ドアが開いて、浩志が入って来ると、紙コップのジュースを飲みかけていたゆかりが、ふき出した。
「ちょっと! 汚さないで下さいよ!」
と、マネージャーの大宮があわてて、紙コップをゆかりの手から取り上げる。「ドレスの替えはないんですからね!」
ゆかりは、笑い続けていて、大宮の言葉はとても耳に入らなかっただろう。
「いつまで笑ってるんだよ」
と、浩志が呆れて言った。
「だって……。浩志! 結構似合うわよ、ハハハ!」
ゆかりはピョンピョン飛びはねた。
「やめて下さい」
と、大宮が情けない顔になって、「下の事務所から苦情が来ます。何しろボロビルなんですから」
ここは、ゆかりの所属事務所の社長室である。西脇は一足先にパーティー会場へ出向いていた。
「そんなにおかしいか?」
と、浩志は自分の格好を見下ろして——。「まあ、確かにおかしいな」
と、肯いた。
白のタキシード。赤い蝶ネクタイ。紫のカマーバンド。
とても自分とは思えない。
「もうちょっと地味にできなかったのかね」
と、浩志は首を振った。「地味じゃ、お役目がはたせないか」
「ご苦労さまね」
と、ゆかりは言った。
もちろん、ゆかりもパーティー用に、超ミニのドレス。スラリとのびた足は、まぶしい白さだった。
「車が来たか、見て来ます」
と、大宮が言って、社長室を出て行った。
「——もう時間に間に合わないんじゃないのか?」
と、浩志は腕時計を見て、言った。
「あら、腕時計は自分の? 似合わないなあ。宝石入りの派手なのか何かしないと」
と、ゆかりは言って、西脇の椅子に腰かけ、クルッと回した。「——少し遅れて、ちょうどいいのよ。別にこっちはメインゲストじゃない。『花を添える』ってだけだもの」
「そうか」
浩志は首を左右へ回して、「サイボーグにでもされた気分だ」
「浩志……」
と、ゆかりは言った。「ごめんね、面倒かけて」
「いつものことだろ。それに、ちゃんとギャラもいただくことになってるんだ」
と、浩志は言って、てかてかになでつけた髪をそっと手で押さえた。「頭が自分のもんじゃないみたいだ」
ゆかりは、楽しげに浩志を眺めている。
「だけどさ」
と、ゆかりが言った。
「何だ?」
「こうやって見ると、浩志も、割合いい男だね」
「ご挨拶だな」
「でも——厄介ねえ、芸能人ってのも。普通のファンとだけ会ってりゃいいのなら気も楽。中には、私と一緒に死にたい、なんて言って来るのもいるし」
「スタッフが守ってくれるさ」
浩志は、胸に覗くポケットチーフを、少し直した。「お腹が苦しいよ。これじゃうつむけないな」
——問題のパーティーの日である。浩志は会社を早退して、西脇の指定した理容室でこの頭にした。
大宮が戻って来て、車が待っている、と告げた。
「出かけましょう。ラッシュにぶつかると、遅くなりすぎる心配もあります」
「いざ、出発!」
ゆかりが立ち上がって拳を突き上げた。
パーティー会場までは、割合順調に車が流れた。
「雨になりそう」
と、車の中から、ゆかりが灰色の空を見上げる。
「そりゃそうだ。僕がこの格好してるんだぜ。雪が降ってもおかしくない」
と、ゆかりと並んで座った浩志が言った。
「ねえ。会社にばれると、大変?」
「まず大丈夫だろ。明日、いつもの通りに出て行けば、誰も気が付かないさ。何となく似てるな、とは思ってもね」
「スポーツ紙なんかの写真は、そう鮮明に出ませんから」
と、助手席の大宮が振り返って、言った。「いいですね。質問されても答えないで下さい。僕の方でうまくフォローします」
「でも、私の恋人に見えなきゃ、意味ないんでしょ」
ゆかりが、浩志に腕を絡めて来る。「仲良くしましょうね」
「ずっと腕を組んでたら、何も食べられないな」
「パーティーなんて、そんなものよ。せいぜい三十分もいりゃいいんだから」
車は、Tホテルの前に着いた。
西脇が、ホテルの正面玄関で待っている。
「やあ、ご苦労様」
と、浩志の手を握って、「よくお似合いだ」
「よして下さい。——カメラマンがいませんね」
「宴会場はこの下です。エスカレーターで下りて行くと、ワッと待ち受けてますからね。びっくりしないで下さい」
そう言われると、ますます緊張してしまう。
地震というのは、初め小さな揺れが、予告するようにやって来て、それからドッと大きな揺れが来る。
浩志は、そんなことを連想していた。
