「あ、安土ゆかり!」
と、声が上がる。
「十五回」
ショーウィンドウを覗《のぞ》きながら、ゆかりは言った。
「何だい?」
と、浩志はゆかりの方を振り返った。
「十五回って言ったの。今、私のこと、言ってたでしょ」
「日本の観光客だろ」
「そう。さっきホテル出てから、一時間の間に、十五回聞こえた、自分の名前」
「数えてたのか?」
と、浩志は呆《あき》れて言った。
「ホテルに帰るまでに何回聞こえるか、賭《か》けない?」
と、ゆかりは浩志の腕に、しっかり自分の腕を絡ませて、言った。
「いやだよ。僕は賭けるものなんかない」
と、浩志は苦笑した。
「浩志を賭けて」
「僕を?」
「私が勝ったら、浩志が今夜私のベッドに来る」
「負けたら?」
「私が浩志のベッドに行く」
二人は、一緒に大笑いした。
——ホノルルの大通り。
日本にいるみたい、というのは少しオーバーとしても、ともかく日本人の多いこと、予想はしていたが、驚くほどだ。
暑いというほどの陽気ではなく、泳ぐ気にはなれなかったが、こうして町をぶらつくには適当な気候だった。
「あ、どうも」
と、ゆかりは芸能人とすれ違って、会釈したが、「誰《だれ》だっけ、今の?」
「知らないで挨《あい》拶《さつ》してるのかい?」
「顔は見たことあるもん。でも、TVとかと全然違うイメージで歩いてるから、分かんないのよね」
そう。——ゆかりなど、こうしていても、あまりTVで見るのと変わらないので、余計に気付かれるのだ。
下手をすると、誰も気付かないかも、と思うほどイメージの違うタレントもいるが、そこは当人も心得ていて、いやでも目をひく派手な格好をしている。
「ああ、やっと追いついた!」
と、大宮が走って来る。
「どうしたの?」
と、ゆかりが振り向く。
「だって——いつもそばにくっついてろ、って指示ですからね」
「ベッドの中でも?」
ゆかりがからかうと、大宮は真っ赤になって、
「いや、そこまでは……」
と、真剣に口ごもっている。
浩志は笑った。——少々気が重いのも確かだが、それでも、この休日を、浩志は楽しんでいたのである。
そろそろホテルに戻ろうか、ということになって、浩志とゆかり、それに大宮の三人は近道を通ることにした。
「ホテルの近くばっかり歩いてるから、やたらこの辺詳しくなっちゃったね」
と、ゆかりが言った。
確かに、目抜き通りから少し入ると、意外なほど静かなのだ。——まあ、観光客が通るような道じゃないのだろう。
「あのバス、何なの?」
と、ゆかりが、道ばたに寄せて停《と》まっているマイクロバスを見て言った。「昨日もあそこにいなかった?」
「何か日本語で書いてあるな。——ああ、分かった」
と、大宮が言った。「射撃ですよ」
「射撃?」
「ピストルを撃てるんです。三〇ドルくらいかな。観光客相手の商売ですよ」
「ピストルって、本物の?」
と、ゆかりが言った。
「そうですよ。ゲームセンターみたいな所ですけどね。一回行ったことあるな」
浩志も、そういう場所があることは知っていた。客はほとんど日本人なのだろう。
「ね、誰でも撃てるの?」
と、ゆかりが目を輝かせる。
「だめですよ! 万一、事故でもあったら、どうするんです。僕は切腹、打ち首だ」
大宮は大真《ま》面《じ》目《め》に言って、さっさと歩き出す。
「——さ、ホテルへ戻りましょう。今夜は取材が入ってんですよ」
ゆかりは口を尖《とが》らしていたが、やがてスタスタ歩き出したと思うと——タタッと駆け出して、そのマイクロバスに飛び込んでしまった。
「ちょっと!——いけませんったら!」
大宮と浩志があわてて追いかけ、バスへ乗り込むと、ゆかりはアメリカ人のドライバーのそばに座っていた。そして、二人が乗って来たのを見ると、
「OK! レッツゴー!」
と、声高らかに言った。
バスの扉が閉まり、走り出す。浩志たちは、危うく引っくり返りそうになって、座席にドスンと腰をおろした。
「三人だけよ、お客。貸し切り」
と、ゆかりは呑《のん》気《き》なことを言っている。
「あのね……。こんなことして——」
「もう手遅れ。ね、浩志。二人で心中しようね」
浩志はふき出してしまった。
「かなわないな。大宮さん、大丈夫でしょう。普通の観光客も大勢行くんだから」
「社長にばれたら、大目玉だ……」
と、大宮が頭をかかえる。
「私の腕を見せたげる!」
