「すみませんでしたね」
と、西脇は恐縮していた。「まさか、あんなことになるとは」
「いや。でも何ごともなくて良かった」
浩志は、しみのついたタキシードの胸の辺りを見下ろして、「これも別に、僕のもんじゃないですしね」
パーティー会場を出て、ゆかりと浩志はロビーで休んでいた。
「私、怖かった」
と、ゆかりはまだ青ざめている。
「気味の悪い男だったな」
「それだけじゃないわ。どうかしてるわよ。まともじゃない!」
「しかし、あの国枝ってのは、相当の顔役でしてね」
と、西脇が言った。「あんな息子がいたなんて、知らなかった。——いや、全くご迷惑かけて」
大宮が、汗をかきかきやって来た。
「車はもう玄関に回してあります」
「何をぐずぐずしてたんだ」
「すみません。玄関の所に、あの連中がいて、なかなか帰らないもんで、待ってたんです」
「そうか。——ゆかり、時間だ。打ち合わせがある」
「私、行きたくない」
と、ゆかりはソファに身を沈めて、「くたびれちゃった」
「そうはいかないよ。向こうが待ってる」
ゆかりも、行かないわけにいかないことは、よく分かっている。しかし、少しでも遅らせたいのだ。
「行くか」
と、諦めたように立ち上がり、「ね、浩志も行こう」
「僕は明日、会社がある」
「へえ。私より会社の方が大事なの」
「おい、ゆかり。石巻さんを困らせるんじゃない」
「いいんです」
と、浩志は笑って、「じゃ、車までだ。それで手を打つ?」
「許してやる」
と言って、ゆかりは笑った。
そして、浩志の腕にしがみついて、ぶら下がるように歩き出す。
「おい、重いよ。——やめろったら!」
と、浩志は悲鳴を上げた。
——ホテルの玄関で、西脇はゆかりを先に車へ乗せると、
「色々どうも」
と、礼を言った。
「いえ、アルバイトですからね」
「そうだ。明日、バイト代をアパートへお届けしますよ。タキシードはその子に渡して下さい。夜の方が?」
「夜でなきゃ、いませんよ、普通は」
と、浩志は言ってやった。
ゆかりたちの車を見送って、浩志は一旦パーティー会場へと戻った。
まだ邦子がいるかもしれない、と思ったのである。
パーティーもそろそろ帰る客がいる。ちょうど、その中に原口邦子の姿を見付けた。
「邦子。もう行くのか」
「あら。——だって、これでも三十分遅刻なのよ」
と、邦子は言って、そばの女性に、「ついでにあと五分。ね? 社長さんに内緒よ」
邦子のマネージャーであるその女性は、ちょっと笑って、
「五分よ。五十分じゃなくて」
と、言った。「一本タバコすって来る」
邦子は、浩志を少し離れた所へ引っ張って行くと、
「ゆかり、大丈夫だった?」
と、訊いた。
「ああ。ちょっと怯えてたけど」
「当然でしょ。——怖かったわね、あの人」
「君が来てくれて助かったよ。それを言おうと思って」
邦子は、ちょっと肩をすくめて、
「それが役者よ」
と、言った。「もう社長さんがいなかったしね。カメラマンも、あらかた帰ってたみたい。幸運だったわね」
浩志は、邦子の澄んだ目を、じっと見ていた。邦子は少し頬を赤らめて、
「何よ、ジロジロ見て」
「いや、別に……。本当にさ、三人だけでゆっくり会おう。僕の所でまずきゃ、克子の部屋でもいいし」
「そうね」
邦子は愉しげに、「昔みたいに、キャーキャー騒ぐか」
