「悪かったな」
と、浩志は言った。「ただ——どうしてもあの女の言うことを、黙って聞いてられなかったんだ」
「分かるわ。当然よ」
と、克子は言った。「私だって——いえ、私だったら、きっと頭からお茶でもぶっかけてたかもね」
二人の前の〈定食〉は、半分ほどしか食べられていなかった。のんびりと食べながら話すというわけにはいかなかったのである。
「しかし、もしあの女が本当にその……斉木とかいう男の奥さんに知らせたりしたら……」
斉木、という名を兄の口から聞くのは、何だか奇妙な気持ちがした。まるで自分の全然知らない、よその人のようで……。
でも、確かにそうなのだ。斉木は「よその人」で、克子にとっては、「何でもない」。恋人? そうだろうか?
「——いいのよ」
克子は、はしを取って、「どうせ、終わりにしなきゃ、と思ってたの。ね、食べよう。夜中にお腹《なか》が空《す》くよ」
「ああ……」
浩志は、少し冷めたお茶を飲んで、「しかし、いいのか、それで?」
「良かないけど、仕方ないでしょ。あの法子さんのために、父さんのことをどうにかしてやるなんて、とんでもないわ。そのせいで、何かあったら、そのとき考えるしかないじゃない」
「そうだな」
浩志は、ややホッとした様子だった。「ああ言っていたが、本当は何もしないと思う。こっちをとことん怒らせるのは損だ、と思ってるんだ。親《おや》父《じ》のことがある限り、こっちも役に立つと思ってるだろうしな」
「おあいにくさま、ってとこね」
克子は、少し無理をして笑って見せた。「でも、お父さん、ずいぶん大物の所に世話になってるのね」
「それは気になってるんだ」
と、浩志は肯《うなず》いた。「どういうつながりがあったのか……。それに、その暴力団が、親父を大事にして、どんな得をするのか、もな」
「そうね。見当もつかないわ」
と、克子は首を振った。「どうするの?」
「うん、西脇さんに、ちょっと相談してみようと思ってる」
「西脇さん? ああ、ゆかりさんの事務所の社長ね」
「うん。そっちの方面には詳しいはずだ。親父が世話になってるって人の名刺がとってある。あれを見せて、調べてもらおうと思ってるんだ」
「でも——いやね、本当に暴力団なんかと付き合いがあったんだったら」
と、克子は顔をしかめて言った。
二人は、少し落ちついた気分で、定食をきれいに食べ終えた。
——克子は、実際、複雑な気持ちだった。
もし、本当にこれが原因で、斉木との間が終わるようなことになれば……。そのときは、あの妻の南子との話がどうなるか。そして、最悪の場合、克子は、斉木と職場と、二つを失うかもしれないのだ。
——恋人と仕事を一緒に並べるのはおかしいかもしれないが、決して楽とは言えない暮らしをしている一人身のOLにとって、安定した収入は、恋人と同様に大切である。
「いいか」
と、浩志は言った。「もし、何か困ったことになったら、俺《おれ》に連絡しろ。分かったか?」
「うん」
と、克子は肯いた。「でも、大丈夫。私は子供じゃないわ。ちゃんと自分で対処できるわよ」
「もちろん、分かってるさ。しかし——第三者がいた方がいいことだってある」
克子は微笑《ほほえ》んで、
「お兄さんは、ゆかりさんと邦子さんのことで手一杯でしょ。それに、自分のことも心配しなさいよ」
「言ったな」
と、浩志は笑って人さし指で妹のおでこをちょっとついてやった……。
結局、克子は話さなかった。
黒木翔がよこしたパーティーへの招待状のことを。——だって、斉木と別れるかどうか、なんて話をしていて、ほかの男の子のことを持ち出すのも、妙な気がしたのだ。
アパートへ戻って、冷えた部屋に入ると、克子は身震いした。
もちろん、昼間は少し日も入っているのだが、夜まで暖かく保っていてはくれない。石油ストーブの火を点《つ》けて、その前にしゃがみ込むように座り、赤い火が、体を、そして部屋そのものを暖めてくれるのを待つ。
時間がかかるのだ。しかし、そうしてから着がえないと、本当に風《か》邪《ぜ》を引いてしまう。
