面白くない。全く、面白くなかった。
ベテラン女優は、朝から不機嫌だった。珍しいことではないが、理由もなく不機嫌にはならない。
神崎弥《や》江《え》子《こ》が不機嫌なのは、それなりに理由があってのことだったのである。
「——もう少し待って下さい、ってことです」
と、マネージャーが顔を出しても、返事もしないで、ただ黙って肯いただけだった。
控室には、まだ誰も来ていない。——今日は、新作映画の製作発表の日である。
神崎弥江子は、もう女優生活十五年のベテラン。三十代も半ばにさしかかっていたが、肌のつやもプロポーションも、失われていない。
もちろん、製作発表の席に座ったことも、数え切れないくらいあるから、別に緊張はしない——はずだ。
ところが今日は違う。何といっても、今、海外でも評価の高くなっている三神憲二の作品だ。弥江子も、三神のことは以前から知っているが、実際に出演するのは初めてである。
今日、弥江子がいささか神経質になっていたとしても、やむをえないことだ。それに加えて——。
ドアが開くと、原口邦子が入って来た。もちろんマネージャーも一緒だ。
「おはようございます」
と、邦子はまず弥江子の前に進んで来て、申し分なくていねいに挨拶をした。
どんな時間でも、この世界では「おはようございます」だが、今は昼の十二時少し前。珍しく、普通の感覚でも、「おはよう」が不自然でない時間だ。
「ご苦労様」
と、弥江子は微笑んで見せた。
何しろ女優だ。演技することには慣れている。
「——緊張しちゃって」
原口邦子は少し照れたように笑顔を見せると、言った。
「あなた、初めて、製作発表って?」
「そうなんです。こんな席に出られるほど大きな役って、いただいたことなかったから」
邦子は、端の方の椅子に、遠慮がちに腰をおろした。マネージャーが、会場の様子を見に行く。
弥江子は、見たくないのに、つい目が原口邦子の方へ向いてしまうのを、止められなかった。——そこにいるのは、二十三歳の若い娘、小柄なせいで、やや幼くすら見える娘にすぎない。
しかし、その、格別に美人でも可愛くもない娘が、今は弥江子を圧倒するような輝きを放っていた。
弥江子は、気持ちを落ちつかせようと、お茶を飲んだ。
神崎弥江子は、邦子の方へ、
「この間は大変だったわね」
と、言った。
邦子は、ハッと我に返った様子で、
「あ、いえ——お世話になりました、あのときは」
と、急いで礼を言う。
「いえ。とても良かったわよ、あなた」
「そうですか」
邦子はポッと頬を染めた。
——安土ゆかりが主演のドラマに、弥江子は〈特別出演〉した。出番は二日間ほどのもので、相手は何といっても新人のアイドルスターだ。
ゆかりと一緒のシーンは、ゆったりと落ちついてやることができた。
弥江子の役は、優秀な精神科医。知的なムードを売りものにしている弥江子には、ぴったりの役どころだった。
ところが、もう一つのシーンで、弥江子はかなり難しい症例の女の子を扱うことになっていた。その患者を演じたのが、原口邦子だったのである。
弥江子は、邦子の名前だけは耳にしていた。
「うまい子だよ」
と、プロデューサーや監督が口にするのを聞いて、少し達者な子役くらいかと思っていた。
ところが——そのシーンの収録で、邦子は完全に周囲をかすませてしまった。
熱演、というタイプとは少し違う。クールに、はたから自分を見つめながら、演技できるという——すでに邦子は立派な「女優」の域に達していた。
しかし、弥江子は面白くない。たった三シーンしか出番がないのに、その一つを、無名の新人にさらわれてしまっては、弥江子のプライドが許さない。
完璧な出来栄え、とは思ったが、あえて自分の出来に不満がある、と言ってやり直した。邦子が、少しは調子を崩すだろうと思ったのだ。
しかし思惑は外れて、しかも邦子はその前とは違うやり方で、さらに強烈な印象を残す芝居をやってのけた。
——その邦子と、三神憲二の映画で共演する。
弥江子は、苛立っていた。どうしたって、「新しいもの」に目が向くのが、世間というものである。