パーティー会場へ入りかけるまでは、カメラマンの数も、それほどではなかったのである。——こんなもんか、と、浩志は西脇からおどかされていただけに、少し拍子抜けの感すら抱いた。
しかし、それもほんの一、二分のことだった。パーティー会場に、浩志とゆかりがしっかりと腕を組んで入って行くと、たちまち凄い数のカメラマンが群がってきたのだ。
フラッシュのまぶしさに目がくらんで、浩志はめまいを起こしそうになった。マネージャーの大宮が、早くも汗だくになって、
「通して下さい!——ちょっと、道をあけて下さい!」
と声を嗄らすが、誰もそんなもの、聞いてやしない。
後で浩志が説明されたところでは、初めに待っていたカメラマンは、芸能誌やスポーツ新聞のカメラマンたちで、要するに、ゆかりが来るのをとっておこうというので、待っていたのだ。
ところが、ゆかりは「得体の知れない男」と、いかにも親しげに腕を組んで現れた。アッという間にそのニュースがパーティー会場に伝わって、あちこちの写真週刊誌、パーティー欄のある婦人誌、女性誌のカメラマンたちも、一度に殺到して来た、というわけである。
しかし、そんな理屈はともかく、パーティー会場の入り口で、二人は立ち往生して、前へ進めなくなってしまった。
「もっと笑って!」
と、ゆかりが浩志に囁く。「それじゃ、お通夜に出てるみたいよ」
「そう言われたって……。これでも、精一杯笑ってるんだ」
と、浩志は言い返したが、確かに、「笑っている」というより、単に顔が引きつっているに過ぎないだろうということは、自分でも分かっていた。
カメラのレンズとは別に、メモを取ろうと身構えた記者たち。
「ゆかりさんとのご関係は?」
「お名前と職業!」
「年齢、体重!」
これで血圧、視力まで訊かれたら、健康診断だ、と浩志は思った。
「詳しいことは後ほど!——ゆかりは、後のスケジュールが詰まってるんです!」
大宮の必死の叫びも、何度かくり返されると、やっと聞いてもらえたようで、徐々に洪水の水が引いて行くように、二人の周囲の壁はなくなって行った。
「ああ、やれやれ」
大宮が、ハンカチで汗を拭いた。
「ご苦労さん」
と、西脇がやって来て、浩志の肩を叩く。「もうしばらくの辛抱ですよ。何か食べますか」
「とてもそんな気になれませんね」
と、浩志は言った。
浩志だって背中を汗が伝い落ちている。一刻も早く、「お役ご免」にしてほしかった。
「ともかく、パーティー会場の中を、ゆっくり回って下さい。ゆかりはきっとサインをせがまれたりする。こういう所の客は大切にしませんとね。あなたはその間に、軽く食べたり飲んだりして下さい」
「そんなことはいいですけど……。例の『その筋』の人たちはどこにいるんです?」
「一番奥の方です。ちゃんと私がゆかりを紹介しますから、ご心配なく」
「はあ……」
パーティーは立食形式で、たぶん三百人くらいの規模だろうと思われた。浩志も総務で、こういうパーティーの手配や裏方をやらされることがあるので、見当がつく。
出席者のほとんどは、重役タイプの男性で、専ら飲むばかり。おかげで、せっかく高い金を出して用意された料理は、ほとんど手つかずで余ってしまうのである。
もったいない!——浩志は、自分が金を出すわけではないにしても、つい、そう思わずにはいられなかった。
浩志は、大宮に先導される格好で、ゆかりとしっかり腕を組んで、会場の中を進んで行った。あちこちから、赤い顔のおっさんが、
「ゆかりちゃん! 元気でやってる?」
と、声をかけて来たりするが、ゆかりは、
「おかげさまで」
と、ニッコリ笑って答えておいて、「——誰だっけ?」
と、後で大宮に訊いている。
「や、安土ゆかりさんですね。娘が大ファンで……。一緒に写真をとっていただけますか」
どう見ても「自分が」一緒に写真をとりたいのだろう。初老の、中小企業の社長って感じの男だ。
「ええ、どうぞ」
と、ゆかりも愛想良く肯く。
一旦、浩志はゆかりから離れた。
「——今の内に、何か食べたらどうです?」
と、大宮に言われて、浩志は少し迷ったが、ちょうど料理をのせたテーブルの前に立っている。
一皿何かとるか。
皿を手にして、目につく料理を二つ三つとっていると、
「それ、おいしくないわよ」
と、すぐわきで声がした。
「邦子!」
浩志は、原口邦子がいつの間にか隣に立っているのを見て、目を丸くした。
