会社のビルの前には、まだあの赤いスポーツカーが停まっていた。昼ごろ出社して来た石巻浩志は、その車を見て、ちょっと顔をしかめた。車のキーは、ポケットに入っている。
いつまでも、こうしてここに置いておくわけにはいかないだろうが、といって一度でも運転してしまったら、国枝のこの「贈りもの」を受け取ってしまうことになる、という気がして、いやだったのだ。
どうしたものか。困ることがいくつも重なって来る。人生というのは、こんなものかもしれない。
——オフィスへ入ると、昼休みで、中はガランとしている。浩志は、遅刻届の用紙をとって、席についた。
電話が鳴って出ると、
「お兄さん?」
と、克子の声。
「やあ。今、来たんだ。親父は?」
「出て来るときは寝てた。ゆうべ、外へ出て、自動販売機で——」
「酒か」
「うん。部屋の中が酒くさくって。いやなの。今夜は帰らないかもしれない」
「おい、克子。——大変なのは分かるけどな。俺の所へ来させようか」
「同じことよ。どうだった、話?」
浩志は、今日、午前中に、大学時代の友人が勤める弁護士事務所へ行って来た。父の家と土地の件で、相談してみたのである。
もちろん、浩志の側としては、父の話しか聞いていないわけで、書類もないわけだから、あくまで仮定の話しかできなかったのだが、その友人は、
「よっぽど書類に不備でもない限り、むずかしいな、裁判に持ち込んでも」
と、言った。「それに、向こうは親父さんを追い出したわけじゃない。勝手に出て来ちまったんだろ?」
それは確かにそうだ。
家も土地も失って、父が、妻とその愛人のいる家で、生活できるわけがない。しかし、それはあくまで父のプライドの問題である。
「登記簿とか、調べることはできるよ。しかし、費用はかかる」
それは浩志にも分かっていた。おそらく、法子は抜け目なくやっているだろう。
「——たぶん、むだだろう」
と、浩志は克子に言った。「もちろん、依頼して、調べてもらうことはできる。しかし、金がかかるし——」
「お父さんが馬鹿だったのよ」
克子は腹立たしげに言った。「だから、やめとけ、って言ったのに。あんな女と……」
「今さら言っても始まらないさ。そうだろ? カッカするだけ損だ」
浩志は、なだめるように言った。
「そうね」
克子は気をとり直したように言った。「で、どうしようか?」
「差し当たり、親父をどこに住まわせるか、だ。——色々あったしな。どこか小さなアパートでも見付けて、そこに一人でいさせるか」
「捜してくれる?」
「うん。心当たりを当たってみる」
「でも——一人で、暮らすかしら? そんなこと、したことのない人よ」
「そうなんだ。どんな暮らしぶりになるか、考えただけでも……」
「どこか近くを見付けて」
と、克子はため息と共に言った。「時々、掃除や洗濯には行ってあげる。食事は適当に外でとるでしょ」
「悪いな。忙しいんだろ」
「お兄さんは、ゆかりさんと邦子さんのことで手一杯でしょ」
克子が冷やかすように言った。「じゃ、また電話してね。——あ、私からかける。アパートに戻らないかもしれないから」
「どこに泊まるんだ?」
「そりゃ、男とホテルによ」
克子は、ちょっと笑って、「じゃ、また」
と、電話を切った。
浩志は、大きく息を吐き出した。
父が転がり込んで来た。——思いもかけないことだ。
浩志が高校三年生のとき、母が死んだ。父はもともと昔風のわがままな亭主で、浩志も克子も、母がずいぶん苦労するのを見ながら育って来たのだ。
母も心労が重ならなければ、あんなに早死にしなかっただろうが……。
父への屈折した思いは、母の死後、半年もしない内に、父が再婚すると言い出して、爆発した。
法子というその女は、母が生きている内から、父と親しい仲だったのである。
法子と父との結婚式の日、浩志と克子は家を出て、上京した。そして——もう七年になる。
克子にとって、父と一緒に暮らすことは堪えられないだろう。もちろん浩志だって、そうだ。
ともかく、早くどこかアパートを見付けて、父にはそこで一人暮らしをしてもらう。——そう浩志は決めていた。
父も、今は後悔しているだろうが、自分のしたことの「つけ」は、自分で支払わなければならない。子供ではないのだ。
納得ずくで、家や土地を失ったのなら、それを取り戻すことはできまい。
