浩志が、そのTV局の玄関でタクシーを降りたときには、大宮の電話から四十分ほどたっていた。
「——あ、石巻さん」
ロビーへ入ると、大宮がすぐにやって来た。
「何か分かりましたか」
と、浩志は訊いた。
「今、社長があちこち当たってます。——申し訳ありません、僕がついていながら……」
大宮は、いっぺんに何キロもやせてしまったように見えた。
「どういう状況だったんです?」
「いや、ここでの仕事を終わって……。その玄関から出たんです。表にはハイヤーを待たせてありました。そのとき、気が付けば良かったんですけど、運転手が違ってたんです。でも、何時間もたってるので、他の車が来てることもありますし、大して気にしないで——。ゆかりさんを先に乗せて、僕は一旦ロビーへ戻りました。ちょっと、挨拶しなきゃいけない人がいたもんで。それで、もう一回出てみると——もう車はいなかったんです」
「ハイヤー会社へ確かめましたか」
「ええ。そしたら、待ってた車に、予定が変わったから、もう帰っていい、と連絡が入ったとかで……。結局、ゆかりさんを乗せて行ったのは、どこの車か、まるで分かりません」
大宮は、生きた心地もない、という表情である。
しかし、どう見ても、あの国枝貞夫のやったことには間違いないだろう。となると、ゆかりを見付けるのは難しい。
西脇が足早にやって来た。
「あ、石巻さん」
と、浩志に気付くと、「用心してたんですがね……」
「ゆかりの安全が第一です。国枝と連絡は?」
「今、やっととれましたが……」
「父親の方ですね? 何と言ってます?」
西脇は、重苦しい表情で、
「息子がやったことだという証拠があるのか、と逆に凄まれましたよ。言いがかりをつける気なら、考えがある、と言われて……」
と、ため息をついた。
「それで——どうするんですか」
「どうしようも……。連れ戻すにしても、どこにいるかも分かりません。それに国枝を敵に回したら、えらいことになる」
浩志はじっと西脇を見つめて、
「ゆかりのことは、諦めるんですね」
と、言った。
「いや……。しかし、助け出す方法が——」
浩志も、西脇にこんなとき、大した力がないことは、分かっていた。ここへ来るタクシーの中で、必死に考えていたのである。
もちろん、危険な賭けではあるのだが。
「西脇さん」
と、浩志は言った。「あなたは、仕事の上で、色々なしがらみもあるでしょう。でも、僕にとっては、ゆかり個人が大切なんです」
「もちろん、分かっていますよ」
「国枝はどこにいるんです?」
「国枝定治ですか? オフィス——というか、渋谷にビルを持っています。会員制のクラブとかの入ったビルで、その一番上が国枝のオフィスです。もちろん、〈組〉の事務所というわけですが」
と、西脇は言った。
「今、そこにいるんですね」
「ええ。しかし——石巻さん、まさか——」
「僕に考えがあります」
と、浩志は言った。「大宮さん。TVや週刊誌、スポーツ紙、何でもいい、ともかく連絡できる限りの所へ、すぐ電話を入れて下さい」
「どうするんです?」
「ゆかりの『恋人』についての情報はでたらめだった、と言って下さい」
大宮は目をパチクリさせて、浩志を見ていた。
そのビルは、一見いかにもけばけばしく、安っぽく見えた。
外見の派手さで人を圧倒しようとしている。——国枝のような人間にはお似合いだ、と浩志は思った。
ビルの中へ足を踏み入れるのに、少しのためらいもなかったと言えば嘘になる。——無事には出て来られないかもしれない。
いや、腕の一本ぐらいは折られる覚悟が必要だろう。しかし、ためらってはいられないのだ。
こうしている間にも、ゆかりは、あの国枝の息子にどんなことをされているか分からない。
浩志はエレベーターで、最上階へと上って行った。
