克子は、長峰老人に声をかけた。
「長峰さん。——長峰さん、聞こえますか」
長峰の呼吸は、どこかおかしかった。ヒューッ、と笛の鳴るような音と、かすれてひっかかるような音が交互に聞こえている。
もしかすると……。ずっと昔、克子の子供のころに、おじいちゃんが倒れたとき、こんな風だったような気がする。
何でもないことなのかもしれないが——。
克子は、お碗《わん》を手近なテーブルに置くと、翔の姿を捜した。
黒木竜弘の姿が見えた。周囲に集まる人数が違うので目立つのだ。幸い、そのそばに、翔も立っていた。
「——ね、翔君」
克子は翔の腕をつついた。
「どうしたの? 僕も今、捜しに行こうと——」
「来て」
翔の腕をとって、引っ張って行く。「さっき乾杯した長峰さんって方」
「ああ、お祖父《じい》さんがどうかした?」
「何だか、様子が変。気になるの」
——元の場所へ戻ると、長峰老人は、全く同じ格好で座っている。
「眠ってるだけじゃないの」
「でも、呼んでも起きないし、それに息づかいが……」
翔が、
「お祖父さん。——お祖父さん」
と、肩を軽く叩《たた》いてみるが、一向に反応がない。
「待って」
克子は、翔を押しのけるようにして、老人の顔に耳を寄せた。——何の音もしない。
「呼吸が止まってる」
と、克子が言った。「人を呼んで! 口の中が乾いてると、舌を巻き込んで、喉《のど》をふさいじゃうのよ」
「分かった」
翔があわてて駆けて行く。——もちろん、克子は看護婦でも何でもない。しかし、呼吸が止まっているのは、何とかしなくては……。
ともかく、口を開けて、息の通り道を。克子は、老人の口を開き、指を突っ込んで、舌を下げさせた。ヒューッという音がして、息を吸い込む。
ともかく、このままで頑張ろう。
パーティーはそのまま続いていて、誰《だれ》も克子たちのことに気付いていない。何だか奇妙な気持ちだった。
急に老人がピンと背筋を伸ばし、体を固くした。同時に口をギュッと閉じたので、克子は指をまともにかまれることになった。入れ歯とはいえ、かなりの力だ。痛さに声を上げそうになる。しかし、口を閉じてしまったら、また呼吸が止まるかもしれない。痛みに堪えて、克子は唇をかみしめていた。
人が駆けつけて来るまでが、途方もなく長く感じられた。
ともかく、この老人の様子がただごとでないことははっきりしている。周りの人に助けを求めようかとも思ったが、翔が人を呼んで来るだろうと思うと、つい待ってしまった。
やっと、翔が人をかき分けてやって来る。
「ごめん!」
と、翔が言って、「この人たちが——」
地味なスーツ姿の女性が、青ざめた顔で、
「私が代わります」
と、言った。
「指が——」
と、克子は顔をしかめて、「ともかく、急いで運ばないと。このままでも構いませんから」
と、早口に言う。
「じゃ……。急いで、お医者様を」
他にがっしりした体格の男が二人、ついて来ている。
長峰老人の体を両側からかかえ上げると、急いでパーティー会場を出た。——客の中にはおや、という顔で見た者もあったが、ほとんどの人は気付かなかった。
「ソファに寝かせて」
と、その女性が言った。
克子はずっと長峰老人の口に指を入れたまま、ついて来ていた。
「私が口を開けますから、指を抜いて」
「はい」
凄《すご》い力でかみしめているので、女性一人では、容易に開けられないほどだったが、それでも、やっと克子は指を抜くことができた。
「何かかませるものを!」
「お医者さんです」
と、翔が駆けて来る。
まだ若い背広姿の男が、ロビーを走って来た。——克子はホッと息をついた。
どうなるかは分からないが、これで自分のできることはなくなったのだ。
「克子さん……。指は?」
翔の顔がこわばっている。
克子は自分の右手の人差し指と中指を見て、びっくりした。血が滴り落ちている。
「体が硬直して、その力でかんだのよ。——凄いもんね。ハンカチで。でも、ちょっと水で洗って来る」
「ひどいや。ね、お医者に診せて」
「うん。でも、ともかく今は血を止めないと。カーペットを汚しちゃう」
克子はハンカチを出して、指をつつんだ。白いハンカチがたちまち血に染まる。
化粧室へ急ぐと、克子は思い切り水を出して、その中へ指を入れた。痛みで思わず声を上げそうになる。
あれで、長峰老人が助かればいいが……。