プライドの高い父が、法子の所へ戻るとは、とても思えなかった。——もともと酒好きな父が、無気力なまま、酒に溺れて行く。その姿が目に見えるようだった。
それは、アッという間かもしれない……。
邦子は、汗が背中を伝い落ちて行くのを感じていた。
体力作りのために始めたジャズダンス。何ごとにも必死になるタイプの邦子は、この教室でも、驚くほどのスピードで上達している。もともと運動は得意な方だし、日ごろから、ジョギングなどで体は作って来た。
快く汗を流すのは、嫌いではなかった。むしろ、何もかも忘れて打ち込めるという点では、こういう時間が必要だったとも言えるだろう。
「はい、一休みしましょう」
と、インストラクターの女性が言った。「邦子ちゃん、とてもいいわ」
「ありがとうございます」
邦子はタオルを手に取った。
「まだ時間は大丈夫なの?」
「ええ。今日は仕事ありませんから」
邦子は、ベンチに腰をおろして息をついた。顎から汗が落ちる。
ゆかりは、たぶん、こんなことをしている時間もないだろう。アイドルも役者も、体力が勝負、というところがある。いつまでも気力だけではもたないだろうが……。
誰かが、邦子の前に立った。
顔を上げると、その男は、
「原口君か」
と、言った。「三神だ」
邦子はパッと立ち上がった。——三神憲二。次の映画の監督である。
「原口邦子です。よろしく」
と、頭を下げる。
「この近くのスタジオで、今とってるんだ」
と、三神は言った。「君がここにいると聞いてね」
五十歳にはなっているはずだが、がっしりした体つき、上背もあって、とてつもないエネルギーを発散している。浅黒い顔にサングラスをかけているのは、いかにも「監督」風だが。
「前の映画が延びてるとか……」
と、邦子は言った。
「うん。しかし、必ずやる。大丈夫だ。君が作品の要になるからね。頑張ってくれ」
「精一杯やります」
と、邦子は言った。
「近々、製作発表があるはずだ」
「私も出るんでしょうか」
「もちろんだ。連絡が行くと思うよ」
「はい」
邦子は胸がときめくのを覚えた。——製作発表の席に座るのは初めてのことだ。
もちろん、いい仕事ができれば、それでいいのだが、やはり注目されるのは嬉しい。
「監督」
と、若い男が呼びに来た。「準備できました」
「今行く」
三神憲二は肯いて、「じゃ、また会おう」
と、邦子の手を驚くほどの力で握った。
三神憲二は、歩き出して、ふと振り向くと、
「この間、スーパーのレジ係をやってたね」
と、邦子に言った。
「はい」
邦子は赤くなった。役名もない、〈店員A〉だったのだ。
「身のこなし、とても良かった。——分かってるね。お腹から声を出すこと」
「はい」
三神憲二はニヤッと笑うと、
「楽しみだね、仕事が」
と、言った。「じゃあ」
邦子は、汗でべとつく肌のことも、すっかり忘れていた。
あんな小さな役を、三神憲二はちゃんと見ていてくれた! それは体の震えるほど、嬉しい出来事だった。
邦子の体の奥底から、熱く燃え上がるものがあった。
三神憲二に満足の行くような演技をするのは、大変だろう。しかし、必ずやりこなして見せる。邦子の小さな体は、エネルギーではちきれんばかりだった。
「ごめんなさい、突然」
と、克子は言った。
「どうしたんだ」
斉木は、少し苛々していた。「行く所があってね。あまりゆっくりはしていられないんだよ」
「うん。分かってる」
克子は、紅茶のカップを受け皿の上でゆっくりと回した。「ただ——会いたかったの」
「何かあったのか」
斉木も、少しやさしい口調になる。克子がこんな風に、「どうしても会って」と呼び出したのは初めてのことだからだ。
「ちょっとね」
克子は、父のことを斉木に話すつもりはなかった。彼には何の関係もないことだ。
ただ、克子は勇気づけてほしかったのである。父の待つアパートへ帰るのが、怖かったからだ。
父が怖いのでなく、父を憎んでしまう自分が怖かったのである。
「あなたとは関係ないこと」
と、克子は付け加えた。
「会社で上司にでもいじめられたか?」
と、斉木は笑顔を見せた。「そんなことで参る君じゃないよな」
「そうね」
克子は、時間を気にして、「行かなくていいの?」
「少しぐらい、大丈夫さ。何かよほどのことだね」
やさしくしないで。やさしくされると、泣いちゃう……。
