「呆れた」
と、克子は言った。
「そう言うなよ」
と、浩志は、ちょっと情けない顔で妹を見た。
「な、お前、大きなスーツケース、持ってるんだろ? 貸してくれ」
「だめよ」
と、克子はにべもなく断った。「私だってスキーに行くんですからね」
「あ、そうか」
浩志は、ため息をついて、「やっぱり買わなきゃいけないか」
——浩志と克子、二人で久しぶりに夕食を外で取っている。
サラリーマンにとっての一大イベント(と言うほどのもんじゃないが)、ボーナスが出たので、克子が兄におごっているのである。
ただし、浩志の名誉のために付け加えておくと、いつも妹にたかっているわけではない。たまたま、克子の会社の方が、ボーナスが早く出た、という、それだけのことだ。
もちろん、何万円もとられるフランス料理なんかではなく、オムライスとか、メンチカツとかのメニューのある、〈洋食屋〉さんに入っているのである。
克子のボーナスはそう多額ではない。「ないよりゃ、まし」という程度だ。その点では、浩志だっていばれたものじゃないが。
「お兄さん、メンチカツ半分食べて」
と、克子がナイフで半分切り分けると、兄の皿に移した。
「お前、食べろよ。若いんだから」
「ブタになりたくないもんね」
と、克子は笑って言った。
「お前はもう少し肉がついた方がいいぞ」
「大きなお世話。お兄さんはお腹の脂肪にご用心」
やり合っている二人は、いかにも楽しげである。
レストランは、混み合っていた。克子は、何でも予定を立てて動くのが好きなタイプだから、ちゃんと予約を入れておいた。
そうでなかったら、二十分は入り口で待たされただろう。今も、店の入り口には、空き待ちの列が出来ている。
「——はやってるなあ」
と、浩志は言った。「みんなボーナスが出たのかな」
「そんな人ばっかりでもないでしょ」
克子は、サラダを食べながら、「量が減った、この前より」
「——どんなのを買ったらいいかな」
と、浩志が言う。
「スーツケースの話? いいわよ、私が選んであげる」
「そうか、じゃ頼む」
浩志はホッとして言った。
買い物のセンスに関しては、克子の方がずっと兄を上回っているのだ。
「パスポートは大丈夫なの?」
と、克子が訊いた。
「うん。——あのマネージャーの大宮さんが、手配してくれてる。もちろん、申請と受け取りは自分で行かなきゃならないけどな」
浩志は、克子の分けてくれたメンチカツも、きれいに平らげた。
「ハワイねえ、お兄さんが……」
「何だよ」
「似合わない!」
「そうか?」
「水着とか、持ってくの?」
「どうするかな。そんな時間があるかどうか」
「でも——まさか、ゆかりさんとずっと一緒ってわけじゃないんでしょ?」
「うん。ゆかりも気をつかってくれてるよ。まあ、写真の二、三枚はとられると思った方がいいだろうけど」
克子は、ウエイターを呼んで、デザートとコーヒーを注文した。浩志はコーヒーだけ。
「でも、お兄さん、分かってる?」
と、克子は真顔で言った。「いくら中で別の部屋になってると言っても、ゆかりさんと同じ部屋に二人で泊まるのよ」
「うん」
「世間の目にはどう見えるか」
「分かってる」
と、浩志は肯いた。「仕方ないさ。国枝の所から助け出したときから、世間にはそう思われてる」
「邦子さんには?」
「電話くれるように、マネージャーにことづけてる。二、三日したら撮休だそうだから、かけて来るだろ」
「サツキュウ?」
「撮影の休みの日、ってことさ」
「あ、そうか」
克子は笑って、「段々芸能用語に強くなるわね」
「その内、夜会っても、『おはようございます』だったりしてな」
浩志もそう言って笑う。
「あ、デザート。これ、好きなの、私」
フルーツとアイスクリームをきれいに配置して、赤いフルーツのソースがかかっている。
「可愛いな」
「私のこと? 分かってるわよ」
「そのデザートのことだ」
「失礼ね」
と、克子は笑って……。
そう。——お兄さんは分かっていない。
もちろん、ゆかりも邦子も、浩志と長い付き合いで、彼が二人と等距離を置いているのは承知している。
また、浩志がそういうことにこだわる人間であることも、よく分かっている。でも、その上で——ゆかりは、浩志のことが好きなのだ。
