疲れ切って、浩志はアパートへ戻った。
雪でも降り出しそうな天気で、ひどく寒い。——今何時なんだ?
階段を上って、自分の部屋までが、ひどく長い。
夕方……。そう。たぶん、そろそろ夜になるころだ。スーツケースを成田で受け取って来なくてはいけなかったので、ずいぶん手間どってしまったのである。
大宮は、一応当面は危機を脱したということだが、意識不明のままだし、油断はできない状態だった。
スーツケースの重さが、応える。部屋へ入っても、冷え切っていて、とても体を休められる状態じゃないのだ。
浩志は、玄関の鍵《かぎ》をあけ、ドアを開けて——。
「お帰り」
克子が、ちょこんとコタツに入って、こっちを見ている。
「克子……。何してんだ?」
「ご挨《あい》拶《さつ》ねえ。部屋をあっためといてあげたのよ」
確かに、石油ストーブが赤い火を見せて、体のほぐれる暖かさだ。
「ありがとう! 助かった」
浩志は、息をついた。「よく分かったな、今日帰るって」
「ホテルへまた電話してみたの。もうチェックアウトしたって言われて、びっくり。飛行機の時間、ゆかりさんのプロダクションに電話して聞いたの」
「そうか。この休みに、誰《だれ》か出てたのか?」
と、コートを脱ぐ。
「うん。おばさんみたいな人が、電話番してた。——でも、予定より早いでしょ。どうしたの? 夫婦喧《げん》嘩《か》?」
「よせ」
と、浩志は顔をしかめた。「とんでもないことになって……。ともかく、着がえるよ」
「何か食べる? お腹《なか》は?」
「お腹か……。そういえば空《す》いてる」
「呆《あき》れた」
と、克子は苦笑した。
「俺《おれ》の車で何か食べに行こう。ファミリーレストランは開いてるだろ」
「いいわよ。スーツケースは?」
「そのままでいい」
「後で洗濯ぐらいしてあげる。——もうあと二日でお休みも終わりよ。早いわねえ」
浩志は、普段着になって、体がやっと自分のものに戻ったような気がした。
「——行こう。ストーブ、消してくれ」
「うん」
克子が、何となく元気で、若々しく見えるのに、浩志は気付いた。いや、若いのだから当たり前と言ってもいいが、いつもはもっと疲れた感じがある。今の克子から、逆にそう気付いたのかもしれない。
「ひどい目に遭ったのね」
と、克子は、しばらく食事の手を止めて、兄の話に聞き入ってから言った。
「全く。ああいう連中にゃ、誠意だの、人間らしい感情なんか通じないんだ」
と、浩志は、怒りに任せて(?)、むやみに食べていた。
実際、機内から何も食べていないので、ひどく空腹だったのである。
「そんなに怒りながら食べたら、体に悪いわよ」
と、克子は言った。
レストランは大混雑で、浩志と克子はすれすれ、待たずに座れた最後の客だった。今はもう何十人もが入り口の辺りで待っている。
家族連れがほとんどだ。正月休みにどこかへ出かけても、大方は今日あたりに帰っている。
「——お父さんたち、みんなくたびれてるわね」
克子が、待っている客たちを眺めて、言った。
「うん?」
浩志も、食後のコーヒーを飲んで、少し落ちついて来た。——大宮が、このまま順調に回復してくれればいいのだが。
「ほら、欠伸《あくび》ばっかりしてる。きっと、何時間も車を運転して帰って来たのね」
浩志は、ゆっくりと首を左右へ傾けて、肩のこわばりをほぐした。
「誰でも、みんな何かしら問題をかかえてるんだ」
「そうね。殴られるほどでなくても」
と、克子は言った。「マネージャーさん、良くなるといいわね」
「うん。——これからどうしたらいいか、頭が痛いよ」
「でも、用心して。向こうはお兄さんのこと、恨んでるわけでしょ」
「ああ、気を付けるさ。しかし、まさかボディガードを雇うってわけにもいかない」
「難しいもんね。そんな連中を、どうして放っとくのかしら」
「いやな世の中だ。暴力でしか片付かないと思ってる人間、すべては金だと思ってる人間……。似たようなもんだよ」
浩志はふと思い出して、「そういえば、お前、電話で何か言ってたな。金持ちの坊っちゃんがどうしたとか」
「ああ、あれ?」
克子は笑って、「どうってことじゃないんだけどね……。スキー場に咲いた恋、とでも言うのかな」
「恋?」
「私に恋した男の子のこと。私がじゃないのよ」
「そうか」
そういえば、あの中年男と克子との間は、どうなったのだろう、と浩志は思った。
克子の話を聞いて、浩志は目を丸くした。