と、ゆかりは指をポキポキ鳴らして、ドライバーの青年が愉快そうに笑い声を上げた。
マイクロバスは十五分ほど走って、少しごみごみした通りで停《と》まった。
「こんな町の真ん中なの?」
と、ゆかりがバスを降りて、目を丸くする。「表の広い所で撃つのかと思った」
「機関銃撃つわけじゃないんですから」
と、大宮も諦《あきら》めたのか、「この二階みたいですね」
三人で階段を上って行く。
下はゲームセンターで、ロックがにぎやかに鳴っている。
「いらっしゃいませ」
日系らしい女性が、受付に立っていた。
バン、バン、と奥の方から銃声が聞こえて来る。
大宮が現金で先払いし、三人とも書類にサインをする。
何か事故があっても自分の責任、という承諾書である。何でも訴訟になる国だから、こういう習慣になっているのだろう。
「ここは室内だから、二十二口径の、一番小型の銃しか撃てません」
と、大宮は言った。「これっきりですよ」
「はいはい。——どこで撃つの?」
「案内してくれますよ」
大柄な黒人の青年がやって来て、三人を手招きした。人なつっこい感じの青年で、何となく浩志はホッとした。
弾丸は十二発ずつ。ずつ、というのは、オートマチック、リボルバーの二種類の拳銃と、ライフルの、三種類を撃つことになっているからだ。
「ワクワクしちゃう」
と、ゆかりは喜んでいる。
「銃口を絶対人に向けないで、と言ってます」
と大宮が説明した。
「はい」
——二十二口径の拳銃とはいえ、鉄の塊だから、持つと手にずしりと来る。しかし、ゆかりのような女の子でも、両手でしっかり握れば、ちゃんと支えられる程度の重さである。
浩志は、弾丸をこめてもらったリボルバーを手にして、標的を眺めながら、これでも、近い距離なら充分に人が殺せるのだと思った。ちょっと背筋に冷たいものが走る。
教えられた通りに構え、狙《ねら》いを定めて、ゆっくり引き金を引く。銃声は、映画とかで聞くのとは大分違って、短い破裂音。衝撃は意外なほど小さい。
細かく仕切られた隣では、ゆかりが一人でワーワー言いながら、撃っている。
「社長が知ったら……」
と、大宮はまだ呟《つぶや》いていた。
——都合三十六発の弾丸は、アッという間に撃ち尽くし、三〇ドルの遊びは終わった。
「見て見て」
と、自分で撃った紙の標的をもらって、ゆかりははしゃいでいる。
浩志は、自分でもびっくりするほど、弾丸がよく命中しているのを見て、改めて怖いと思った。
「こんなこと、一回で充分」
と、大宮はゆかりをせかして、「さ、ホテルへ戻りましょ」
「はいはい」
ゆかりは、その紙の標的をたたんでバッグへしまい込むと、「帰ったら、邦子に見せてやろう」
と言いながら、階段を下りて行った。
「タクシーで帰りましょう。バスは今、迎えに出てるそうですから」
と、大宮が言った。
「ゆかり」
浩志がゆかりの腕をつかんだ。
「え?」
ゆかりは、浩志の視線を追って、やって来る男たち——国枝貞夫と、数人の子分たちに気付いた。
「どうしよう」
「黙って。偶然だよ。人目がある。大丈夫だ」
浩志は、ゆかりの肩を強く抱いた。
国枝貞夫は、ポロシャツ姿で、相変わらずどこか暗い光をたたえた目で、ゆかりを見た。
「やあ。——また会ったね」
ゆかりは、何も言わなかった。
国枝貞夫は、チラッと三人が下りて来た階段の方へ目をやると、
「射撃? 面白かったかい?」
と、言った。「もっともっと、いくらでも撃たせてあげるよ、君がやりたけりゃ」
「もう充分やりました」
と、ゆかりは言った。
「そう? じゃ、今度は、この二枚目さんを的にして撃つってのはどうかな? 面白そうじゃないか」
貞夫は、声をたてずに笑った。
「タクシーだ」
大宮がタクシーを停める。
「じゃ、失礼」
と、浩志は言った。
「また会えそうだね」
貞夫は、軽くゆかりに会釈をして、行ってしまう。
「——やれやれ」
タクシーが走り出すと、大宮はホッと息をついた。「とんでもない所で」
「冷や汗かいた? ごめんね」
と、ゆかりは後ろの座席で、浩志の腕を、まだしっかりとつかんでいる。
浩志は、ゆかりの中に、あの恐怖がまだしっかりと根づいて、忘れられないのだと思った。
もちろん、ホテルや大通りを歩いている限りは安心だろう。しかし、記憶は——過去の恐怖だけは、どう用心しても、それから逃げることはできないのである。