ゆかりが、浩志をハワイ行きに誘ったのは、もちろん、「その方が楽しい」からだろう。
浩志にずいぶん迷惑をかけた、という気持ちがあるからかもしれない。
しかし——心の底では、ゆかりは期待しているはずだ。浩志が自分の部屋のドアを叩いてくれることを。
そうなれば、邦子との友情はどうなるか。浩志、ゆかり、邦子の三人で作られている微妙な関係が、それで崩れてしまうかもしれないということも、ゆかりには分かっている。
しかし、恋というものは理屈ではない。克子には、それがよく分かる。
ゆかりは、あちこちで遊んでいる。男とホテルにも行っている。しかし、本当は、浩志のことが好きなのだ。男と女として、愛しているのだ。
克子には分かる。——兄はそれに気付いていない。いや、気付いていないふりをしているだけなのだろうか。
「——旨いコーヒーだ」
と、浩志が一口飲んで肯いた。「うちで飲むインスタントと、大分違うな」
「お兄さん」
「うん?——何だ」
克子は言ってやろうと思った。——抱いてあげなさいよ、ゆかりさんを。
「お父さんのこと、何か分かった?」
克子は全く違うことを訊いていた。
「さあね。あちらが気にしてたからな。調べてるんじゃないのか」
と、浩志は肩をすくめた。「——お前、スキーはいいけど、足折るなよ」
「お兄さんじゃあるまいし」
「俺がいつ足を折った?」
「おっちょこちょい、ってことよ」
「生まれつきだ」
浩志はそう言って、コーヒーを飲み干したのだった。
「——カット!」
三神憲二の鋭い声が、セットの中に響きわたった。
録音係がヘッドホンを外して、監督の方へ肯いて見せる。
「OK」
三神の一言で、セット内に、期せずしてため息が洩れる。
「お疲れさま」
「お先に」
と、あちこちで声が飛び交う。
三神は、セットを下りて、マネージャーにカーディガンをかけてもらう邦子を眺めていた。
「監督」
と、やって来たのは、沢田慎吾だ。
「何だ?」
「ちょっとご相談が」
二枚目男優は、少し声を低くして、言った。
「話してみろ」
と、三神はディレクターチェアに座ったままで言った。
沢田慎吾は、ちょっと周囲へ目をやった。色々な道具や資材を片付けているスタッフたち。
「あの……できれば、人目のない所で」
と、沢田が言うと、大監督は欠伸をして、
「愛の告白でもしない限り、ここで充分だ。僕は忙しい。君ら役者はな、OKが出たら帰れるが、こっちはそうはいかないんだよ」
「はあ」
沢田は不満げだったが、三神に何と言ってもむだなことは、よく分かっている。
「話さないのか? それなら引き上げるぞ。明日の打ち合わせがある」
と、三神は立ち上がりかけた。
邦子が三神の前で足を止め、
「お先に失礼します」
と、頭を下げる。
「ご苦労さん」
三神が肯く。「良かったぞ、今のシーン」
「はい」
邦子が嬉しそうに頬を染めて、もう一度頭を下げると、マネージャーと二人でセットを出て行った。
「——お気に入りのようですね」
と、沢田が邦子の後ろ姿を見ながら、言った。
「うまいからな。努力家だし、勘もいい。気に入らなきゃおかしい」
と、三神はあっさりと言った。「君は気に入らんのか?」
「とんでもない」
と、沢田は首を振った。「ただ……今のカットなんか、ほとんどカメラはあの子の方を向きっ放しでしたね」
「それがどうかしたか」
「いや……。彼女は何も言いません。でも、分かるんです。長い付き合いですから。彼女は悩んでます。監督に気に入られてないんじゃないかと」
「彼女ってのは、つまり神崎君のことか」
「そうです」
神崎弥江子は、早々にセットを出てしまっていた。
「この映画の客の大半は——もちろん、監督のファンが大勢いるのはよく分かってますが、まあ半分は神崎弥江子を見に来るんです。もう少し、その……彼女に目立つところを作ってやってもいいんじゃありませんか」
沢田は、監督の神経に触らないように、猫なで声で言った。
「なるほど。君の話は分かる」
と、三神は言った。「主役は君と神崎君だからな」
「僕のことはどうでもいいんです」
と、沢田は言った。
「ほう」
