電話と目覚まし時計が、ほとんど同時に鳴り出した。
浩志は少し前から目が覚めていたのだが、ウトウトしながら、目覚まし時計の鳴るのを待っていたのである。
あわてて時計のベルを止めようとして、手を伸ばし、時計を引っくり返す。——焦ると、こんなものである。
やっと電話に出る。
「もしもし、石巻です」
大方、ゆかりか、マネージャーの大宮からだろう、と思った。
「浩志? おはよう」
意外な声に、浩志は座り直した。
「邦子。——久しぶりだな」
「本当ね。もう会社、お休みに入ったんでしょ?」
「うん。ぎりぎりまで忙しかったけどな」
と、浩志は言った。「撮影は、どうしたんだ?」
「一応、お正月挟んで、四、五日お休みなの。『巨匠』は休みたくないらしいけど、他の人が働かなくちゃ、仕方ないでしょ」
「そりゃそうだな。——うまく行ってるのか?」
「うん。順調よ」
邦子の声は明るかった。「初めの内はね、何かと突っかかって。あの女優さんと、二枚目さんが」
「何かされたのかい?」
「別に。三神監督が目を光らせててくれてるし。それに……」
と、邦子はちょっと間を置いて、「何だか変なの」
「変って?」
「このところ、急にあの二人がおとなしくなっちゃってさ。——監督も首かしげてた」
「ふーん。何かあったのかな」
「よく分かんない。でも、私にもいやに親切にしてくれたりして、却って、気味悪い」
と、言って邦子は笑った。
「しかし、順調に進んでるのなら良かった」
「ね、浩志も暇でしょ? どこかに行かない?」
そう言われて、浩志は詰まった。ゆかりとハワイへ行くと言ったら、どう思うだろうか。
「いや……あのね……」
ここで黙っていても、TVや週刊誌に出てしまうだろう。
「どうしたの? まさか、ゆかりとハワイに行く、なんて言い出すんじゃないでしょうね」
邦子の言葉に、浩志が、
「えっ?」
と、目を丸くしていると、邦子がふき出した。
「馬鹿。ちゃんと知ってんのよ」
「なんだ」
浩志は、フーッと息をついた。「びっくりさせるなよ」
「今日、発《た》つんでしょ?」
と、邦子は言った。
「そこまで知ってるのか」
浩志は、頭をかいて、「悪いな。ゆかりがどうしても、って言うから。しかし、部屋はちゃんと別にしてある。ゆかりとしては、お礼のつもりなんだよ」
「分かってる」
と、邦子は言った。「マネージャーが聞いて来たの。仕度はできてるの?」
「これからさ。充分間に合うよ」
「だめよ。国際線は結構時間かかるのよ。ちゃんと仕度して。パスポート、忘れないでね」
「うん。——邦子はどうするんだ?」
「お休み? 寝てる。明けたら、ハードな撮影が待ってるからね」
「そうか。頑張れよ」
「うん。——ね、ハワイから電話して」
「うん、かけるよ」
「じゃあ……。ゆかりによろしく」
「言っとく。これから顔を洗うよ」
「パリッとしてね。天下の安土ゆかりの恋人よ」
そう言って、邦子はフフ、と笑うと、「じゃ、行ってらっしゃい」
と、電話を切った。
——浩志は、少し受話器を持ったままだったが、やがて欠伸をして、受話器を戻した。
邦子は、感情を殺すことに慣れた子である。ああして、何も気にしないように話しているが、内心どうなのか。
そこまでは、浩志にも分からない。
しかし、声に張りがあり、元気そうなことは分かる。何といっても「女優」なのである。
仕事が充実しているとき、邦子は誰よりも元気なのだ。
浩志はウーンと伸びをして、目を覚ますと、顔を洗おうと立ち上がった。
玄関のドアを派手に叩く音がして、
「石巻さん! おはようございます! 大宮です!」
と、威勢のいい声が聞こえて来た。
邦子は電話を切って、しばらくその前に座っていた。
もしかすると、浩志がかけて来るかもしれない、と思ったのである。
——やっぱり、ゆかりと行くのはやめたよ。二人でどこかに行かないか。
邦子はちょっと笑った。
そんなことがあるわけはないのだ。分かっている。分かっているのに……。
つい、悲劇のヒロインをやってしまうのだ。
いけない、いけない。
これはドラマの中じゃないんだ。現実の世界なんだから。そう自分へ言い聞かせて……。
邦子の頬を、ポロッと涙が落ちた。
お馬鹿さんね。
邦子は、あわてて涙を拭って、息をついた。
何も悲しいことなんかない。そうだわ。
浩志とゆかりが二人でハワイに行ったところで、それが何だろう?
