「昨日、来てしまって」
と、法子はコーヒーを飲みながら、苦笑した。「まだお休みだったんですね、会社」
「普通の会社は今日からですよ」
と、浩志は言った。「何か急ぎの用ですか?」
追い返すわけにもいかず、浩志は法子を近くの喫茶店に連れて行った。
さぞかし、田舎の町では目立つだろう毛皮のコート。しかし、こんな場所では、何とも不似合いな、場違いな姿に見える。
法子は、ひどく落ちつかない様子だった。以前の法子は、浩志を小《こ》馬《ば》鹿《か》にするような態度をとっていたものだ。それが、今はなぜか目が合うのすら避けている。
「——お父さんのことで」
と、法子は言った。
「何です?」
あなたの夫でしょ、まだ、と言いかけて、何とか抑えた。こんな女と言い争っても時間のむだだ。
「怖いんです」
法子は思いもかけないことを、言い出した。「あの人……仕返しに来るわ、きっと」
どうやら、演技ではないらしい、と浩志は思った。法子は本当に怯《おび》えている。
「どうしたんです、一体?」
「あの人が世話になっているのは、こっちで結構力のある暴力団らしいんです。そこが、人をよこして」
「家へ?」
「ええ。——おとなしく、家と土地を返してやりな、と脅したんです。言葉はていねいでしたけど……あれは普通の男たちじゃありません」
「それで?」
「弟の方へも、誰《だれ》か行ったようで、青くなって帰って来ました。——自分の車を持ってるんですけど……。何とかいう外国のスポーツカーを。それが駐車場で燃え上がって……」
「放火ですか」
「誰も見ていなかったんですけど、そうに決まっていますわ」
浩志は、ため息をついた。
「僕に相談されても……。父とあなたの間のことじゃありませんか」
「だって、あなたのお父さんですよ」
と、上ずった声で法子は言った。
「僕はそう思っていません。克子もです」
浩志はきっぱりと言った。
「そう……。あなた方が腹を立てるのも分かります」
法子は目を伏せて、両手はひっきりなしにコーヒーカップをいじっていた。「でも、初めから、あの家や土地を狙ってたわけじゃないんですよ。本当です」
「そうですか」
浩志は無関心な口調で言った。実際、土地のことなど、何の興味もない。
「あなたのお父さんは、頭が固くなって、もう商売ができなくなっていました」
と、法子は続けた。「好き嫌いが極端になって、人を信じなくなったんです。逆に、一《いつ》旦《たん》信用すると、その人に大金を任せて、大損したり」
「なるほど」
浩志は適当にあいづちをうった。
「あのまま放っておけば、きっと遠からずあの家や土地を失ってました。本当です」
法子は少し早口になった。「何もかも失くしてからじゃ手遅れです。そうでしょ? だから私は——」
呆《あき》れて、ものも言えない。父を騙《だま》して、土地ごと取り上げたのが、「父のためだった」と言うのだ。
「ご親切に」
と、浩志は言ってやった。「それで父を追い出したわけですか」
法子は少しひるんだが、
「自分で出て行ったんですわ、あの人」
と、言い返した。
「しかし、別に連れ戻そうともしなかったじゃありませんか」
法子も、そう言われると、何とも抗弁できない様子だった。
しかし、浩志としても、父がなぜこの東京で、暴力団の世話になっているのか不思議だった。もちろん、浩志の知らない内にそういう知り合いができていたとしても、おかしくはない。
だが、それなら初めに家や土地を取られたとき、なぜすぐに頼って行かなかったのだろう?