三神は、沢田の顔を見上げた。「『僕のことはどうでもいい』か。立派な心がけだ」
「いや、あの——」
沢田は詰まった。三神の言葉に、皮肉な響きを聞きとったからである。
「ともかく……神崎さんは、キャリアのある女優です。監督があの新人を気に入っておられることはよく分かってますが」
急に三神が立ち上がった。その勢いに、沢田は口をつぐんでしまった。
「よく聞いとけ」
三神は静かだが、圧倒するような力をこめた言い方で、言った。「僕は原口邦子を気に入っている。しかし、一番大切なのは作品だ。分かるか? 女優のプライドでも、個人の感情でもない。どんなスターも、いい作品に出ることだけが、人気を生むんだ」
「それはもう——」
「分かっているなら、余計なことは言うな」
と、三神は言って、「他に何か言うことは?」
沢田は何か言いかけたが、
「——別にありません」
と、目をそらした。
「結構。明日は君に長いセリフがある。この間みたいにとちるなよ」
三神はそう言うと、真っ赤になっている沢田を後に、さっさと出て行ってしまった。
沢田は、じっと拳を握りしめて立っていたが、やがて腹立ち紛れに、ディレクターチェアをけとばして、歩いて行く。
「荒れてますね」
と、助監督の一人が声をかけると、残っていた連中がドッと笑った。
「うるさい」
沢田は、ジロッと周囲を見回して、セットを出て行った。
「——どうしたの?」
沢田の車の中で待っていたのは、当の神崎弥江子である。
「何でもない」
と、沢田は運転席に腰をおろした。「あの古ダヌキめ!」
「古いセリフね」
と、弥江子は笑った。「三神監督のこと? いいじゃない。私は嫌いじゃないわ」
沢田はチラッと弥江子の方を見て、
「腹が立たないのか? あんな小娘をちやほやして」
と、顔をしかめた。
「気を付けて。二枚目が台なしよ」
と、弥江子は助手席のシートベルトをして、
「どこかへ行きましょ。——カッカして飛ばさないでよ」
「ああ」
ほとんどやけ気味に言って、沢田はアクセルを踏み込んだ。
沢田の車は、暗い道を、制限速度の倍近いスピードで駆け抜けていた。
「ちょっと! 死ぬのはいやよ、私」
と、弥江子が文句を言うと、沢田はややスピードを落とした。
「——仕方ないわよ。あの子、本当にうまいんだもの」
と、弥江子は言った。「でもね、私の方がスクリーンの上に長く住みついて来たのよ。心配しないで。負けやしないわ」
「まあ、君はね……。しかし——」
と、語尾をにごす。
「ああ、なるほどね」
と、弥江子は笑った。「そういうことか」
「何だよ?」
と、沢田はハンドルの操作に、何とか気持ちを集中させようとしながら言った。
「自分のことが心配なのね? この前みたいに、またあの子の前で怒鳴りつけられるのが、堪えられないんでしょ」
——弥江子は、スターではあっても、人気だけでもっているわけではない。多少は演技にも自信があるし、三神に注意されれば、何がどう悪いか、察することもできた。
しかし、沢田はその点、いわゆる「スター」と「タレント」の中間の存在で、きちんと演技の勉強をして来たわけでもない。
数日前の撮影で、その前の晩にTV番組の取材が入って飲みに行った沢田は、二日酔いの頭でカメラの前に立たなければならなかった。
そして、やたらとセリフを忘れたり間違えたりして、三神を怒らせてしまったのである。
特に、邦子と二人のシーン。セリフの量は邦子の方が倍も多いのに、きちんと流れをつかみ、間違えない。その邦子の前で、三神に怒鳴られて、沢田は青ざめたものだ。
「あんなこと、今度あったら、降りてやる」
と、沢田は言った。
「馬鹿ね。その前に降ろされるわよ」
と、弥江子は笑った。
「笑うな!」
沢田はプライドの高い男なのである。
「落ちついて。そんなことして何になるの? じっと我慢するのよ、今はね」
「大体、出たくて出てるわけじゃない。うちの社長が勝手に決めた仕事なんだ」
そんなことが理屈にならないのは承知で、ともかく言うだけ言いたいのだ。弥江子は放っておくことにした。
車は、相変わらず夜道を突っ走っている。——静かな住宅地で、もう大分遅い時間なので、人影はなかった。