「事務所の社長さんについて来たの」
と、邦子は皿にとった料理を食べながら、言った。「夕食代も浮くしね」
「そうか……。びっくりしたよ」
「こっちよ、びっくりしたのは」
と、邦子は笑って、「誰だろう、って首ひねっちゃった」
「これには色々わけがあるんだ。アルバイトなんだよ」
と、浩志が急いで言った。
「浩志! 行こう」
と、ゆかりがやって来て、「——邦子!」
「やあ」
「来てたの? 知らなかった!」
ゆかりは、学生時代に戻ったように、ピョンと飛びはねた。「ね、一度ゆっくり会おうよ、三人でさ」
「そうね」
邦子は肩をすくめて、「でも、ゆかりの方が大変でしょ、スケジュール押さえるの」
「そんなこと言わないで」
ゆかりは、突然真顔になった。「会いたいんだ。本当だよ。時々、むしょうに会いたくって……。だって——友だちなんて、いないじゃない。邦子と浩志以外に」
邦子の顔に浮かんでいた、ある「こだわり」が、スッと消えたようだった。
浩志は、このまま、いつまでも二人をそっとしておいてやりたいと思った。しかし、そうはいかないのだ。
「ゆかり、行くぞ」
と、西脇がやって来た。
「ええ。——じゃ、邦子、電話する」
「うん」
邦子は微笑んで、「頑張って。体、こわさないでね」
「バイバイ」
ゆかりは名残惜しそうだったが、西脇に引っ張られて、人ごみの中へ消えた。
「さて、僕も仕事だ」
「何なの、一体?」
と、邦子が訊く。
浩志が手短に説明すると、邦子は、
「とんでもないこと頼まれたのね」
と、呆れている。「よっぽどギャラをふんだくってやんなきゃ」
「そうだな」
浩志は笑って、皿を置いた。「じゃ……。まだいるのかい?」
「もう少ししたら、出るわ。少女雑誌のインタビューがあるの」
「そうか。——じゃ、また」
浩志は、邦子の肩に軽く手をかけて、それから、ゆかりの後を追って行った。
——立食パーティーでも、壁ぎわに必ず椅子が並べてある。ずっと立っているのはきつい、という客も少なくないからだ。
「問題の客」は、会場の一隅に、腰をおろして、数人の男たちに囲まれていた。
にぎやかなパーティー会場の中で、その一画だけは、周囲から切り離されているように見えた。
もちろん、見るからに「その筋」の人間、という格好をしているわけではないから、一見してそれと分かるわけではない。むしろ、その連中に接する人間たちの態度がガラッと変わるので、それと知れるのである。
浩志がゆかりのそばへ行ったときには、西脇が、椅子に座っている初老の紳士に、挨拶しているところだった。
「——あれか」
と、浩志は呟いた。
見たところ、人のいい重役というタイプ。服のセンスも悪くない。
「ゆかり、ご挨拶しなさい」
と、西脇が呼ぶと、ゆかりは仕事用の笑顔になって、進み出る。「安土ゆかりです。よろしくお願いします」
と、頭を下げると、
「やあ、いつもTVで見てますよ」
と、相手はわざわざ立ち上がり、相好を崩して、ゆかりと握手した。
カメラのフラッシュが光る様子はない。浩志はホッとした。
「国枝です。よろしく」
と、ゆかりに頭まで下げる、その男を見ていて、浩志はふと寒気を覚えた。
確かに礼儀正しいが、それは当たり前の礼儀正しさとはどこか違っていた。六十にはなっているだろう。白髪の穏やかな紳士という印象の、その国枝という男、笑顔はやさしいが、目は笑っていない。
「まあ、かけなさい。忙しいんだろうね」
ゆかりは、国枝の隣に腰をおろすことになった。——西脇としても、そうすぐにゆかりを引き上げさせるわけにはいかないのだろう。
「はい」
ゆかりは緊張の面持ちで、チラッと浩志の方を見た。それに目ざとく気付いて、国枝は、
「あれは誰かね?」
と、ゆかりに訊く。
「あの……友だちなんです。学生のころからの……」
「ああ、なるほど。こっちへ呼びなさい。そんな所へ突っ立ってることはない」
国枝が手招きする。浩志もそれを拒むわけにはいかなかった。
「なかなか二枚目じゃないか」
と、国枝が笑顔で言ったが、浩志の方は顔も体もこわばってしまって何も言えない。
「そうそう。ゆかりさんに会わせたい男がいる。——おい、呼んで来い」
国枝の一言で、立っていた若い男がパッと飛んで行った。
「いや、実はね、息子がゆかりさんの大ファンで、今日会うのを楽しみにしてるんですよ」
と、国枝は言った。