しかし、製作発表の席では、ベラテンらしく堂々としていなくてはならない。
何といっても今日の主役は、三神である。
「シナリオ、読んだ?」
と、弥江子は言った。
「はい」
邦子は肯いた。
「長いセリフが多いわね。あの監督はいつもそう」
弥江子はスラリと伸びた足を組んだ。
「でも、憶えやすかったです、流れがきちんとあって」
と、邦子が言った。
「そう?」
弥江子は、邦子を見て、「もう憶えたの、あの本?」
「ええ、一応」
邦子がこともなげに言った。「でも、まだこれから変わるかもしれませんね」
弥江子は、驚きが顔に出ないように、苦労した。
長いシナリオなのだ。中でも、邦子の役はセリフが多い。
それを、今の言い方では、すっかり暗記してしまっているらしい。おそらく間違いないだろう。
とんでもない子だわ、と弥江子は思った。
控室のドアが開いて、共演者やスタッフがゾロゾロと入って来た。
弥江子は少しホッとした。みんなもちろん顔見知りだ。原口邦子は、ほとんど知らない人ばかりなので、じっと黙って、弥江子が一人ひとりと言葉を交わすのを見ていた。
「——やあ」
よく通る声がして、三神が入って来た。
「監督、おはようございます」
と、みんなが一斉に声をかける。
三神は、大して楽しくなさそうだった。もともと、こういう「イベント」風のことが大嫌いな性格で、現場で怒鳴っているか、フィルムを編集しているときが一番幸せなのである。
「お久しぶりです」
と、弥江子が挨拶すると、三神は、ただ肯いて見せた。
そして、隅の方に座っていた邦子を見付けると、
「やあ、どうだね、気分は?」
と、急に相好を崩して、歩み寄る。
弥江子は、三神が邦子をよほど気に入っているのだと感じた。もちろん、あっちは「若い」。それだけのことだ。
そう。——それだけだ。
弥江子は、自分へそう言い聞かせた。
——製作会社のスタッフが、顔を出して、
「もう少しお待ち下さい」
と、言った。「沢田さんが遅れてて。あと五分ほどで着くそうですから」
沢田慎吾は、映画で弥江子と夫婦役になる、三十代の二枚目男優である。人気はあり、芝居もそこそこできるが、少しだらしのないところがあって、スキャンダルがよくTVや週刊誌をにぎわせている。
「仕方ない亭主ね」
と、弥江子が言ったので、控室にいた人間たちが、一斉に笑った。
笑っていないのは、三神だけだったろう。
あと五分のはずが、沢田慎吾が控室へ姿を見せたのは、十五分後であった。
そのころには、三神の苛立ちが誰の目にも明らかで、控室の中は段々重苦しい気分になって来ていた。
パッとドアが開くと、
「遅れて、どうも」
と、沢田の長身が、風を巻き起こすような勢いで入って来た。「いや、車がエンスト起こして、参っちゃった!——やあ、君、原口邦子だね。沢田だ。よろしく」
沢田は、ちゃんと三神が邦子のことを気に入っていると知っていて、わざと邦子へ先に声をかけたのである。
「監督、遅れてすみません」
と、早口でまくし立てるように、「撮影に入ったら、決して遅れませんから!」
三神も苦笑いしている。——沢田には、どこか憎めないところがあるのだ。
「や、僕の奥さん」
と、沢田がやって来ると、弥江子は、
「愛妻への挨拶が最後なの?」
と言ってやった。
「そりゃそうさ。監督には挨拶だけでいいが、奥さんにはそうはいかないからね」
沢田が大げさに弥江子の手にチュッと音をたててキスする。笑い声が上がって、控室の中の重苦しさが、やっと消えた。
「——すぐ始めます」
と、スタッフが顔を出した。「順番はこの紙の通りですから」
弥江子は立ち上がって、邦子の方を見た。見たくないと思っているのに、つい見てしまうのである。
緊張している表情。しかし、目が輝いている。
「若くていいね」
と、沢田が低い声で弥江子に言った。
「若いだけじゃないわよ」
と、弥江子も低い声で答える。「見たことある?」
「新人だろ?」
「並の新人じゃないわよ」
「そうだろうな。巨匠があれほど買ってるところを見ると」
と、沢田が肯く。
「——じゃ、行こうか」
三神の一言で、全員が背筋を伸ばした。
何て大勢の人!