「君は平気なのか? 大体——」
と、沢田がチラッと弥江子の方へ目をやる。
「危ない!」
車のライトに、突然自転車に乗った女の子の姿が浮かび上がった。
もちろん、沢田は急ブレーキを踏んだ。
タイヤがきしみ、神崎弥江子は目をつぶった。
しかし、スピードが出すぎていた。自転車は沢田の車にまともにぶつかって、一瞬、大きく宙へはね上げられる。乗っていた女の子の体が車のライトの中を飛んで行った。
車が停まるまで、何秒間あったか。——まるで永遠のように長い何秒間かだった。
静けさが戻って来た。
物音一つしない。車は沈黙し、そして沢田と弥江子も沈黙している。
ただ、聞こえているのは押し殺した息づかいばかり。
やっと口を開いたのは、弥江子の方だった。
「見て来て」
沢田は真っ青になっていた。
「仕方なかった……。そうだろう? 突然だったんだ。とてもよけられやしないさ……。そうだろ?」
かすれた声で、沢田がひとり言のように呟く。
「早く見て来て」
と、弥江子がくり返した。「あの女の子が——」
「どうしようもなかった。君もそう思うだろ?」
「しっかりして!」
弥江子が叫ぶように言った。「早く見て来るのよ!」
「ああ……。分かってる。でもね……待ってくれよ。少し……落ちついてから……」
「何言ってるの! 人をはねたのよ。分かってるの?」
「うん。——分かってる。見て来るよ」
やっと、沢田はシートベルトを外し、ドアを開けようとした。「——開かない。変だな」
「ロックしたままよ」
と、弥江子は言った。
「ああ、そうか……」
沢田が出て行くと、弥江子は目をつぶって、深呼吸をくり返した。
何てことだろう!——しかし、弥江子は考えていた。いざとなれば、運転していたのは私じゃないんだから。私の責任じゃないんだわ、と。
沢田が戻って来た。
運転席に黙って座る。
「どうしたの? あの女の子は?」
と、弥江子は訊いた。
「うん。見て来た」
「——それで?」
「呼んだり、揺すったりしてみたけどね。全然起きない。でも、たぶん……しばらくすれば……」
死んだのだ! 弥江子はゾッとした。
人をはねて死なせてしまった!
「どうしようか?」
沢田は、半ば放心状態である。
弥江子は必死で冷静に事態を考えようとした。
「分かってる? 女の子は死んだのよ」
「ああ。たぶんね」
と、沢田は肯いた。
「あなたはスピードを出してた。言い逃れできないわ」
「しかし——」
「聞いて。問題は、今、どうするかよ」
「警察へ——」
「知らせる? 当然そうすべきよね。でも、あなたは刑務所。私だって一緒に乗ってたのよ。スキャンダルになるわ。女優として、もうやっていけないかもしれない」
沢田の顔に、やっと表情が戻って来た。
「逃げよう」
と、沢田は言った。「誰も見てない。車も一台も通ってない。今逃げたら、誰にも分からないよ」
弥江子は、じっと沢田を見つめた。
「もし、逃げて捕まったら、最悪よ。分かってる?」
「しかし、逃げ切れるかもしれない。そうだろ?」
弥江子は、大きく息をついて、前方の闇をじっと見つめていた。
「賭けね。——やってみる?」
「ごめんだ。刑務所なんて」
沢田は首を振った。
「じゃあ、行きましょう」
と、弥江子は言った。「腹を決めるのよ。何もなかった、と自分に言い聞かせて、そう信じるの。分かった?」
「うん」
「じゃ、今度は安全運転で行くのよ」
沢田がエンジンを始動させる。車体が細かく震えた。
車がゆっくりと走り出す。沢田は、じっと唇をかみしめて、ハンドルを握っている。
「——この辺を走ってたことにしない方がいいわ。どこかよそへ行きましょう」
「どこへ?」
「どこか——全然別の方向へ。車に傷がついてるでしょう。このまま人目のある所へは停められないわ」
「じゃ……一旦、マンションへ戻ろうか」
「それがいいわね」
弥江子は肯いた。「カバーをかけて、見られないようにするのよ」
「どの程度の傷か、よく見ないと」
「そう……。誰にも気付かれないように。いつもの通りにしてるのよ。いつも通りにね」
車は、夜の道を走り続けていた。
弥江子は、死んだ少女のことはもう忘れていた。問題は自分の未来、それだけだった……。