの。感じ良かったわ」
ゆかりも、大物タレントが、サインや写真をねだられて不機嫌に断ったりする気持ちが分からないではない。本当に、クタクタに疲れ切って、誰とも口をききたくない、ということがあるものだ。
しかし、今のゆかりには、疲れること自体が一つの「仕事」であり、人気の現れでもある。——たとえ不愉快なファンであっても、声もかけられなくなったり、誰にも気付かれない恐怖に比べれば、ましだ。
大げさではない。一旦名の出たスターにとって、忘れられることは死ぬことと同じである。
ゆかりも、事務所の壁に、もう今はほとんど週刊誌にも顔の出ないスターのポスターを見かける。何年前のものか、少し色のあせたそのポスターを見る度、ゆかりはゾッとする。
いつか、自分もあんな風に「色あせる」日が来るのだろうか?
「安土ゆかり? そんなのもいたね」
と、言われる日が。
いや——決して、決してそんな風にはならない。私は生き残って見せる。いつも真新しいポスターが貼ってあるように。
「私はね、息の長いスターになりたい。大スターじゃなくていいの。脇で出てても、何となく記憶に残るような、そんなスターにね……」
邦子はそう言ったっけ。——あの高校の校庭で。二人でブランコに乗って、ゆっくりと揺れながら、夕日を眺めて。
「でも——」
と、邦子はゆかりを見て、言ったものだ。「ゆかりはパッと目立つよ。スターになるときは一気。そんな気がするな」
「なれりゃいいけどね」
と、ゆかりは笑った。
邦子……。邦子。もう、ずいぶん会っていない。ゆかりには、あの日々が、何十年も昔のことのように思えた。
「大宮さん。——あの女の子たちのホテル、聞いといて。果物でも送っといてちょうだい」
と、ゆかりは言った。