待つ間に、バッグからあの招待状を取り出してみる。——改めて見直すと、やはりいかにも自分など場違いな存在に見えて来そうで、ためらってしまう。
断るべきだ。——そう。しょせん、あの子は私と別の世界の人間なのだ。
克子は、電話をストーブの前まで持って来ると、招待状に書き添えられた番号へかけようとして、ためらった。二度、三度、ダイヤルしかけて、やめてしまう。
放っておけばいい。何も返事をしなければ、向こうは断られたと思うだろう。でも、それは失礼なことになるかもしれない。
目の前の電話が鳴り出した。そっと受話器を取ると、
「もしもし」
斉木の声が聞こえて来た。
「お帰りなさい」
と、克子は言った。「今、どこから?」
「外だよ。今夜は新年会で」
斉木の電話の周囲は、確かに大分騒がしかった。
「どうだった、スキー?」
「ああ、なかなか楽しかった。体中が痛いがね」
と、斉木は笑って、「どうだった、君の方は?」
まだ、少なくとも斉木は何も気付いていない。妻が他の男と新しい生活を始めるつもりでいることなど……。
「色々あったわ。転んだこと以外にもね」
と、克子は言った。「大学生の男の子と、向こうで知り合ったの。楽しかったわ」
「へえ。やけるね。どの程度の仲まで行った?」
「やめてよ」
と、克子は苦笑した。「ただおしゃべりしただけ。——もし、もっと進んでたら、どうする?」
「気が狂うかな、嫉《しつ》妬《と》で」
「よく言うわね」
克子は笑って、「奥さんもお子さんも、元気だった?」
「ああ。娘がすっかりスキー、うまくなってさ。子供ってのは凄《すご》いな、全く」
その内、あなたでない「お父さん」と、スキーをすることになるのよ、と克子は心の中で呟《つぶや》いた。
「一度、会わないか。忙しいけど、何とか時間を作る」
「いいわ。でも——明日はちょっと予定があるの」
克子は、招待状を眺めていた。
「僕も一週間くらいは、とても無理だな。じゃ、来週でも、また電話するよ」
「待ってるわ」
と克子は言って、「あなた……」
「じゃ、また。もう戻らないと。まだ他の連中と一緒なんだ」
「そう。それじゃ……」
「またかけるよ」
ポンと電話が切れて、たぶん斉木は忙しく駆け戻っているのだろう。
——新しい年。
しかし、たぶん今年は何もかも、けじめをつける年になるだろう。斉木のこと、父のこと、そして克子だけでなく、兄の浩志もまた……。
寒かった部屋が、やっと暖かくなって来て、克子の体もほぐれて来る。
着がえをすると、小さなお風《ふ》呂《ろ》にお湯を入れる。後はもう寝るだけ、か……。
「どうしよう」
克子は布団を敷くと、腹《はら》這《ば》いになって黒木翔から来た招待状を、何回も見直している……。
会社の帰り、大宮を見舞いに、浩志は病院へ寄った。
「やあ、どうも」
西脇が、廊下の椅《い》子《す》から立ち上がった。
「どうですか、大宮さん?」
と、浩志は訊《き》いた。
「ええ。もう意識も戻ってるし、大丈夫だということです」
「良かった! ゆかりも喜んでるでしょう」
「ええ。大宮の奴《やつ》、『いつもこれぐらいもてるといいのに』って言ってました」
「それだけ言えるようになりゃ上出来ですね」
と、浩志は笑って、「会えますか?」
「どうぞ」
そっとドアを開けて病室へ入ると、大宮がベッドで眠っている様子。
起こしても可哀《かわい》そうだ。ともかく、そばへ行って、大分顔色が良くなっているのを確かめると、浩志はそっと病室を出ようとした。
「あ……。石巻さん」
と、声がして、大宮が目を開けている。
「何だ。起こしちゃったようですね」
「あんまり眠り過ぎて、病気になりそうですよ」
と、大宮は言った。
声に力はないが、目はしっかりと浩志を見ている。
「ゆっくり治療して下さい。大事をとらないと」
「ご心配かけて、すみません」
「とんでもない。僕こそ——」
と、浩志はちょっと詰まって、「僕の……代わりに殴られたんですからね、大宮さん」
「いつもスターの代わりにいじめられてますから、慣れてます」
と、大宮は言って、「用心して下さいよ。あの連中は、執念深い」