邦子は、椅子に腰をおろして、目の前のかなりの広さの部屋を埋めている人々を見回した。
スタッフ、キャストが一列に並んだテーブルと、それに向かい合う椅子席。その間の空間には、何十人というカメラマンが、床に膝をついたり、腰をおろしたりして、待機している。
新作映画の製作発表記者会見は、定刻から二十分近く遅れて始まった。
しかし——その中身は、いささか邦子を失望させるものだった。
何といっても、取材に来ている記者から、ほとんど質問らしい質問が出ないのだ。およそ映画が好きで、ここへ来ているという人は見当たらないようだった。
要するに、記事になるだけのデータさえあれば、それでいい。——大方の人はそう思っているようだった。
結局、話す方は三神の独演会に近い。三神は、聞き手が分かっているかどうかなどお構いなしに、この新作についての考えをしゃべっていた。
せっせとメモを取る人たち。——カメラマンは、退屈そうに、話がすむのを待っている。
記者やカメラマンにとっては、日常の仕事の一つにすぎないのだ。いくら邦子にとってエキサイティングな出来事でも、彼らには何の関係もない。
しかし——それでも、邦子は、神崎弥江子、沢田慎吾に続いて名前を呼ばれ、立ち上がって頭を下げたとき、体の中に熱く満ちるものを感じた。
それに、記者たちの関心も、三人の中では邦子に一番集まっている様子だった。
「——それではご質問は」
と、司会者が言って、「もう、ありませんか?」
会場を見渡す。——一人の、くたびれた感じの中年男が手を上げた。
ハンドマイクが手渡されると、
「ええと……神崎さん。このところ、ある歌手との交際が噂になってますが、事実ですか?」
と、抑揚のない声で訊いた。
一瞬、会場にしらけた空気が流れる。
司会者が、
「恐れ入りますが、この会見では、作品のことに質問を限っていただけますか」
と、言った。
三神にとって、この手のことが最も不愉快なのである。スタッフはみんなそれを知っているので、ハラハラしている。
「しかしですね、なかなかこういう機会がないので」
と、その男は言ったが、会場の空気に気付いたのか、「いや、それじゃ結構です」
と、肩をすくめた。
三神が不機嫌に腕組みをしている。司会者は、
「では、これで——」
と、打ち切ろうとした。
「あの——一つだけ、原口邦子ちゃんに」
と、女性の記者が手を上げた。
邦子はドキッとした。一体、何を訊くつもりなのだろう。
邦子は、一人ひとりの挨拶のとき、きちんと今度の仕事についての抱負を述べていた。
よくアイドルスターが言う、
「頑張ります」
ではない。
三神も、邦子の言葉を面白そうに聞いていた。
その邦子へ、何の質問だろう? 司会者は、邦子がまだ新人ということもあり、その女性記者へマイクを回した。
「邦子ちゃんは、アイドルの安土ゆかりちゃんと昔からの友だちだそうですね」
と、女性記者は言った。
「そうです」
と、邦子は答えた。
「ゆかりちゃんはもう今、トップスターになってるわけですが、一緒に芸能界入りした友だちとしては、どんな気持ちですか」
邦子は、ちょっと耳を疑った。——その質問は明らかに、二人の間の「人気の差」について、邦子に何か言わせようという意図をこめたものだった。
「君、失礼だろう、そんな言い方は」
と、三神が腹立たしげに言った。「原口君は役者で、アイドルじゃない。人気の上下が問題にはならないよ」
女性記者は、引き下がらなかった。
「私、邦子ちゃんにお訊きしてるんですけど——」
三神が怒鳴りつけそうになった。邦子は、自分の前のマイクへと少し顔を寄せて、
「ご返事します」
と、よく通る声で言った。「俳優は、すべてが演技の勉強です。恋人に振られれば、これで失恋の演技ができる、と思いますし、オーディションに落ちれば、落ちこぼれの心理が学べた、という風に受け取ります。ゆかりとは今でも仲良しですし、お互い、人気のあるなしは関係ありません。でも——少なくとも、私は、なかなか芽の出ない役者の卵の役は、自信を持ってやれるようになりました」
会場がドッと笑った。拍手も起こる。
邦子は、意地悪な質問をうまく捌いて見せたのだ。
「——では、写真撮影に移りたいと思います。監督を囲んで、みなさん、立っていただけますか」
立ち上がった邦子たちへ、一斉にカメラのシャッターが切られ、ストロボが光った……。