浩志が言った通り、ちゃんと部屋も別にとって、二人の間には「何もなく」帰って来るだろう。浩志はそういう人だ。
でも——邦子の胸中は、複雑だった。
浩志を誘ったゆかりの気持ち。それを知っていても、邦子のことを思って、ゆかりを抱こうとしないに違いない、浩志の気持ち。
どっちも、邦子には痛いほど、よく分かるのである。
そして、邦子には分かっている。
浩志がどうしてもゆかりを抱こうとしない限り、邦子のことも抱こうとしないに違いない、ということが……。
「しっかりして」
と、邦子は言った。「あんたは役者でしょ。——いい仕事をしてるのよ」
そう。この日々の充実!
三神との仕事は、これまでにやったどの仕事とも違っていた。いや、比較のしようのないほど、次元が違っていた、と言うべきだろうか。
ライトの角度一つ、小道具のボールペン一本、三神の気に入らない限り、カメラは回らない。スタッフも凄いプロばかりである。
メイクしている間に、もう邦子は緊張し、興奮して来る。一週間でとり上げるTVドラマの粗っぽさとは、何という違いだろう。
それに、理由は分からないが、神崎弥江子と沢田が、このところいやに神妙にしているので、邦子は、余計なことに気をつかわず、演技に専念できる。
それにしても、三神が——あの中年男が、若い娘の心を、何と的確に読んでいることだろう。
邦子はしばしばドキッとさせられる。
マネージャーに言われていた。
「監督から、『個人的に読み合わせをやろうか』って言われても、行っちゃだめよ」
と……。
三神が、撮影中に、気に入った女優と「特別な仲」になることが多いのは、この世界でも有名だった。
ただ、そうなっても相手の女優が三神に心酔し、しかもいい作品の中で、自分を光らせてくれるので、誰も三神を恨んだりしないのである。——その女優たちの気持ちも、邦子にはよく分かった。
優れた才能は、より優れた才能にだけ、圧倒されるのだ。そして三神は確かに、仕事場では邦子を圧倒していた。
邦子は、伸びをした。——オフの何日かの間、何をしていようか。
ともかく、どこかへ出かけよう。
邦子は、仕度をした。——映画を見るか、本を捜すか。
何かクラシックのCDでも買って来て、引っくり返って聞いているか……。
外は寒いだろうが、それでも出かけたかった。
もちろん、今日はマネージャーからも解放されている。一人でぶらぶらと出歩くことは、めったにない。
バッグを肩にかけ、邦子はマンションの部屋を出た。エレベーターで一階へ下りて行くと、郵便受けを覗く。
新聞と、ダイレクトメール。
そのまま、また放り込んでおいて、マンションを出ると、少し風があって、冷たい。
それでも、却って快い厳しさが、邦子を誘ってくれる。冬は寒いのが自然なのだ。
邦子が歩き出そうとすると、車のクラクションの鳴るのが聞こえた。
振り向いて、邦子は目を疑った。——三神が、車の窓から顔を出している。
「監督! 何してるんですか?」
と、邦子が寄って行くと、三神は窓を一杯に下ろして、
「君がどうしてるかと思ってね」
と言った。「今、来たら、ちょうど君が出て来るのが見えた」
「何かご用だったんですか」
まさか。——まさか、ね。
「いや、正月休みで、これだけ中断されると、明けてから始めるのが大変なんだ」
と、三神は顔をしかめた。
邦子はちょっと笑った。
「何かおかしいか?」
「いえ。——本当は年内でクランク・アップだったんでしょ」
「遅れたのは、僕のせいじゃない」
「じゃ、下手な新人のせいですね」
「そうだな」
と、三神は真面目な顔で、「つい欲が出るんだ。この子なら、もっとやれる、とね。沢田なら、いい加減なところで諦めるんだが」
「まあ」
「どうだ」
と、三神は言った。「休み中、ボーッとしてても仕方ないだろう」
「休みはボーッとするためにあるんじゃないですか?」
と、邦子は言った。
「まあ、君の言うのももっともだ」
と、三神は肯いて、「ただ——君さえよければ、もしその気があったら、個人的に明けのシーンの読み合わせをやろうかと思ってね」
邦子は、少しの間、無言で三神を見つめていた。——「個人的な読み合わせ」ね。
マネージャーの言葉を、邦子は思い出していた。
「どうだい?」
三神の誘い方は、いかにも自然で屈託がなかった。
個人的な読み合わせ。——邦子はおかしかった。笑いたくなった。
この巨匠が、女性を誘うときは、いつも同じセリフなのだ。少しは変えりゃいいのに。
何か独創的なセリフが、出て来ないのだろうか?