「また、えらい奴《やつ》と知り合ったもんだな」
「ねえ、私もびっくり」
と、克子は笑って、「いきなり黒木竜弘とご対面じゃ、面食らうわよね」
「その息子ってのは、もう帰って来てるのか?」
「まだでしょ。大学の休みは長いし。——スキーするのなら、ヨーロッパか、カナダにでも行きゃいいのにね」
浩志は、ちょっと妹を見つめて、
「で——お前、どうなんだ」
「どう、って?」
「その坊っちゃんと付き合う気、あるのか」
「やめてよ」
と、肩をすくめて、「しょせん、一時の気紛れ。——もう出ましょう。待ってる人に気の毒」
「そうか」
レストランの入り口辺りは、人が入り切れない様子。しかし、克子と浩志が立ってレジへ行くと、続いてゾロゾロと、三、四組が席を立った。
面白いもので、立つときは何となく「誘われる」ものらしい。
食事とおしゃべりで、帰り道、車を運転する浩志は、大分気持ちが軽くなっていた。
「どうする? 寄ってくか?」
「洗濯してあげる、って言ったわ」
「そうだったな」
浩志は、赤信号で車を停めると、「——克子」
「うん?」
「もちろん、お前がどんな男を選ぼうと、お前の自由だ。ただ——家族持ちは、結局、長く続かないぞ」
克子が、兄の横顔を見た。
「一度、偶然見かけた。結婚リングをはめた男と一緒だった」
「そう……」
「お前は二十一歳だ。若いんだ。忘れるなよ。その坊っちゃんとでも、少しのびのび遊んでみろ」
信号が変わり、車が走り出す。
「無理よ」
と、克子は言った。「当たり前の二十一に戻れやしないわ。お兄さんだって、そうでしょう? 二十五歳の男が、ゆかりさんと一つ部屋にいて、何もないなんて」
「それとこれとは——」
「同じよ」
と、克子は遮った。「私もお兄さんも、当たり前の恋をする前に、普通でない男と女を見すぎたんだわ」
ライトが流れて行く。冷たい空気は、透き通っていた。
「あの坊っちゃんと付き合えば、結局傷つけることになるわ。——自分が傷つくのは堪えられるの。でも、傷つけたくはない。それだけは、したくないの」
克子は、じっと前方を見つめながら言った。
「お前がそれでいいのなら」
と、浩志は言った。「ただ——お前はまだ結婚だの何だのと考えなくても、男と付き合える年齢だ。それを忘れるな、と言おうと思ったのさ」
「世間的には、そうでしょうね」
と、克子は言って、軽く息をつくと、「ま、黒木一族の若奥様におさまって、遊んで暮らすってのも悪くないか」
浩志はちょっと笑って、
「そのときは、運転手にでも雇ってくれ」
「お兄さんに運転なんてやらせられないわ。命が惜しいもん」
「言ったな」
浩志がアクセルをぐっと踏み、一気にスピードが上がると、克子は大げさに悲鳴を上げたのだった……。
「——いい加減でいいぞ」
と、浩志は言った。
「じゃ、すすぐの省く?」
「そりゃ困る」
「黙ってなさい、お兄さんは」
克子は、ハワイから浩志が持ち帰った下着やシャツを洗濯機に入れてセットすると、「もう買いかえたら、この洗濯機?」
と、言った。
——正月休みも、あと二日で終わり。
斉木は、どうしているだろう、とふと克子は考えた。黒木竜弘と食事をした、なんて言ったら、斉木はきっと目を丸くするに違いない。
社会的な地位のある人間、有名な人間というのに、斉木のようなタイプの男は、憧《あこが》れを持っている。いや、それが普通なのかもしれない。
兄にはああ言ったが……。克子は、自分にあの「坊っちゃん」、黒木翔と付き合う気がないかどうか、自信はなかった。
もし誘われたら、一度くらいは、と出かけてしまいそうな気がする。それは別に悪いことではないだろう。
ただ、それを楽しみにして、裏切られるのが、怖いのかもしれない。お姉さんぶってはいるが、克子だってまだ若いのだ。
「そういえば、親《おや》父《じ》から、何も言って来ないな」
と、浩志が言った。
「え?」
克子は我に返って、「いいじゃない。放っとけば」
「もちろん、構やしないけどさ。いつかのヤクザの車に乗ってたことを考えるとな。その内、何か言って来そうな気がする」
「私たちとは無関係な人よ」
「分かってる。しかし、それで他の誰《だれ》かに迷惑がかかるのが心配なんだ」
浩志には、このままではすまないだろうという、予感があったのである。
正月休みが明けて、いつもの通りの通勤ラッシュが戻って来た。