汗が背中を伝い落ちて行く。ヒーローなんて、柄じゃないのだ。ただ、ゆかりを救いたいという、それだけの思いが、浩志を支えている。
扉がガラガラと開く。
目の前に、厳重な格子の扉があって、男たちが四、五人、椅子にかけていた。その内の一人は、国枝が浩志の所へ車を持って来たときに見た顔である。
「何だ」
と、一人がやって来る。
「国枝さんに会いたいんだ。緊急の用件だ」
と、浩志は言った。
「お前か」
と、浩志を見憶えている男が、呆れたように言った。「あのとき、話はつけたはずだぜ」
「国枝さんに会わせてくれ」
浩志はいつの間にか、背後にも男が二人立っているのに気付いた。
「黙って回れ右して、帰りな」
と、目の前の男が言った。「悪いことは言わねえよ。国枝さんは、しつこい奴が大嫌いなんだ」
「僕だってそうだ」
浩志は、じっと相手の目を見つめていた。「しかし、友だちのためなら、どんなに嫌われても食いついて行く」
「無鉄砲な奴だな」
いつ、後ろから殴られるか、腕をねじ上げられるか。——浩志は、ここまで来たら、どうせ後には引けないのだから、と開き直った気持ちになった。却って、気が楽になる。
「——よし。ここで待ってな。一応、話してみる」
と、相手は言って、奥へ入って行く。
浩志は、じっと立っていた。全身に緊張を漲らせている。周囲の男たちも、何となく気味悪そうに、浩志を見ていた。
時間が、とんでもなく長く感じられた。
あの男が戻って来ると、
「入りな」
と促した。
——重いドアが開くと、国枝が、大きなソファに身を沈めて、足を組んでいた。このビルによく似た(?)趣味の悪い派手なガウンをはおっている。
「よく来たね」
と、一応は笑顔を見せる。「まあ、かけたまえ」
「ゆかりはどこです」
と、浩志は立ったまま言った。
「私は知らんね。何も、あの娘のお守りをしているわけじゃない」
「それなら、息子さんにうかがいます。会わせて下さい」
国枝は、鋭い目つきになった。
「いいかね。君は、うちのせがれを誘拐犯扱いしているんだ。面白くないね」
「事実その通りなんですから、仕方ないでしょう」
「何だと?」
「申し上げておきますが」
と、浩志は真っ直ぐに国枝をにらみつけて言った。「ゆかりの身に何かあれば、僕はあなたの息子さんを訴えます。たとえゆかりが泣き寝入りするつもりだとしても、僕はそうはしません。——どんなことをしても、あなたの息子さんを刑務所へ入れてみせます」
国枝は面食らった様子で、浩志を見ていた。まさか、浩志がこんなことを言い出すとは、思っていなかったのだろう。
「君は、どうかしちまったんじゃないのか? ここがどこだか分かってるのかね」
「もちろんです」
「君の態度は、ここを生きて出られなくてもいい、と言ってるようなものだよ」
浩志は、肩に男の手がかかるのを感じた。——負けられない。浩志は、じっと国枝から目をそらさなかった。
国枝が、指一本動かせば、浩志は叩きのめされるだろう。
浩志は覚悟した。しかし、暴力ざたになれば、警察がやって来る。それは向こうにとっても、困ることのはずだ。
「社長!」
と、男が一人、飛び込んで来た。
「何だ?」
「ビルの外が——車で一杯です」
「何だと?」
国枝は立ち上がった。奥の部屋へ入って行くと、たぶん窓から下を眺めたのだろう、またすぐに戻って来る。
「おい、これはどういうことだ」
「報道陣の車ですよ」
と、浩志は言った。「僕とゆかりがここにいる、と連絡してあります。僕の本当の身許を公表すると言って、集めたんです」
「何て奴だ」
と、国枝は呆れている。
「社長、TV局の車も来ました」
と、また一人が駆け込んで来た。「野次馬も集まって来てます。どうしますか」
国枝は、当惑した様子で浩志を見ていた。