あちこちでフラッシュが光る。
甲高い笑い声。人を呼ぶ声も、びっくりするほど大きい。
——今夜はホテルで、ちょっとしたパーティーが開かれていた。このホテルは、浩志やゆかりももちろん泊まっているのだが、芸能人が一番多く泊まることでも有名だ。
他のホテルにいる芸能人も集まって、このバンケットルームで、ビュッフェスタイルのパーティー、というわけ。一つには、やって来ている取材陣へのサービスでもある。
サービスというのは、まとめて写真がとれるし、スターたちも着飾ったところを見せられるので双方にプラス。そして、食べものにありつけるという点でも、誰《だれ》もこのパーティーにはいやな顔を見せないのである。
費用の方は、いくつかのプロダクションで分担している、ということだった。
もちろん、ゆかりも浩志と腕を組んでパーティー会場に入る。——もう、パーティーが始まって一時間ほどたっていた。
ゆかりの仕度に少し手間どったのである。
「やかましいね」
と、浩志は会場へ入るなり、顔をしかめた。
「ほらほら。ニッコリ笑って。いつ写真とられてるか分かんないのよ」
と、ゆかりが浩志の腕に自分の腕をしっかりと絡め直す。
「君がニッコリ笑ってりゃいいのさ」
と、浩志は言った。「それにしても、何でみんなこんなに声が大きいんだ?」
実際、間近にいる人とおしゃべりしていても、会場中に響きわたるような大声を出すのだ。それを大勢がやるのだから、大変なものだ。
「みんな目立ちたいの」
と、ゆかりが言った。「何をしゃべってても、食べてても飲んでても、同じ。みんな、こう言ってるのよ。『私はここにいるわ!』ってね」
「なるほどね」
カメラマンたちが、ゆかりと浩志の方へ集まって来る。そばについていた大宮がスッと離れた。
これも、ゆかりとの「友情」のためか。浩志は精一杯愛想よく笑って見せたが、フラッシュがひとしきりたかれて、途切れると、ゆかりがふき出した。
「何だい?」
「笑ってるつもりでしょ、浩志? 歯でも痛いのかって顔よ」
浩志は苦笑した。
「——さ、何か食べましょ。余らしたってもったいないわ」
と、ゆかりは言った。
二人で、皿に料理をとり分けていると、
「あら、珍しいところで」
と、声がした。
神崎弥江子が立っていた。
「どうも……」
ゆかりは、こわばった顔で、神崎弥江子に挨《あい》拶《さつ》した。
邦子の出番をカットさせた一件があるので、ゆかりは怒りを隠せないのだ。
「今日着いたの」
と、弥江子は、ゆかりの不愉快そうな様子など気にも止めず、「何しろ巨匠のお仕事は、予定通りには進まないのよね」
浩志は、邦子の話を思い出していた。——このベテラン女優と沢田慎吾が、いやに親切にしてくれて気味が悪い、と言っていたっけ。
「撮影は順調ですか」
と、浩志は訊《き》いた。
「そうね。ときどき雷は落ちるけど、たいていは、あの二枚目さんの上」
と、弥江子は笑った。
「いい映画になるといいですね」
浩志は、そう言って話を打ち切るつもりで、「じゃ……」
と、ゆかりを促して行きかけた。
「なるでしょ、いい映画に」
と、弥江子が言った。「何といっても、巨匠が個人指導に熱心ですもの」
何か、含みのある言い方だった。
「原口邦子のことですか」
と、浩志は訊いた。
「そう。お正月休み中も、みっちり仕込まれてるようよ。ベッドの中で」
「嘘《うそ》」
と、ゆかりがはね返すように言った。
「本当よ。あの監督の手の早さ、有名でしょ?」
「浩志。行こう」
ゆかりが浩志の腕をつかんで、神崎弥江子から離れた。
「やれやれ……」
「頭に来る女! フルーツポンチでも頭からぶっかけてやりたい」
「落ちつけよ。相手にしないことさ」
と、浩志は言って、料理を口に入れた。「——大味だな」
「嘘よね、浩志」
と、ゆかりが言う。
「邦子のことか?——どうかな」
「まさか……あの三神監督と?」
「邦子は、いつも仕事に恋をしてる。そうなっても、おかしくはないだろ。これまでにもなかったわけじゃない」
「そうだけど……」
と、ゆかりは不満げに言ってから、「ま、あの沢田慎吾なんかよりは、ずっとましか」
と、肯《うなず》いた。
邦子と三神憲二。——ありえないことではない、と浩志は思った。邦子は、仕事の情熱が、そのまま現実の恋へと直結してしまうタイプの子なのだ。
しかし、浩志の胸中には複雑なものがあった。