いや、これでいいのかもしれない。——お互い、意味するところを知っている。そして、どっちも、
「そんなつもりじゃなかった」
と言うことができる。
「何か予定があるなら、無理に、とは言わないよ」
と、三神が言った。
「いいえ」
邦子は首を振った。「私、構いません」
「そうか。じゃ、乗って。僕の事務所へ行こう」
「はい」
邦子は、車の前を回って、助手席に乗り込んだ。
車は、暮れの押し詰まった町へと走り出して行った。
「オールスター映画だな」
と、西脇が笑って言った。
成田空港のロビーは、ごった返していた。
もちろん、一般の客も多いわけだが、芸能人が一機に何人も同乗しているというのは、年末ならではの光景だろう。
あちこちで、挨拶が交わされ、フラッシュが光る。カメラマンが忙しく飛び回っていた。
「——浩志、遅いなあ」
ゆかりは苛々していた。
「そんな顔するな。どこで誰が見てるか分からないんだぞ」
と、西脇が言った。「大宮がちゃんと連れて来るさ」
「羽田に行っちゃったんじゃないわよね」
と、ゆかりが言ったとたん、人の間をかき分けるようにして、大宮がスーツケースをさげて来るのが見えた。
「あ、来た! こっちよ!」
ゆかりがピョンと飛びはねて、手を振る。
浩志が手を上げて見せた。
すぐに何人かカメラマンが駆けつけて来て、浩志とゆかりの写真をとろうと待ち構えている。
「——すみません、遅くなって!」
と、大宮は汗を拭いて、「車が混んでて……。でも、充分間に合いますよ……」
ゆかりは聞いていなかった。
浩志の前に立つと、
「——来たね」
「来たよ」
と、浩志は言った。
搭乗手続きをすませると、浩志とゆかりたちは、出発までロビーにいて、わざわざ人目につく気にもなれず、ラウンジへ入って待つことにした。
ファーストクラスとエグゼクティブ用のラウンジへ、西脇、大宮と四人で入って行くと、
「いらっしゃいませ」
と、カウンターの女性がにこやかに迎えてくれる。「セルフサービスになっております。ご自由にどうぞ」
「あそこ、空いてる!」
ゆかりが、さっさと奥の一画へ行って、腰をおろす。「浩志! ここへ来て」
「何か飲むかい?」
「いいわよ、大宮さんがやってくれる」
「いや、自分でやるよ。僕はスターじゃないからな」
「じゃ、私のも持って来て。ミルクティー」
「分かった」
と、浩志が肯く。
「石巻さん、やりますよ」
と、大宮が言った。
「いや、荷物をお願いします。飲み物は自分で」
「分かりました」
ラウンジも、ほぼ一杯だった。ファーストクラスもエグゼクティブも満席ということだ。浩志の分をとるのにも、相当に苦労したはずである。
飲み物を運んで、浩志もソファで寛いだ。
「——ありがとう。浩志、邦子と話した?」
「え?」
「邦子……知ってるのかな」
「ああ。今朝、電話して来た。ちゃんと知ってたよ。よろしく言ってくれって」
ゆかりは、ミルクティーをゆっくりとかき回した。
「そう。——撮影、順調だって?」
「うん。楽しいと言ってたよ」
「良かった」
ゆかりは、微笑んだ。「その内……きっと邦子の方が有名になるね。私は十年もたったら、『あの人は今……』って記事に、書かれるの。そういえば、こんな子もいたっけ、って」
「何だ、弱気だな」
ゆかりはちょっと笑って、
「浩志を見てるとね、つい自信なくすのよ」
「どうして?」
「いえ——自信じゃなくて、野心っていうのかな。浩志、そんなものと関係なく生きてるじゃない」
「そんなことないさ。人間は誰でも、少しはうぬぼれてる」
「浩志も?」
「ああ」
と、浩志は肯いた。
「どんな風にうぬぼれてるの?」
と、ゆかりは面白そうに、浩志の顔を覗き込んだ。
「大スターのゆかりのマネージャーになって、食わせてもらう、とかさ」
「本気で言ってない」
「当たり前だ」
二人は一緒に笑った。
そして——二人は何となくラウンジの中が静かになったのに気付いた。
「石巻さん」
大宮が、急いでやって来る。「あの連中——」
言われる前に、気付いていた。
入って来た五、六人の男たち。その一番前にいるのは、あの国枝定治だった。
「いやだ……」
と、ゆかりが呟く。「あの息子は?」
「しっ。——いないようです」
と、大宮が言った。
西脇が、国枝に挨拶している。——偶然だろうか?