「——ゆかりと僕が出て行くまで、みんな待っているでしょう。もし、僕が大けがでもして放り出されたら、現行犯ということになりますよ」
国枝は何か言いかけて、また口を閉じた。
「今、ゆかりを返してくれれば、訴えないと約束します」
浩志の言葉を聞いて、
「俺たちをおどす気か?」
と、国枝は言った。
「ゆかりはどこです」
燃えるような、怒りのこもった目で、浩志はじっと国枝を見つめた。——無謀は承知の上だ。
国枝は、ゆっくりと息をついて言った。
「お前みたいな馬鹿は、初めて見た」
そして、「一緒に来い」
と促して、奥へと入って行く。
浩志は、国枝について行って、このビルが裏側で別のビルとつながっていることを知った。
薄暗い通路を抜けて、階段を下りると、国枝は、そこのドアを叩いた。
「——誰だ?」
と、あの息子の声がした。
「開けろ。父さんだ」
ドアが開くと、国枝貞夫が顔を出した。
「何だい? 今——」
浩志に気付くと、貞夫の顔色が変わった。
浩志は、貞夫の胸をドンと突いた。貞夫が尻もちをつく。
「ゆかり!」
と、部屋の中へ入って大声で呼ぶと、奥の部屋から、
「ここよ! 浩志!」
と、ゆかりの声がした。
浩志は、奥の部屋へと駆け込んだ。
大きなベッドがあって、ゆかりが毛布をしっかりと胸元にかかえ込むようにして、起き上がっている。
「ゆかり! 大丈夫か!」
浩志が駆け寄ると、ゆかりは黙って浩志に抱きついて来た。もう、何があっても離さない、というように。
「父さん、こいつ——」
国枝貞夫が、顔を真っ赤にして、浩志を追って入って来ると、「叩きのめしてやってくれよ! ぶち殺してよ!」
と、甲高い声でわめいた。
「よせ」
国枝は、息子の肩をつかんだ。「諦めろ。その女のことは、もう忘れろ」
貞夫は、耳を疑うように、
「何だって? どうしたんだよ」
と、父親を見た。
「腕一本、足一本ぐらいへし折ってやるのは簡単だ。しかし、そいつはそれを覚悟して来てる。痛めつけてもむだだ」
国枝は、息子の肩をポンと叩くと、「お前には、もっといい女を見付けてやる。諦めるんだ」
と、言った。
「いやだ! 僕はこの子が——」
貞夫は、父親の冷ややかな目に出くわして、黙ってしまった。
「俺は諦めろ、と言ったぞ」
たとえ息子でも、国枝は反抗することを許さないのである。貞夫の顔から血の気がひいた。
「分かったのか」
と、国枝は念を押した。
「——分かったよ」
貞夫が、弱々しい声で言った。
国枝は、浩志たちの方へ歩み寄ると、
「早いとこ帰ってくれ。私の気が変わらん内にな」
と言って、部屋を出て行く。
貞夫は、体を震わせながら浩志をにらみつけていたが、
「憶えてろよ!——その内、きっと——」
「来るんだ」
父親の声がして、貞夫は渋々ついて行った……。
浩志は、ゆっくり息を吐き出した。
「さあ、早いとこ出よう。外へ出りゃ安全だ。——ゆかり」
「浩志……」
ゆかりが、やっと浩志から離れた。毛布が落ちて、裸の胸があらわになると、ゆかりは赤くなって、あわてて毛布を引っ張り上げた。
「きっと、浩志が助けに来てくれると思ってた。私——まだ、何もされてなかったの。本当だよ。あんな奴のものになるくらいなら、舌かんで死んでやる」
浩志は、その辺に散らばったゆかりの服を拾い集めると、
「さあ、早く着て。後ろ向いてるから」
「見てもいいよ」
と、ゆかりが言って、やっと笑顔を見せた。
「からかうな」
浩志は、苦笑してゆかりの方へ背中を向けたのだった……。
「石巻さん。あなたには何とお礼を申し上げたらいいか……」
西脇が、助手席で振り向くと言った。
「僕は、友だちを助けただけですよ」
浩志は、後部座席のシートに身を委ねて、もう立てないような気がしていた。
三年も寿命が縮まった気分である。何とも、無茶をやったものだ。考えただけで冷や汗が出る。