克子の目に涙が浮かんだ。
「どうしたんだ?」
斉木は、びっくりした様子で、克子が涙を拭うのを見ていた。
克子は気丈な娘である。今まで、斉木の前で涙など見せたことはなかった。
「何でもないの」
克子は、笑顔を作って、「私だって、泣くことぐらいあるのよ」
「そうか。知らなかった」
「ひどい! そういう言い方って、ないでしょ」
克子がにらみ、斉木は笑い出した。これでいつも通りの雰囲気になったのである。
そう。——いつも私は「演技」してる。気楽な恋を楽しむOLの役を、うまくやって来た。邦子さんほどじゃなくても、結構いい役者なんだ、私って。
斉木はたぶん、そんなこと知りもしないだろう。克子がいつも「本音」を見せていると信じている。
だからこそ、こうやって付き合っていられるのだ。
「ちょっと待っててくれ」
と、斉木が腰を浮かした。
「あ、いいのよ。もう行って。忙しいんでしょ」
「うん。ともかく、待っててくれ」
斉木は、喫茶店のレジの傍らの赤電話へとテーブルの間を抜けて行った。
克子は、後悔していた。こんな風に斉木に頼っていてはいけない。自分の気持ちがコントロールできなくなったら……。
それは克子が何より恐れていることだった。自分が、斉木の家庭を壊してしまうようなことになったら……。
それは、かつて克子たちを深く傷つけた、父と法子がやったことと、少しも変わらなくなってしまう。
いや、克子の恋は、もちろん法子のように「金目当て」の計算ずくのものではない。しかし、どんなに克子が純粋な気持ちでいたとしても、斉木の妻や子にとっては、同じことだ。
夫を、父を奪った女、でしかない。——克子は、決してそうはなりたくない、と思っていた。
父の再婚の日、町の人々の、少々戸惑い気味な(それでも、大方の大人は、「タダ酒が飲める」だけで喜んでいたのだ)宴に背を向けて兄と二人で町を出た、あの夕方の寂しさと、やり切れない思い。
あの思いを、自分が誰かに味わわせるようなことがあってはならない。斉木と、こんなことにならなければ良かったのだ。それは分かっているが……。
「お待たせ」
斉木は戻って来て、言った。「用事は明日に延期したよ。これからどこかへ行こう」
克子は、ぼんやりと斉木を見ていた。
「そんなこと……。いけないわ」
「どうして? もう断っちまったんだ。構やしないさ。——君だって、時間はあるんだろ?」
拒むには、克子はあまりに疲れていた。父の待つ、酒くさいアパートの部屋。帰りたくない。——帰りたくない。
「うん」
と、克子は肯いた。「ね、映画、見よう」
「映画?」
「それからご飯食べて。そしたら、お宅へ帰って、接待だった、って言えるでしょ」
斉木は、不思議そうに克子を眺めていたが、
「いいのか、それで?」
克子は、斉木の胸に顔を埋めて、何もかも忘れたかったのだ。しかし、そうすると、もう後戻りできなくなる自分が、怖かったのである。
「うん!」
と、克子は元気良く言った。「今夜はね、そうしたいの」
「OK。それじゃ、出かけよう」
斉木も笑って言った。
克子はことさらに軽い足どりで、町へと飛び出して行った。
途中で食事をすませ、浩志は克子のアパートへと向かった。
克子が「帰りたくない」と言っていた気持ちは、よく分かる。町を出て来たとき、克子はまだ十四歳だった。
大人に対して、最も潔癖さを求める年代である。父の再婚が、克子をどんなに傷つけたか……。
よくここまで克子が頑張って来た、と浩志はいつも感心していた。その克子にしてみれば、父親が自分の勝手な都合で、自分のアパートへ転がり込んで来ることなど、許せなくて当然である。
克子のアパートは明かりが消えていた。
ドアを開けてみる。——鍵はかかっていなかった。
暗い部屋へ足を踏み入れると、酒くさい匂いが鼻をついて、ガーッ、といういびきが、浩志の足をすくませた。突然、自分が子供のころに戻ったような気がした。
気をとり直して、明かりを点ける。
父が、引っくり返って寝ていた。——酔い潰れていた、と言う方が正しいだろう。
克子は、もちろん帰っていない。それにしても、鍵もかけずに……。
「父さん」
と、浩志は大声で呼んだ。「父さん。——起きろよ」
「うん……。お前か」
父は、トロンとした目で、浩志を見上げた。
「克子はどうした」
「だめじゃないか、こんなに飲んで」