石巻浩志は、その記者会見の様子を、会場の一番隅に立って、眺めていた。
仕事で外出したついでに——というより、仕事にかこつけて、この席を覗きに来たのだが——寄ってみた。もちろん、邦子は何も知らない。
しかし、邦子は今、輝いて見えた。
浩志は、邦子にゆかりとのことを訊いた記者の質問にムッとしたが、それに巧みに答えた邦子の機転に感心していた。
監督の三神も喜んでいる様子で、上機嫌でカメラにおさまっている。
ただ——浩志の目にも、神崎弥江子が面白くなさそうにしているのが分かる。
やはり、邦子の方が注目されているのが、気に入らないのだろう。
難しいものだ。神崎弥江子自身も、かつては先輩をかすませる輝きを見せて、登場したのだろうが。——人生は、そんな風にできているのである。
はたで見ていてもまぶしいほどのフラッシュの光に、浩志は少し目を細くし、会場を出た。
「やっぱり来てた」
目の前に森山こずえがいるのに、びっくりして立ち止まる。
「何してるんだ?」
「お使いに来たの」
と、こずえは、いたずらっぽく笑った。「そしたら、たまたまここへ着いちゃったのよ」
「それじゃ、僕と同じだ」
「そうね」
二人は一緒に笑い出した。
「——よし。じゃ、どこかで甘いケーキでも食べて行こうか」
と、浩志は誘った。
「甘い誘惑ね。乗った!」
二人は、記者会見の会場になったホテルのバンケットルームを後に、歩き出した。
「でも、あの子、頭がいいわね」
と、こずえが言った。
「邦子かい? 聞いてた?」
「ええ。なかなか、あんな風には答えられないものよ、とっさに」
浩志は肯いて、
「これで、きっと邦子の才能も評価されるようになる」
「でも——よく気付かれなかったわね」
「僕のことか?」
「そうよ。ゆかりさんの恋人として、身許もばらしちゃったわけだし」
確かに、国枝の所から、ゆかりを助け出すために、浩志は本当の身分を明かさなくてはならなかった。会社の中でも、問題にはなったらしい。
しかし、別に悪いことをしたわけでなし、結局、浩志は同僚から冷やかされるだけですんだのである。
取材の人間に追い回されたことも、何度かある。しかし、西脇がうまくマスコミ各社へ連絡してくれて、それも下火になった。
ゆかりも、もう落ちついて、以前の通りの活動に戻っているが、マネージャーの大宮が、神経を尖らして、更に一人、「用心棒」として柔道何段というがっしりした男が、ゆかりにつくことになった。
浩志は、あの車を国枝の所へ返した。
国枝からは、あれから何も言って来ない。本当にゆかりのことを諦めたのかどうか、浩志はまだ安心しているわけではなかった……。
「きっといい映画になるわね」
と、こずえが言って、浩志はふと我に返った。
「ああ。——きっとね」
と、肯いて、「ところで、何を食べたいんだ?」
と、浩志は訊いた……。
神崎弥江子は、会見がすむと、早々に控室へ戻った。
一人でタバコを喫っては、灰皿へ押し潰す。まるで、押し潰すために喫っているみたいだった。
「——何、むくれてんだ?」
と、沢田慎吾が入って来る。
「何も」
「分かってるよ」
と、沢田は、ソファに身を沈めて、「あの子だろ」
邦子と三神は、なかなか戻って来ない。記者やカメラマンに囲まれているのである。
「主役は私たちよ! それを、監督と来たら……。まるであの子が主役みたいじゃないの!」
「仕方ないさ」
「腹が立たないの?」
「実力と人気の世界さ。君はあの子と共演したのか」
「この間ね」
と、弥江子は渋い顔で、「いやな仕事だった」
「いつ放映?」
「聞いてないわ。もう少し先のはずよ。何しろ、安土ゆかりのスケジュールに合わせてとったんだから」
「まあ、大きく構えてろよ。君は大スターだぜ」
「分かってないのね。スターは大きくなればなるほど、落ちて行くのが怖いもんよ」
表面上は、どんなに落ちついて見えるとしても、スターは見られてこそ「スター」なのである。
「今度の仕事は疲れそうだな」
と、沢田が笑った。
ふと——弥江子が、何か思い付いた様子で、
「ね、あなた、あのドラマのプロデューサーと仲いいんでしょ」
と、言った。
「誰だって?——ああ、奴なら、昔からの悪友さ」
「ねえ」
と、弥江子は身をのり出すようにして、言った。
「お願いがあるの。この前とったドラマのことでね……」