「僕のことより、自分のことをまず心配しなきゃ」
「ええ……。ゆかりさん、大丈夫かな。僕がいないと、時間に遅れそうだ」
「仕事の心配ですか? やせますよ」
「そう。——期待してんです。この入院で大分スマートになるんじゃないかってね」
大宮の明るさは、浩志にとって、大きな救いだった。
また来ます、と言って廊下へ出ると、
「石巻さん、ちょっとお話が」
西脇が、少し深刻な表情をしている。
「——何ですか」
「今朝お電話いただいた、大場という男のことですがね」
大場というのは、父が世話になっているという、どこだかの〈専務〉である。西脇が暴力団のことに詳しいと思って、浩志は今朝、電話で話しておいたのである。
「何か分かったんですか?」
「どうやら、厄介なことになりそうです」
と、西脇は言った。
浩志と西脇は、病院の中にある喫茶室に入った。
もちろん、インスタントなみのコーヒーが出て来るような店だが、ともかく客が少なくて、空いている。
「——どういうことです?」
と、浩志は言った。
「その大場という男のいる会社のことを、当たってみました。その筋への対策を専門にやっている人間もいますからね」
と、西脇は言った。「石巻さん。——あなたのお父さんが世話になっているという、この大場という男、あの国枝の子分なんですよ」
浩志は、耳を疑った。
「あの……国枝定治の、ですか」
「そうです。この会社も、もちろん名目上は違うが、国枝のものと言っていいそうです。つまり、あなたのお父さんは、国枝に面倒をみてもらっているということになります」
浩志にとっても、あまりに思いがけない事実だった。
「何か心当たりはありますか」
と、西脇は訊いた。「何もないのに、国枝の名前が出て来るとは思えない」
「そうですね……。いや、僕には見当もつきません」
浩志は首を振って、「何てことだ……。大宮さんをあんなひどい目に遭わせた奴のところにいるなんて」
「偶然かもしれません。しかし、その可能性は万に一つ、というところでしょう」
浩志は、おいしくもないコーヒーを、ゆっくりと飲んだ。少し時間が必要だった。
「父が、もとから国枝を知っていたとは思えません」
と、浩志は言った。「ですから、これはたぶん国枝の方が父に近付いた、とみるべきじゃないでしょうか」
「なるほど」
「どうしてだか、国枝は、僕の父が家をとり上げられて、上京して来たことを知ったんでしょう。そして結局、僕の所にも妹の所にもいられなくなり、父は出て行った。そこへ国枝が声をかけて……」
浩志は、ため息をついた。「父にしてみれば、渡りに船です。下手すりゃ、道ばたで寝なきゃいけないところを、面倒みてくれるというんですからね」
「しかし、何のために?」
「国枝は、僕を恨んでるはずです。ゆかりとのことは、一応息子が悪いということで決着をつけましたが、あれが国枝の本心とは思えません」
「確かにね」
と、西脇は肯《うなず》いた。「——そうだ、ちょっと待っていて下さい」
西脇が、電話をかけに席を立つ。浩志は頭をかかえた。
とんでもないことになったものだ。
西脇は、五、六分電話で話して、戻って来た。
「一応調べさせておいたんです。あなたのお父さんが、今、どんな風に過ごしておられるか」
「何か分かりましたか」
「至って丁重に、もてなされているらしいですよ。車も自由に使えるし、若い男が二人ほどついて、好きに暮らしておられるようだ」
浩志は、西脇の話に、呆《あき》れずにはいられなかった。
赤の他人が、それも国枝のような人間が、どうしてそこまでしてくれるのか、父は考えたことがないのだろうか。
その国枝のせいで、浩志がどれほど迷惑しているか、そこまでは父に分からないにしても、何か裏にあると考えて当然ではないか。
それを、土地を取り戻そうとして、自分の妻をおどすことまでやらせているのだ。——浩志は、これだけですむわけがないということに思い当たると、気が重くなった。
つまり、国枝は何か目的があって浩志の父を世話しているのだ。その目的とは何なのだろうか?