と、浩志は、空のカップを手にとって言った。
「酒でも飲まなきゃ、やることがない」
と、父は欠伸をした。「今だって、昔と同じくらいは飲めるんだぞ」
「そんなこと、自慢にならないだろ」
と、浩志は苦笑した。「克子は、たぶん帰って来ないよ」
「どこへ行ったんだ」
と、父が不思議そうに訊く。
この父の鈍感さが、浩志には信じられない。
「父さん……。僕と克子がどうして家を出たか、考えてみろよ。克子はあのとき十四だった。どんな気持ちで家を出たか」
父は、ろくに浩志の話など聞いていない様子で、
「いつもこんなに遅いのか、あいつ」
と、部屋の中を見回している。「男でもいるんじゃないのか」
「いたらどうなんだい? もう克子も子供じゃない。自分で働いて、稼いで暮らしてるんだよ」
父はフン、と唇を歪めて笑った。
「偉くなったもんだ。親に向かって説教する気か」
何を言ってもむだだ。——浩志にも、それは分かっていた。
都合のいいときだけ「父の権威」を振りかざす。それは自分の弱さの裏返しなのだ。
「ともかくね」
と、浩志は言った。「これからどうするか、考えなきゃ」
「どうする、ってのは、どういうことだ」
「父さんを、ここへ置くわけにはいかないんだよ。入居の契約でも、そうなってる。二、三日ならともかく、ずっとここにいるってことはできないんだ」
「自分の親の面倒をみちゃいかんのか。そんな分からず屋の大家なら、ここへ引っ張って来い。俺が意見してやる」
「馬鹿言わないでくれよ」
と、浩志はため息をついた。「父さんは何も分かってない。克子は父さんと一緒に暮らすのがいやなんだ」
父は、少し目が覚めた様子で、浩志を眺めていた。
「お前もか」
浩志は、じっと父の目を見据えて、言った。
「とても無理だね」
「育ててもらったことを忘れたのか。勝手な奴だ!」
父が憤然として横を向く。
「何とでも言うさ。——今日、この近くのアパートを捜して来た。一つ二つ、当たってみるから、決まったらそこへ移ってくれよ。克子が、掃除と洗濯くらいは、時々行って、やってくれる」
「俺に、どうしろって言うんだ」
「酒ばっかり飲んでたって、体をこわすだけだよ。——仕事見付けて、働いたら」
と、浩志は言ってやった。
父の顔色が変わった。
ようやく——七年もたった今になって、我が子が自分にどんな気持ちを持っているか、知ったのである。
「俺に働けって?」
「じゃ、どうするんだ? 僕だって克子だって、給料で何とかやってるんだ。父さんのために毎月、何万も出せやしないよ」
浩志ははっきりと言った。「僕にも、自分の生活がある。父さんには一人で住んでもらうしかない」
父の顔が紅潮した。しかし、何を言っても、浩志の意志は変えようがない、と悟ったらしい。
「もういい」
と、立ち上がって、よろけた。「そんなに邪魔なら、出て行く」
「どこへ行くんだ?」
「行くあてがないと思ってるんだろう。——冗談じゃねえ。ちゃんとこっちにだって知り合いはいるんだ。お前らみたいに薄情な奴に頼らなくてもな」
父は、自分のボストンバッグを引っ張り出して来ると、手近な物を詰め込んで、玄関へ行った。
「克子に言っとけ」
と、ドアを開けながら、「もう親子でも何でもない、ってな」
——浩志は、父の怒りに任せた足音が遠ざかるのを、じっと聞いていた。
体を縛っていた緊張がとける。
嵐が、一つ去って行ったような、ポカンとした空白。
浩志は、畳の上にゴロリと横になった。
疲れがどっと襲って来て、目を閉じると、いつか浩志は眠っていた……。
子供のころの夢を見た。——酔った父が、母を殴っているところ。母が夜中に一人で声を殺して泣いているところ……。
夢と分かっていても、見るのは辛かった。
——目を開けると、克子が、じっとこっちを見下ろしている。
「帰ったのか」
浩志は起き上がった。
「今ね。ドアの鍵ぐらい、かけといてよ」
「悪いな。眠るつもりじゃなかったんだ」
「父さんは?」
「出てった」
浩志が簡単に話すと、克子は肯いて、
「いいお友だちがいるのなら、それでいいじゃない」
と、言った。「酒くさい。窓開けるわよ」
「うん」
克子はガラッと窓を開けると、言った。
「〈父帰る〉か……。あんなもの書いた人、よっぽど幸せだったんだろうね」
克子の言葉には、七年間の日々が重く、感じられた……。