ペーパータオルを何枚つかっても、出血はなかなか止まらなかった。
化粧室を出ると、翔が心配そうに立っていた。
「ね、大丈夫?」
「あなた、ハンカチある? この指のつけねのとこ、きつく縛って。なかなか血が止まらないの」
「ね、救急車呼ぼうか」
翔が真剣に言うので、克子は笑ってしまったが、笑うと指がズキズキ痛む。
「笑わせないで。痛いわよ!」
何とも変な場面になってしまった……。
「——これ、食べて」
翔が控室へ入って来ると、料理をのせたお皿とフォークをテーブルに置いた。
「ありがとう」
克子は、肯いて見せて、「ね、あの方、どうした?」
「お祖父《じい》さん? うん、病院へ運んで行ったからね。たぶん大丈夫だろうって」
「良くなるといいわね」
と、克子は言った。
克子も、このホテルの医務室で手当をしてもらった。相当ひどくかまれているが、出血が止まれば、どうということはないだろう、と言われた。
「不便ね、指二本使えないと」
と、オーバーなほど包帯をグルグル巻きにされた右手の二本の指を眺める。
「痛む?」
「痛み止め、のんだから。でも、眠くなっちゃうのよね。少し頭がボーッとしてる」
翔は、克子と並んで座ると、
「ごめんね。とんでもないことになっちゃって……」
と、情けない顔で言った。
下手をすれば、今にも泣き出しそうである。
「誰だって、年齢《とし》をとるのよ。何も、悪気があってかんだわけじゃなし、お祖父さんだって」
と、克子は言った。
「いい人だなあ、克子さんって」
翔が、ホッとした様子で言った。
「外づらがいいだけ」
と、克子は笑って言った。「じゃ、せっかくだからいただくわ」
左手でフォークを使って、食べ始める。何とも食べにくいものだ。
「僕、食べさせてあげるよ」
「いいわよ、そんな」
「やらせて」
翔がフォークを取って、口に入れてくれる。何だか、子供になったみたいで、照れくさかった。
「——翔君」
ドアがパッと開いて、久保泉が入って来た。
そして翔が克子に食べさせているのを見ると、目を丸くして、
「あ、見ちゃった!」
ピョンととびはねた。
克子は真っ赤になって、
「だからやめてって」
と、座り直した。
「だって……」
と、翔は泉の方をにらむと、「ちゃんとノックぐらいしろよ」
「はいはい。いいじゃない。キスしてたわけじゃないんだし」
と、泉は両手を後ろに組んで、とぼけた。「お母様がお呼び」
「お袋が? 今ごろ来たのか」
「お祖父様のこと聞いて、途中で病院へ回ったんですって」
「分かった。行くよ。——何かほしいもの、ない?」
と、翔は克子に訊《き》いた。
「そうね。じゃ、コーヒーいただける?」
「私、持って来てあげる」
泉は、さっさと出て行った。翔が追いかけて行く。
また控室で一人になると、克子は、左手にフォークを持って、食べ始めた。考えてみれば、パーティーではほとんど食べていないのだ。
お腹《なか》は空《す》いていた。左手で、何とか工夫しながら、口一杯にローストビーフを頬《ほお》ばる。うまく切れなかったのである。
そのとたん、ドアが開いて、黒木竜弘が入って来た。
克子は、あわてて立ち上がったが、口の中はローストビーフで一杯。必死になって飲みこもうとして、四苦八苦していると、
「いや、ゆっくり食べて」
と、黒木は笑って言った。「さ、座って。あわてなくていい。——悪かったですな、どうも」
「い、いえ……」
と、ぬるくなったお茶をガブ飲みして、やっとローストビーフを飲み込んだ。
克子がフーッと息をつくと、黒木が首を振って、
「いや、あんたは面白い人だ」
と、言った。「翔から話は聞きました。おかげで長峰さんは命をとりとめたそうだ。本当にありがとう」
黒木が頭を下げる。
「やめて下さい。何もしたわけじゃありません、私」
と、克子はどぎまぎして言った。「でも、良かったですね、本当に。とても笑顔のやさしい方で」
「まあ、経営者時代には色々あった人でね」
と、黒木は落ちついて、座り直すと、「しかし今はもうすっかり、『悟りの境地』というところかな。——何か礼をさせて下さい。どんなことでも言ってくれれば」
「そんな——」
と言いかけて、克子は、「じゃあ……ちょっと血がついてしまったんで、このワンピースのクリーニング代を出して下さいますか」
克子のささやかな「要求」に、黒木竜弘は微笑《ほほえ》んだ。