「浩志さん」
と、法子は少し身をのり出して、「お願いです。あの人と話して。いつでも帰って来ていいって。本当です。悪気があったんじゃないと説得してほしいの」
「僕にそんなことをする義務はありません」
と、浩志は言った。「むだですよ、何と言っても。これは、父とあなたの問題だ」
「聞いて。もし、あの人をうまく説得してくれたら……あの土地の半分、あなたにあげます。いいえ、もともと、あなたがもらっていい土地なんですもの」
全く言葉の通じない外国人と話しているのも同じである。——価値観の違いは、どうすることもできない。
「そんなもの、ほしくもありません」
と、浩志は言った。「お話はそれだけですか? 仕事があるんでね、僕は」
法子は青ざめて、じっと浩志をにらんでいたが、
「——分かりました」
と、顎《あご》を上げて、「そのおつもりなら……。克子さんが泣くことになりますよ」
浩志は、じっと法子を見《み》据《す》えて、
「克子がどうしたんです」
と、言った。
法子は唇の端に、薄笑いを浮かべた。
何とか浩志に対して優位に立とうとしているようだ。その様子は、見ていて、こっけいだった。
「斉木って男、ご存知?」
「誰ですって?」
「斉木です」
法子はテーブルのガラスの上に、指で文字を書いた。
「心当たりはありませんね」
「商事会社に勤めている男性です。将来有望なビジネスエリート」
「その男がどうしたんです?」
「克子さん、その斉木と『深い仲』なんですよ。もう、ずっと。——もちろん斉木には妻子があります」
いつかホテルで見かけた、あの男か。浩志はじっと法子の視線を受け止めていた。
「そんなこと、いちいち調べてるんですか」
「あなた方がどうしてるか、少しは関心がありますから」
「それで? 克子はもう二十歳を過ぎた大人です。別に法律に触れることをしているわけじゃない」
「それはそうですけど……。私が斉木の奥さんに、克子さんのことを教えたら——。たぶん、克子さん、辛いことになるでしょうね。お兄さんとして、そんな立場に立たせたくないでしょ? 奥さんが、克子さんの勤め先に乗り込んだら? 克子さん職を失うかもしれませんね」
浩志は、法子の言葉を聞きながら、人間がどこまで卑劣になれるものか、信じがたい気持ちだった。——怒りが、静かにわき上がって来る。
「どうなさる? あなたが、お父さんと話をして——」
法子は、浩志の目に、怒りが燃え上がって来るのを認めて、言葉を切った。
浩志は腰を浮かして、それから思い付いて自分のコーヒー代を財布から出し、テーブルに置いた。
「浩志さん」
浩志を怒らせてはまずいと思ったのか、法子が急いで言った。「私だって、何も克子さんを泣かせたいわけじゃないわ。分かってちょうだい。あの人が何をするか分からないから——」
「克子は、もう泣いたりしませんよ」
と、浩志は言った。「十四のとき、充分に泣きましたからね。あんたのおかげで」
「浩志さん——」
と、法子が身をのり出して止めようとする。
浩志は、「当然なすべきこと」をした。平手で法子の頬《ほお》を叩《たた》いたのである。
力は入れなかった。何とか自分を抑えたのだ。しかし、びっくりするほど派手な音がして、喫茶店の中はシンと静まり返った。
他の客が、みんな浩志たちの方を見ている。
法子は、打たれた痛みよりも、思いがけない仕打ちのショックで、青ざめていた。
「これ以上、僕や克子につきまとわないでもらいましょう」
と、浩志は言った。「父のことは、あなたの問題だ。自分でまいた種は、自分で刈り入れることですね」
浩志は、喫茶店の中の客が一人残らず注目している中、ごく当たり前の足どりで、店を出たのだった……。
課長に来客があって、お茶を出すと、克子は自分の湯《ゆ》呑《の》みを手に、給湯室へ行った。
新しい葉を使ったから、自分でも一杯飲もうと思ったのだ。特別に飲みたいわけではないが、もったいない。
もちろん、大していいお茶を使っているわけではなかった。ただ、社員用のお茶(葉がなくて、ほとんど粉ばかり)に比べると、少しましという程度だ。
それでも、お茶を注《つ》いで、立ったまま飲んでいると、いくらか息抜きになる。
「——石巻さん」
と、同年代の女の子が、サンダルをカタカタいわせながらやって来る。
「あら。田舎へ帰らなかったの?」
と、克子は言った。
「うん。飛行機がとれなくて。混んだ列車に何時間も揺られてまで、帰りたくないわ」
と、首を振ってから、「ねえ、凄《すご》いじゃない!」
「何が?」
「隠したってだめ。玉のこしってやつ」
「ああ」
何とまあ早いこと。——黒木翔のことだ。恵子か伸子か、いずれどっちかの口から洩《も》れて、噂《うわさ》になるだろうとは思っていたが、初日からとはね……。
「うまく可愛《かわい》がっちゃいなさいよ! ね、『若奥様』におさまったら、ホテルの予約、取ってね」
現実的な「要望」に、思わず克子は笑ってしまった。