もちろん、同じ所へ行くとは限らないわけだが。
国枝が、ゆっくりとゆかりたちの方へやって来る。ゆかりが浩志の腕をギュッとつかんだ。
「——これはどうも」
と、国枝は、相変わらずの愛想の良さで、「お幸せそうだな、二人とも」
「どうも、その節は」
と、浩志は言った。
「ハワイへ? こりゃ偶然だ」
と、国枝は言った。「我々もね、ちょっと仕事の用事があって、ハワイへ行くんだよ。——そうそう。息子も先に行って、遊んでいる。向こうでお目にかかれるかもしれないね」
それだけ言って、国枝は軽く会釈すると、ついて来た男たちが待っているソファの方へと歩いて行った。
ビジネスマンが何人か座っていたのだが、男たちに言われて、他へ移ったのである。
「——やれやれ」
西脇がやって来た。「同じ便にはなっていない」
「良かった!」
と、ゆかりが胸に手を当てる。
「偶然ですね」
「たぶんね」
と、西脇は肯いた。「しかし、例の息子があっちにいるとなると——」
「用心しましょう。何があるか分からない」
「却ってマスコミの目がどこにでもありますから、大丈夫でしょうが……。用心に越したことはない」
「浩志」
ゆかりが浩志の腕を痛いほどつかんで、「離れないでね」
と、言った。
TVの画面には、成田からの生中継の映像が出ていた。
ゆかりが、浩志と腕を組んで、カメラの方へ手を振りながら、歩いて行く。
邦子は、その画面をじっと眺めていた。
「——君の親友じゃないか」
と、三神が言った。
「ええ……。二人とも。昔からの友だちです」
三神は、ベッドに腰をおろした。ガウンをはおって、いつもの通りメガネをかけている。
「何となくおかしい」
ベッドの中で、邦子は体の向きを変えた。
「何が?」
「だって——あのときはメガネ外してるでしょ。別人みたいに見えるんですもの」
三神の大きな手が、邦子の腕をゆっくりとなでた。
「卑怯だと思うかね」
と、三神は言った。
「いいえ」
邦子は、枕に頭を落として、「大人ですもの。拒むことだってできる。——そうでしょう」
「そうだな」
「分かってました。こうなるだろうってこと」
「そうか?」
「ええ。最初にお会いしたときから」
「じゃあ、後悔しないか」
「しません」
と、邦子は言った。
TVには次々に搭乗口を入って行く芸能人の姿が映し出されている。
「これが人気の象徴だ」
と、三神はTVを見ながら、言った。
「プライバシーも、人気の内なんですね」
「そう。しかし、本物の女優には、そんなことは必要ない」
「ええ。でも——少しは、あんなことがあってもいいと思うけど」
そう言って、邦子は笑った。
「そうなるとも。君は、立派に中身の伴ったスターになる」
「そう思いますか」
「思うんじゃない。僕には分かってるんだ」
三神がメガネを外すと、ベッドへ入って来る。
邦子はその力強い腕に再び抱かれながら、目はいつしかTVの画面に向いていた。
「TVを消して」
「うん?」
「TVを消して下さい」
「ああ」
三神は、リモコンを取ると、TVを消した。
——行ってらっしゃい、浩志。
邦子は、三神の胸に顔を埋めながら、そう呟いたのだった。