「分かりました。後で請求して下さい。それに、指の治療費も」
克子も、それぐらいはしてもらってもいい、と思って、素直に受けることにした。
「でも、それ以上のことはやめて下さい。本当に、あの方が助かったというだけで、充分です」
克子とて、黒木の言葉に心が動かないわけではない。立派なドレスや、宝石や、それに——いや、品物でなくても、たとえばもっといい勤め口を世話してもらうこともできるだろう。
しかし、そこまでやりたくはなかった。それはいわば(古い言葉だが)、貧しい者の誇りである。
善意の行動でお金をもらうのは間違っている。——その一線を通しておかなければ、必死に働いて生きていることが無意味になる。
それは理屈でなく、克子が人生から学んだプライドというものを守る殻のようなものである。
「分かりました。無理にとは言いませんよ」
と、黒木も、克子の頑固さに気付いているようで、「しかし、人間、誰かの助けを必要とすることもある。そのときは遠慮なく言って下さい」
「ありがとうございます」
と、克子は礼を言った。
ドアが開いて、翔が顔を出し、
「僕の母です……。石巻克子さん」
意外に若い、ふっくらした顔立ちの女性が、いささか派手すぎるようなドレス姿で入って来た。翔は、どっちかというと母親似らしく見える。
「まあ、どうも。——翔ちゃんから聞きました。父がおかげで……」
「いえ、とんでもない」
同じことを何度も言わされるというのは、疲れる。
「でも、指をけがなさって。——痛むでしょ? 翔ちゃん。ちゃんとお送りするのよ」
「分かってる」
と、翔は少し苛《いら》々《いら》している。「ね、彼女とちょっとお茶でも飲むから、いいでしょ、もう?」
「私、一人で帰れるわよ」
「そんなわけにいかない。——ね、構わないんでしょ、時間」
「それはまあ……」
「じゃ、行こう。ろくに食べてないし」
「もう充分。太りたくないもの」
「僕もほとんど食べてない」
「当たり前よ。主催者の側なんですからね」
と、母親が言った。
「うん。——さ、それじゃ」
ともかく、翔は二人きりになりたくて仕方ないのだ。克子は何だかおかしかった。父親の方も、それと分かって、苦笑いしている。
翔に引っ張られるようにして、克子はホテル内のメンバー専用ラウンジに連れて行かれた。
「何て言っていいのかな……」
と、翔は、飲みものも水だけで(もっともおいしい水だ)、迷っている。
「このけがのことは、もう本当に気にしないでね」
「ええ……。克子さん」
「なあに?」
「父も母も、あなたを気に入ってます。本気で考えてくれませんか。——もし、いやでなければ」
「考えるって……」
「僕と結婚することです」
克子は唖《あ》然《ぜん》とした。
「ちょっと——待ってよ!」
「分かってます。今すぐなんて無理だ。でも、そのために、準備期間がいるでしょう」
「心の準備?」
「それもあるけど——。僕の親《しん》戚《せき》とかに紹介もしたいし」
「翔君——」
「いえ、克子さんを困らせるつもりはないんです」
と、翔は急いで言った。
もう困らせてるわよ、と克子は心の中で呟《つぶや》いた。
私はあなたの思ってるような女じゃないのよ……。でも、恋している人間に、何を言ってもむだだ。
「お願い。——焦らないで」
と、克子は翔の髪にそっと手を伸ばした。「あなた、とってもいい人ね。でも、ただこうして付き合うのと、結婚するっていうのは、全然別のことなの。分かる?」
「それは分かってます。でも——」
「黙って。お願い」
と、克子は言った。「それ以上言うと、もうあなたに会えなくなるわ」
翔は、頬《ほお》を染めて、
「すみません。つい、何だか気持ちがたかぶって」
「分かるわ。——そんな気持ち、もう今の私には持てない。あなたのこと、羨《うらや》ましいわ」
克子はそう言うと——翔の頭を少し引き寄せて、そっと唇を重ねた。
何をしてるんだろう、私は? 突き放さなくてはいけないときに、こんなことをしている……。
「——アパートへ送ってくれる?」
と、克子は言って立ち上がった。
「僕、運転して行きますよ」
「あら、腕前は大丈夫?」
「安全運転。ノロノロ走ります。その間、あなたと話してられるから」
満更冗談でもないらしい。
「じゃ、参りましょ」
克子は、翔の腕をとって、言った。
——不思議なパーティーの夜だった。