「ワッ!」
と、いきなり声を上げて、沢田は飛び起きた。
「何よ。びっくりするじゃない」
と、神崎弥江子は体を起こして、「せっかくいい気持ちで眠ってたのに」
「——明かり、点《つ》けていいかい?」
「いいわよ。どうせ、いつまでも寝ちゃいられないし」
と、弥江子は、ベッドの中で伸びをした。
カチッと音がして、ナイトテーブルのスタンドの明かりが点く。
その光に浮かび上がった沢田慎吾の顔は、汗で光っていた。
「どうしたのよ?」
と、弥江子は訊《き》いた。
「いや……。何でもない」
沢田は、強く頭を振った。
「夢でも見たの? あの事故のこと?」
沢田はチラッと弥江子を見て、黙ったまま、柔らかい枕《まくら》に頭を落とした。
「——もう、誰《だれ》も憶《おぼ》えてやしないよな」
と、沢田が呟《つぶや》くように言う。
「そうね。でも、用心しないと。あれから、車には乗ってないんでしょ?」
「正月に少し……。それだけさ」
「そう。——いつまでも、くよくよ考えてたって仕方ないわよ」
「君は強いな」
と、沢田は言った。「羨《うらや》ましいよ」
弥江子は、沢田の、怯《おび》えた横顔を眺めた。沢田は気の小さな男である。
自分から出頭する勇気はとてもない。しかし、その一方で、少女をはねて死なせてしまったことが、いつも頭から消えないのである。
神崎弥江子にしても、あの事故のこと、そして死んだ少女を放り出して逃げて来てしまったことを、気にしていないわけではない。
しかし何といっても、弥江子自身がはねたわけではない。そこは沢田と決定的に違うところだ。
それでも、もしこの件が明るみに出て、沢田と弥江子が一緒だったと知れたら、弥江子も同罪である。少なくとも、スターとしての生命を絶たれることは確かだ。
今さら、あの瞬間へ逆戻りして、少女を病院へ運ぶわけにはいかないのである。そうなれば、後はひたすら隠し通すしかない。
「車はどうした?」
と、弥江子は訊いた。
「車? ああ——。目立つ傷は自分で何とかした。しかし、警察が調べれば、分かっちまうだろうな」
「大丈夫よ。あなたを疑うきっかけはないんですもの。下手に修理工場へでも持って行けば、そこから足がつくわ」
「うん。分かってる」
沢田は、笑いを忘れてしまったかのようだった。以前の、あの軽薄だが愉快な二枚目のイメージはない。
正月明けから、また三神の下、撮影はスタートしていたが、沢田がいやにおとなしく黙っているので、スタッフの面々が首をかしげていることを、弥江子は知っていた。
「——もう起きて仕度しなきゃ」
と、弥江子はベッドに起き上がった。「遅刻は嫌いよ、巨匠は」
「気にしちゃいないさ、僕のことなんか」
と、沢田は頬《ほお》をひくつかせて笑った。「あの天才少女さえいりゃいいんだ、監督には」
「馬《ば》鹿《か》言ってないで、起きるのよ」
弥江子はガウンをはおって、「今日は長いセリフがあるの。入ってはいるけど、セットでやってみないと」
「僕は出番がない」
「送ってくれないの? それに、出番のない日に、ちゃんと来て撮影を見てると、巨匠は喜ぶわ」
沢田はため息をついた。
「分かったよ。——先にシャワーを浴びてくれ。その間に目を覚ます」
本当はとっくに覚めているのだ。いや、あの事故以来、本当にぐっすりと熟睡したことはないような気がする、と沢田は思った。
ドラマではないから、毎夜毎夜、悪夢にうなされるというわけではないが、それでも、町を歩いていて、自転車に乗った少女を見かけるとハッとする。
あの事故の記事は、ほとんど目立たない扱いだった。もちろん、一応捜査はしているのだろうが……。
大丈夫。捜査の手が自分へ伸びて来ることはない。沢田は自分へそう言い聞かせていた。