「たまには必要だよ」
邦子は首を振った。
「必要だから会うんじゃ、仕事の打ち合わせと同じじゃない。意味もなく会うの。それがいいのよ」
「ああ、そうだね」
「克子さん……元気?」
「勝手にやってるさ。あいつは大丈夫」
「たまには会ってる?」
「たまに、ね」
「時々、見に行ってあげないと。しっかりしてるけど、寂しいのよ」
浩志は、少し戸惑った。
「克子が何か言ったのかい?」
「そうじゃなくて……。どっちかっていうと、私は克子さんと似たタイプだから、分かるの。あんなことがあって、とても傷ついてるだろうし……」
浩志は、邦子の優しい笑顔を見ながら、
「君は、もう大丈夫なのか」
と、訊いた。
「私? 私は平気」
と、邦子は腰に手を当てて、バレリーナのように、クルッと回って見せた。「私って得なのよね。見たとこ、神経が繊細でしょ。割と同情を買いやすいタイプ。ゆかりなんかは、いつも明るいイメージだからね。可哀そう」
浩志は微笑んだ。
「そうだな。——君は、ちゃんと自分で目標を決めてる」
「そうよ。それが大切なの。いくら仕事が入って、忙しくても、何か一つずつ挑戦して征服していくんでなきゃ、つまらないじゃない! 今の私には、三神憲二っていう『相手』がいるんだもん。何があろうと、平気」
浩志も、言葉通りに受け取っているわけではないが、こうして自分を励ましている邦子を冷やかす気にはなれない。
ゆかりが、生まれついてのスター(そんな人間がいるとすればだが)だとすると、邦子は生まれながらの役者である。——旧友の前でも、邦子は「幸福」を演じている。
それは見ていていじらしいほど、みごとだった。
女性マネージャーが戻って来て、邦子は、ちょっと浩志の手を握ると、
「じゃあね」
「こっちからも連絡するよ」
「うん。楽しみにしてる」
邦子は、マネージャーと一緒に、急ぎ足で歩いて行った。
浩志は、邦子の姿が見えなくなるまで見送っていたが、やがて、少し疲れが出て来たのか、ウーンと伸びをした。
「帰るか……」
と呟いて、「妙な夜だったな」
首を振って、ちょっと肩をすくめる。
そして浩志は、ホテルの正面玄関へ出るべく、エスカレーターの方へと歩いて行った。
パーティーがどこか他の会場でも終わったらしく、タクシー乗り場は、ズラッと行列ができていた。
この白のタキシード、しかもジュースのしみつき、という格好では、電車で帰るのも気が進まない。仕方なく、浩志は列に並んだ。
待つこと三十分。やっとタクシーに乗ったときには、少し腰が痛くなって来ていた。
どうしようか。——少し迷ってから、浩志は克子のアパートへ寄ることにして、運転手に行き先を告げた。
雨が降り出している。
車のライトの中で、雨が細いクモの糸のように光った。
浩志の乗ったタクシーが出ると、すぐ、玄関前の目立たない位置に停めてあった車が動き出し、タクシーの後について走りだした……。
昼休みになると、浩志はたいてい一人で食事をする。
同僚の多くは、たいてい連れ立って、この近くのソバ屋だの、ランチの安いレストランを捜して行くのだが、浩志は、昼には一人になりたい、と思う方である。
だから、あんまり同じ会社の人間が来ない店を選んで行くのだが、それが裏目に出ることも、ないではない。