「そんなんじゃないわ。ただ珍しがってるだけよ、向こうは。私、好みじゃないの、ああいう人」
「もったいない! 私じゃだめかって訊いてみて」
克子は笑って、
「——ね、誰《だれ》から聞いた?」
「みんな、もうお昼休みには知ってたよ」
「参っちゃうな」
と、苦笑する。
まあ、話の種にするな、と言う方が無理かもしれないが……。しかし、もし克子が他の誰かのロマンスを聞きつけても、誰にも洩らさないだろう。
たとえ悪気はなくても、その「噂」が、思いがけず、人を傷つけることもあるのだ。
黒木翔か……。
自分でも意外なことに、克子は帰ってから何度も、あの若々しい——というより、むしろ無邪気な——翔の笑顔を思い出すことがあった。
それで胸がときめくというわけではなかったが、ただ、小さいころから「大人の世の中」ばかり見て来た克子にとって、あの翔の爽《さわ》やかな純情さは、いかにも新鮮だったのだ。
会いたい、といえば斉木の方に会いたいが、その一方で、克子は、もしこれきり黒木翔が何も言って来なかったら、ちょっと寂しいかな、と思ったりもした。
お茶を飲み終えて、席へ戻ろうとしていると、ちょうど武井恵子と出くわした。
「克子、ティータイム?」
と、恵子が言った。
「このおしゃべり」
と、克子が人さし指で、恵子のおでこをつついてやる。
「私じゃないよ。伸子さんの方。——ま、後から私も少ししゃべったけど」
「少し、ね」
克子は笑って、「これで振られたら、どうなるのよ、見っともない」
「大丈夫。人の噂も七十五日、よ」
自分で言いふらしといて、よく言うこと。
克子は、半ば本当に腹を立てていたが、しかし、そんなことを他人に言ってもむだだと分かっていた。人を愛すること、傷つくことを知っている人間でなければ、分かるものではない……。
席に戻って、仕事をしていると、電話が鳴った。一瞬、ためらった。
斉木からか。それとも黒木翔からか。
「——はい、石巻です」
「克子か」
「何だ、お兄さん」
「がっかりしてるような声だな」
と、浩志が言った。
「まあね。会社から?」
「うん。——お前、今夜、遅いか?」
「別に今のところ……。たぶん、特に用はないと思うけど、どうして?」
「ちょっと話がある」
「いいよ。じゃ……会社出るときに電話する」
「ああ、そうしてくれ。夕食でも食べよう」
兄の声が、珍しく沈んでいる。
「何かあったの?」
と、克子は少し声を低くした。
「法子さんが来た」
「へえ。——父さんのことで?」
「それもある。詳しいことは、会ったときにな」
「うん」
電話を切って、克子はふと不安になった。法子が、自分のことを何か言って来たのだろうか。
兄はさりげない話し方をしていたが、克子には分かる。かなり深刻なことなのだ。
いやだな、年明け早々に……。
頭を振って、克子は仕事に戻った。
「克子さん」
と、受付の女の子が白い封筒を手にやって来た。「今、これが」
「え?」
「どこかの事務所の子が持って来たの。あなたに届けてくれって言われたんですって」
「ありがとう」
白い封筒。——結婚式の招待状などによく使うやつである。
表に毛筆で、〈石巻克子様〉とある。裏を見て、克子は首をかしげた。聞いたことのない会社の名前である。
ともかく、封を切ってみると、やはり何かの招待状らしい、厚紙の二つ折りの書状が入っていた。
どこだかの会社の創業十周年記念パーティーへの招待状である。しかし、どうしてこんな物が?
目を通して、最後に書き添えられた言葉で、やっと事情は分かった。
黒木翔からのメモである。
〈突然、こんな物をさし上げてすみません。この会社は、父のグループの一つなんです。パーティーにおいでになりませんか? 連絡して下されば、お迎えに行きます。翔〉
克子は、ちょっと笑った。——何とまあ、せっかちな。
これが「若さ」というものだろうか。
もちろん、誘ってくれるその気持ちは嬉《うれ》しいが……。しかし、いい気になって、それに甘えていたら、ますます翔の方は夢中になってしまうだろう。
招待状を見直して、克子は目を丸くした。——パーティーって、明日の夜じゃないの!
着て行くものだってない。
そう。とても無理だわ。
克子は、しばらくその招待状を眺めていたが、やがて封筒へと戻すと、バッグの中へしまって、仕事の方に注意を戻した。
とても、無理……。
克子は、そう呟《つぶや》きながら、頭の中で、あれなら着て行けるかしら、と考え始めていた。もちろん、上等なドレスなどは持っていないが、仕事を持っている女性として、一応見っともなくないスーツやワンピースはいくつかある。
でも、あまり妙な格好で行ったら、翔に恥をかかせることにならないだろうか。
克子は、自分がすっかりパーティーに出る気になっているのに気付いて、苦笑した。
そう。お兄さんに相談してみよう。どうしたものか。
でも、分かっていた。兄がどう言うかも見当はつくが、兄の言葉とは関係なく、自分がそのパーティーに行くに違いない、ということが……。