ゆかりは……。浩志の方へ体をもたせかけて、眠っていた。
——国枝の所を出てからが、また大変だった。
待ち構えていた報道陣の前で、浩志は、再びゆかりの「恋人」役を演じなくてはならなかったのだが、それでも、国枝の所で腕でも折られることを考えれば、楽なものだ。できるだけサービスして、カメラに向かって、慣れない笑顔を作って見せたりもした。
「——西脇さん」
と、浩志は言った。「すみませんが、今夜一晩、どこかのホテルを取ってくれませんか」
「いいですよ」
「シャワーを浴びたい。サウナに入るより汗をかいたと思いますよ」
浩志の言葉に、西脇は笑った。
「——しかし、大宮さん」
と、浩志は少ししてから、言った。「あの国枝の息子は、まだ諦めてない。父親の方だって、今夜はともかく、明日はどう言い出すか分かりませんよ」
「用心します。もう二度とこんなことのないようにしますよ」
大宮は、車を運転しながら言った。
ゆかりが、ちょっと身動きして、浩志に体をすり寄せるようにすると、深々と寝息をたてた。
「——石巻さん」
と、西脇が言った。
「何ですか」
「今夜は……ゆかりと泊まったらどうですか」
西脇は、前方へ向いたまま言った。「ゆかりも、そうしたがっていると思いますから」
浩志は、ゆかりの寝顔を見下ろした。
眠っていると、あの高校生のころのゆかりと、少しも変わらないように見える。
「いや、ゆかりはマンションへ帰してやって下さい。僕は一人で泊まります」
と、浩志は言った。
一人、ホテルの部屋へ入って、浩志はゆっくりと風呂に入った。
ゆかりは、大宮がついて、マンションへと帰って行ったのだ。
——体はクタクタで、浴槽につかったまま眠ってしまいたいと思うほどなのに、頭は冴えていて、たぶん、しばらくは眠れないだろうと思った。
何しろ、とんでもない夜だったのだ。
思い出して、果たしてあれが本当にあったことなのかしら、と思う。自分が、あんなことをやってのけたとは、とても信じられない。
いや、浩志は少しもヒーロー気分にひたっていたわけではなかった。無事だったとはいえ、ゆかりにとって、今夜の恐ろしい記憶は、当分消えることがないだろう。
ゆかりが今の仕事を続けて行く限り、あの国枝という男とも、全く無関係でいることはできないのだ。
——浩志は、風呂を出て、ホテルの浴衣を着ると、ベッドに仰向けになった。
もちろん、すぐには眠れまい。明日は、ここから出勤ということになるのだから、早く寝ないといけないのだが。
電話が鳴って、浩志はびっくりした。
「——もしもし」
「もう寝てた?」
その声に、浩志は面食らった。
「邦子。よく分かったな、ここが」
「ゆかりから聞いたのよ、もちろん」
と、邦子は言った。「無茶なことして! 命を粗末にするもんじゃないわよ」
「ゆかりが電話したのか」
「うん。——浩志って勇敢だわ、って、感動してたわ」
「冗談じゃない。ガタガタ震えてたんだ」
「それが当たり前よ。でも……やっぱり偉い。普通の人のやれることじゃないわ」
「そうかな」
「私が同じ目にあったら、どうする?」
「邦子——」
「冗談よ。浩志って、本当にお人好し」
と、邦子は笑った。「ともかく、ほめてやろうと思ってさ」
「嬉しいよ」
と、浩志は言った。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ……」
——邦子の声を聞くと、不思議に気持ちが落ちつく。その点は、ゆかりの場合と違っている。
浩志は、受話器を戻して、じっと天井を見上げていた。
ゆかりを抱いてやるべきだったのだろうか。——いや、僕は僕だ。あの二人との付き合い方は、変えてはいけない。
「長い夜だったな」
と、浩志は呟いたのだった……。