時には、部長の一人が、どう見てもただの仲ではない女性と昼食をとっていて、必死でそっちを見ないふりをしてみたり、まさか、と思う課長が、サラ金の取り立て屋らしい男に平身低頭しているのを目撃したり……。
まあ、面白いと言えば確かに面白いが、浩志自身は、他の人間が何をしていようが、あまり関心ないという性格。
今日も、ランチの〈Aコース〉を一人でとっていると……。
「石巻さん」
と、森山こずえがやって来た。
「やあ。珍しいね」
「たぶんここだと思ったの。——座ってもいい?」
「もちろん。もう昼は?」
「すませたわ。——コーヒー下さい」
と頼んでおいて、「もしかしたら、安土ゆかりと待ち合わせかな、と思って」
浩志はドキッとした。
「何の話だい?」
「とぼけたって、だめ。これ、石巻さんじゃないの」
と、森山こずえが見せたのは、スポーツ紙の芸能欄。
もちろん、白のタキシードの浩志が、ゆかりと腕を組んでいる写真が、でかでかとのっている。
「それか。——課長からも言われたよ。似てるな、って。ちゃんと出てるだろ。どこだかの実業家の息子だって」
でたらめな経歴は、大宮がでっち上げたものだ。
名前は単に〈O氏〉となっていた。
「ごまかしてもだめ」
と、こずえが愉しげに言った。「隣の席でいつも仕事してんのよ。分からないと思ってるの?」
「しかし、ちゃんと——」
「それに原口邦子と親しいじゃない。原口邦子は、安土ゆかりと同じ高校の同級生。偶然とは思えないわね」
こずえはぐっと身をのり出して、「どう? 白状したら?」
と、問い詰めて来た。
浩志は、ため息をついた。
「分かったよ……。でも、これは内緒だぜ」
「誓うわ」
と、こずえは胸に手を当てて、大げさに言った。
浩志が、ゆかりの「臨時の恋人」役をやるはめになった事情を説明すると、こずえはコーヒーを飲むのも忘れて、聞き入っていた。
「——大変ね! じゃ石巻さん、本当に、安土ゆかりとも親しいんだ」
「うん……。親しい、ったって、恋人とかってわけじゃない。原口邦子と同じ、話し相手さ」
「でも、面白いじゃない!——その暴力団の顔役って、どんな風だった?」
「いや、それがね……。どうにも——」
浩志がパーティーでの出来事を話すと、森山こずえは真顔になった。
「怖いわね。スターってのも、楽じゃないのね」
と、首を振って、言った。
「僕はどうってことないけど、ゆかりみたいに、いつも人の目にさらされてる人間は可哀そうだよ」
こずえが、ちょっと笑った。
「何かおかしい?」
「だって——石巻さんって、本当にやさしいんだなあ、と思って」
「どうかな……」
浩志は曖昧に言った。「こういう役割が、性に合ってるのさ」
「その内、どっちかの子と恋愛関係にはならないの?」
「無理だろうね。二人とも、昔からよく知りすぎてるからな」
コーヒーを飲み終えて、「行こうか」
と、浩志は立ち上がった。
「コーヒー代、いいの? ごちそうさま」
こずえと二人で、会社のビルへと戻って行く。
「このこと、秘密だぜ」
と、ビルへ入る前に、浩志は念を押した。
しかし、それはむだなことだったのだ……。
「——石巻さん」
と、受付の子が、青い顔でやって来た。
「何だい?」
「お客様なの。あの——」
「何か苦情?」
「そんなんじゃなくて……」
と、受付の子が、指で頬にスッと線を引いた。
ヤクザ? まさか!