国枝の息子は、全く父親に似ていなかった。浩志が、本当にこの二人、親子だろうかと思ったほどだ。
色白で、ちょっと太り気味のその若者は、表情というもののほとんどない顔つきで、やって来た。
「——息子の貞夫です。おい、本物の安土ゆかりさんだぞ」
と、父親に言われても、ニコリともせず、オレンジジュースのグラスを手にしたまま、ちょっと頭を下げただけだった。
ゆかりはきちんと立ち上がって、
「安土ゆかりです。よろしくお願いします」
と、頭を下げた。
国枝貞夫は、それに応えるように、もう一度頭を下げたが、やはり何も言わない。
ちょっと気味が悪いな、と浩志は思った。
「いや、緊張してるんですよ、こいつ」
と、父親の方が笑って言った。「憧れの人に会えたんだからな。そうだろう?」
貞夫は、しかし、ゆかりを見てはいなかった。隣の浩志の方を、何とも言えず暗い目つきで見つめていたのである。
「——どけよ」
と、貞夫が言った。
浩志は面食らった。突然、見ず知らずの人間に向かって、そんな口をきくなんてことは、普通では考えられない。
「おい、貞夫」
と、父親がたしなめるように言った。「そちらは、ゆかりさんのお友だちだ。失礼なことを言っちゃいけない。俺の隣へ来い」
しかし、父親の声などまるで耳に入っていない様子で、貞夫は、今度ははっきりと浩志の前に立って、
「そこ、どけよ」
と、くり返した。
浩志は、逆らわないことにした。この若い男の目には、どこかまともでないものがある。
「分かりました」
と、浩志は立ち上がった。「どうぞ」
しかし、相手はそれだけですませるつもりではなかったのだ。
「あっちへ行けよ」
と、まるで子供が犬でも追いやるような言い方で言った。
浩志は、ゆかりが困ったように西脇を見るのをチラッと横目で見た。言われた通りにするわけにもいかない。ゆかりだって、こんな男にそばにいられたくないだろう。
「ゆかりとはこの後、予定がありまして」
と、浩志が言うと、貞夫がいきなり——全く唐突に、手にしていたグラスのジュースを、浩志の白いタキシードの胸にぶちまけた。
「着替えた方がいいだろ」
と、貞夫は言った。
浩志は、血の気のひいた顔で立っていた。周囲が静まり返って行く。
人目に付かないように、という西脇の考えは、全く裏目に出てしまった。
パーティー会場の一隅でのこの出来事は、人目をひかずにはいなかった。
浩志は動かずに立っていた。タキシードの胸にかけられたジュースが、下のシャツを通して、肌に冷たい。
もちろん、腹も立った。しかし、どう見てもまともでない、この若い男のそばにゆかりを残しては行けない、と思っていたのである。
国枝貞夫は、じっと浩志を見つめ、浩志も見返していた。怒りは抑えて、ただ相手の目を見ているだけだ。
貞夫は、おそらく、ゆかりの「友だち」というだけで、やきもちをやいたのだろう。しかし、感情らしいものが、その冷たい目の中に全く読みとれないのが、却って気味悪かったのである。
ゆかりは怯えたような目で、浩志と貞夫を見ている。——西脇も、どうしていいか分からない様子で、誰もがストップモーションのかかった画面のように、動かなかった。
すると、周囲に集まって来た客をかき分けて、タッタッと進んで来たのは、邦子だった。
「あらあら」
邦子は、さりげない声で言って、「しみになるわよ、早く拭いとかないと。待ってね」
と、テーブルから水のコップを持って来ると、自分のハンカチを出し、それを水に浸して、浩志のタキシードを拭い始めた。
邦子が、浩志と貞夫の間に入ったことで、辺りを縛っていた緊張がとけた。
「——どうも失礼した」
と、国枝が立ち上がって言った。「こういう席は、年寄りには疲れる」
そして、貞夫へ、
「おい、帰るぞ」
と、言った。「——ゆかりさん、失礼しましたな」
「いいえ……」
「そのタキシードの分は、弁償しましょう。言って来て下さい」
国枝は、若い者たちへ、「行くぞ」
と、声をかけると、ゆっくり歩き出した。
客たちが左右へ割れて、道ができる。
息子の貞夫の方は、じっと浩志を見ていたが、若い者の一人が、
「坊っちゃん——」
と、声をかけると、
「行くよ」
と、ぶっきら棒に言って、グラスをポンと放り投げた。
グラスの砕ける音が、ドキッとするほど大きく響きわたった。そして、貞夫は父親の後を追って歩いて行く。
ゆかりが体中で息を吐き出すと、両手で顔を覆った……。