浩志は、仕事始めの日、森山こずえたちに渡すハワイみやげを下げて、混んだ電車で潰《つぶ》されそうになりながら、何とか無事に会社へたどり着いた。
あの事件が起こる前に、おみやげを買っておいて良かった、と思った。帰り間際に、と延ばしていたら、おみやげどころではなかったろう。
——大宮の具合は、一応心配のないところまで来ていたが、当分は絶対安静で、面会も、ごく限られた時間に制限されていた。
「あら、お帰りなさい」
森山こずえが、もう机に向かっている。
「やあ。——今年もよろしく」
「こちらこそ。あんまり日焼けしてないのね」
「それどころじゃなかったんだよ」
「何かあったの?」
まだ周囲の席がほとんど来ていないので、浩志は手短に事情を説明した。
「——ひどい連中ね!」
と、こずえは眉《まゆ》をひそめた。「気の毒に、マネージャーの人」
「ああ。結局、僕の代わりにやられたわけだからね。辛いよ」
「石巻さんのせいじゃないわよ。気に病んでても仕方ないんだから」
「分かってる。——しかし、これで終わるかどうか。ゆかりのこともあるし、今、プロダクションの社長が頭を抱えてる」
「何とかならないのかしらね、そういうのって。いつまでもヤクザとつながってなきゃ、やっていけないの?」
確かに、浩志もそう思う。
ロケをするときには、その辺の顔役に挨《あい》拶《さつ》しておかないと、現場に大きなトラックをわざと駐車させたり、そばで大きな音で音楽を流したりして、撮影ができないようにする、という話も聞く。
そういうところで、つい従来の「慣例」に従ってしまうのが、ああいう連中をのさばらせることにつながるのだ。といって、映画やTVの、厳しいスケジュールの中で、一分を惜しんで仕事をしているスタッフに、「そんな要求ははねつけろ」とはとても言えないだろう。
「まあ、あの社長も、大宮さんのことじゃ、相当頭に来てるからね。何か手を考えるだろう。——どうだった、君たちの方は?」
「ええ、のんびり温泉につかって、天国だったわ」
と、こずえはオーバーにうっとりした表情で、「これでいい男がいりゃ、言うことないね、って、女同士で話してた」
「迷惑かけたね。後でハワイのおみやげ、渡すよ」
「あら、そんな物——いただくわ」
と言って、こずえは笑った。
新年初日の仕事に調子が出て来るのは、やっと午後になってから。
といっても、よそも似たようなものだから、ちょうどいいのである。午後になって、一息ついているところへ、邦子から電話がかかって来た。
「——やあ、もう始まったのかい、撮影?」
と、浩志は訊《き》いた。
「明日から。準備が手間どって」
と、邦子は言った。「ゆかりのマネージャーさんのこと、聞いたわ。大丈夫?」
「耳が早いね」
「もう、業界じゃ知れわたってる。具合、どうなの?」
「うん、命は取り止めたけど、当分入院だ」
「ひどい話ね。——ね、用心してね、浩志」
「ああ、気を付けてるよ」
「それと……大女優さんに会ったんだって、ハワイで?」
「神崎弥江子? うん、パーティーでね」
「何か言ってた、私のこと?」
「君はうまい、と言ってたよ。今さらって気で聞いてたがね」
もちろん三神とのことを、邦子に、それもこんな電話で訊くわけにもいかない。
「その内、会おうね。撮休の日、前もって分かるから」
「ああ、そうだな」
と、浩志は言って、「そういえば、克子の奴、スキー場で、ちょっとしたロマンスがあったらしいよ」
「あら、すてき」
「克子には僕から聞いたなんて言うなよ。殺される」
「分かってる」
邦子は笑って、「じゃあ。これから衣裳合わせなの。浩志の声、聞きたくってさ」
「頑張れよ」
「週刊誌にのるでしょ、ゆかりとの写真。楽しみにしてるよ」
「僕の方はトリミングされてるかもしれないぜ」
と、浩志は笑って言った。
電話を切って——ふと、浩志の脳裏に、三神に抱かれた邦子の表情が浮かぶ。それは、あのとき、ハワイで浩志に抱かれようとした、ゆかりの顔と重なった。
いつまでも、この「三人の関係」は続けて行けるのだろうか? 来年の今日、自分はゆかりや邦子と、同じように話していられるだろうか……。
「——石巻さん」
と、森山こずえが言った。「受付にお客様ですって」
「僕? 誰かな。——ちょっと行ってくる」
席を立つのも悪くなかった。体が久しぶりのデスクワークで、こわばっている。
しかし、受付に出て行った浩志は、一瞬足を止めた。毛皮のコートを着て立っているのは、父の後妻、法子だった。