しかし、実際、受付に立っている二人の男は、一見してそれと分かる風体だった。
「——何かご用ですか?」
と、浩志は言った。
「国枝さんの坊っちゃんからの伝言でね」
と、一人が言った。
「誰のことです?」
「とぼけてもだめさ」
と、その男は笑った。「ちゃんと、あんたの後をつけたんだ。アパートもつき止めてあるよ」
時間がまずかった。
ちょうど昼休みの終わりの時間、ゾロゾロと同僚や上司がエレベーターを出て来る。一見してヤクザと分かる男たちと浩志が話しているのを、目に止めない人間は、一人もいなかった。
「迷惑ですね」
と、浩志は、できるだけ落ちついた口調で言った。「こっちは普通の勤め人ですよ」
「実業家の坊っちゃんじゃなかったのかい?」
と、ヤクザの一人が笑って言った。「ま、それはそれとして……。ともかく、坊っちゃんはあの娘に惚れていなさるんだ。あんたは一切手を引けってよ」
「無茶な言いがかりだ」
「無茶は承知さ。それを通すのが、俺たちの商売だ」
と、相手はニヤついている。「あの坊っちゃんはな、こうと思い込んだらしつこいんだぜ。ま、悪いことは言わねえよ。あの娘から手を引くこった」
浩志は、男たちが、わざとらしく肩を揺すって帰って行くのを、じっと見送っていた。その仕草は、ふき出したくなるほどこっけいだったが、もちろん笑っていられる場合ではない。
「石巻さん……」
と、そばで見ていた、森山こずえが言った。
「まずいことになった」
と、浩志は首を振った。「ちょっと電話をかけて来る。すぐ戻るよ」
「分かったわ」
浩志は一階へ下りると、公衆電話で西脇へ電話をかけた。
しかし、西脇はどこだかロケの現場へ出向いていて、今日は戻らない、という。
ゆかりの居場所、と思ったが、向こうもすぐにはつかめないらしい。
「じゃ、連絡がついたら、大至急電話をくれと——。マネージャーの方でもいいですから。——そう、石巻あてに」
電話を終えて、エレベーターに乗ると、浩志はフーッと息をついた。
ゆかりもとんでもない奴に惚れられたもんだ。しかも、向こうは浩志のアパートまで、ちゃんと知っている。
浩志は、ゆかりの身が心配だった。ああいう手合いは、どんな乱暴な手段をとるかもしれない。
「——呑気だな」
と、浩志は苦笑した。
それこそ、自分のクビの方を心配しなくちゃならないかもしれない、というのに。
席へ戻ると、こずえが、
「早速部長がお呼び」
と、低い声で言った。「空いてる会議室へ来いって」
浩志は、結局、椅子にかける間もなかった。
部長の風間は、仏頂面で浩志を待ち受けていた。
もともと、いつも胃の具合が悪いと言ってこぼしている男である。
「おい、どういうことなんだ」
と、口を開くなり言った。
「色々複雑でして」
と、浩志は言った。「スポーツ紙の記事をご覧になりましたか」
「ああ。——あれはお前なのか?」
と、風間はメガネを直した。
「実は、頼まれて、あの役を引き受けたんです」
ここは正直に話すしかない。
浩志は、ゆかりと同郷で、昔なじみであることから、あのパーティーでの出来事まで、かいつまんで話した。
風間は呆気にとられている様子で、
「TVドラマみたいな話だな!」
「ドラマなら楽ですが、これは現実のことなんです」
と、浩志は言った。「会社にご迷惑をおかけするようなことはないと思いますが……」
「いや、俺はまた、お前がサラ金で、借金でもこしらえたかと思ったんだ」
と、風間は言った。「大変じゃないか、お前も」
「はあ……。しかし、ゆかりの方が心配です」
「『ゆかり』か。——そんな旧友がいたとはな」
「お騒がせして、申し訳ありません」
浩志は、立ち上がって、「もう戻っていいでしょうか」
「ああ、構わん」
ホッとして、退出しようとする浩志へ、
「おい、石巻」
と、風間が声をかけた。
「は?」
「今度……もし、その——ゆかりさんに会うことがあったらだな、一つ、サインをもらってくれるか」
浩志は、風間が少年のように真っ赤になっているのを見て、おかしくなった。
「頼んどきます」
「ああ。ついででいいからな」
——席へ戻って、浩志は、仕事にとりかかった。
しかし、どうにも落ちつかない。ゆかりは大丈夫だろうか?
電話が鳴って、急いで出てみると、マネージャーの大宮からだった。
「良かった! ゆかりは、今、一緒ですか?」
「ええ。鎌倉で、グラビアの撮影がありましてね。どうかしましたか」
浩志の話で、きっと大宮は真っ青になっていただろう。すぐ社長へ連絡する、と言った。
浩志はとりあえずホッとしたが、社内に自分とゆかりのことが知れ渡ったことは、間違いなかった。