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やさしい季節31

时间: 2018-06-29    进入日语论坛
核心提示:クランク・アップ「分からない」 と、邦子は絞り出すような声で言った。「分からない何も」 机に手をつく。後は? そう、これ
(单词翻译:双击或拖选)
 クランク・アップ
 
「分からない……」
 と、邦子は絞り出すような声で言った。「分からない……何も……」
 机に手をつく。——後は? そう、これで終わり。これで……。
 ただ、自分自身の息づかいが聞こえる。——邦子は、ライトの熱さも、周囲のスタッフの視線も、すべて忘れていた。
 今はただ祈るような思いで、「その瞬間」を待った。
 永遠かと思える時間が過ぎて、
「カット!」
 と、三神の声がセットに響いた。「OK」
 ホッと……一斉に息が洩《も》れる。
 誰もが、信じられないような気分で、そのまま動けずにいる。
 三神がディレクターチェアから立ち上がった。そして、邦子の方へ歩いて行くと、
「ありがとう」
 と言って、手を差し出す。
 邦子は、無意識にその大きな手を握っていた。力強い手を。
「ご苦労様」
 と三神が笑顔になる。
 それが呪《じゆ》文《もん》か何かだったかのように、スタッフが動き始めた。
「お疲れさん!」
「おい、記念撮影!」
 と、声が飛ぶ。「椅《い》子《す》、並べろ!」
 助監督が椅子を一列に並べて、その中央に三神が座った。
「お隣に座ってもいい?」
 と、神崎弥江子がニッコリと笑ってやって来る。
「ああ、いいよ」
「じゃ——邦子ちゃん、監督のそっち側へ座って」
 と、弥江子が言ったが、
「いえ、沢田さんが……」
 と、邦子は首を振った。
「何言ってるの。いいから座っちゃいなさい」
 邦子もそれ以上、逆らわなかった。
 三神を挟んで、二人の「女優」が座る。スチルカメラマンが、
「早く座って! どこでもいいから」
 と怒鳴っている。
 主なスタッフ、キャストが揃っていた。
 ——今日で撮影はすべて終わったのである。
「はい、みんな少し笑って!」
 邦子は、不思議に涙も出なかった。そんなものなのかもしれない。
 ただ、こんな昂《こう》揚《よう》した気分になるのは、初めての経験だ。もちろん、これで映画が完成したわけではない。
 これからまだ編集や、音入れや、様々な仕上げの過程が待っている。しかし、ともかく、カメラの前での「演技」は終わったのである。
「——さあ、後は僕の仕事だ」
 と、三神が立ち上がって、伸びをしながら言った。
「まだアフレコがあるでしょ」
 と、弥江子が言った。
 セリフを同時録音していないシーンに、画面を見ながら口の動きに合わせてセリフを吹き込むことである。
「ああ。しかし、とりあえずはね。——編集は楽しいからな。おい、沢田君」
 と、二枚目を呼び止める。
「はあ……」
 沢田一人、何だか冴《さ》えない顔をしている。
「終わりに行くにつれて良くなったぞ。初めからあの調子だったら、あまり文句も言わずにすんだろうにな」
 三神も今日は上機嫌なので、沢田にも笑《え》顔《がお》を見せている。
「どうも、お世話になりました」
 と、沢田が頭を下げる。
「ああ、またアフレコのとき会おう」
「よろしく。——いい映画になりますね、きっと」
「そう願いたいね」
「どうもお疲れさまでした」
 沢田がそう言って出て行く。
「——どうしたんだ、あいつは?」
 と、三神が首をかしげる。「いやに元気がない。何か知ってるかい?」
「さあ」
 と、弥江子が肩をすくめて、「監督に叱《しか》られて、立ち直れないんじゃありません?」
「そんなに繊細とも思えんがね」
「まあ、ひどい」
 と、弥江子が笑った。
 しかし——邦子は、弥江子の目が笑っていないことに気付いた。こんなときなのに、邦子は人を見る目が、いつになく鋭くなっているのを感じていた。
 いや、こんな気分だからこそ、かもしれない。沢田の様子がおかしいのは、神崎弥江子と何か関係があるんだわ、と邦子は思った。
 スタジオの中から、スタッフが一人、二人と出て行った。
「じゃ、またね」
 と、弥江子が邦子の肩を軽く叩《たた》いて、マネージャーと出て行く。
 邦子は、自分のマネージャーの方へ歩いて行った。
「大丈夫?」
「うん。——ね、一人で帰るから」
 と、邦子は言った。
「でも……」
 と、マネージャーは心配そうである。
 もちろん、三神との間に何があったか、ちゃんと知っている。
「今夜は特別。ね、一人にして」
 と、邦子は言って、「また明日」
 と振り向く。
 三神が、もう取り壊しにかかっているセットを、腕組みをして、じっと眺めているのが、目に入った。
 邦子が近付いても、三神は一向に気付かないように見えたが、そうではなかった。
「いつもこの瞬間は虚《むな》しいよ」
 と、三神は邦子の方を見ずに言った。
「監督でも?」
「ああ。——夢が壊されて行くようでね。それに、これからまた長い道だ。そこへ踏み込むために、エネルギーをかき立てる必要がある」
「でも、いつも編集は楽しい、っておっしゃってるじゃありませんか」
「楽しいさ。天気がどうでも関係ないし」
「下手な役者も」
「そうだ」
 と、三神は笑った。「しかし——もう、誰のせいにもできない。迷いも、諦めも、許されない」
 真剣な口調になっている。
「監督でも、迷うこと、あるんですか」
「ああ」
 三神は、邦子の肩をしっかりと抱いた。「いつも、自信なんかないんだよ。だから、君のような若い才能が必要なんだ」
 邦子は、三神のそんな言葉を初めて聞いた。
「監督……」
「今日は帰りなさい」
 と、三神は言った。「また、いつか君を必要とする日がある」
 邦子が肯《うなず》く。
「——分かりました」
「あの子に……安土ゆかりに、よろしく言ってくれ」
「はい」
 邦子は微笑《ほほえ》んだ。
 すると、そこへ、
「直接言って下さい」
 と、声がした。
「ゆかり!」
 邦子がびっくりして、「どうしたの?」
 ゆかりだけではなかった。浩志と克子が、その後ろに立っている。
「今日クランク・アップだって聞いたから」
 と、ゆかりが歩いて来る。「おめでとう、邦子」
 二人は、軽く抱き合った。
「美しいな」
 と、三神が言った。「残念だ、カメラが回っていなくて」
「監督」
 と、ゆかりが言った。「邦子、すばらしいでしょ?」
「ああ。もちろんだ」
「そうでしょ。私の親友ですもの」
 邦子がゆかりの肩に手を回して、
「ね、何か食べに行こう!」
 と、はしゃいだ声を上げる。
「僕の車で良きゃ、乗せてくよ」
 と、浩志が言った。
「じゃ、二人で乗ってやるか」
 と、ゆかりが偉そうに言って、笑った。
 
「克子ちゃん、凄いじゃないの」
 と、邦子が言った。「黒木竜弘の息子にプロポーズされるなんて」
「大きな声出さないで」
 と、克子があわてて言った。「本当に、どうってことないの。そんなの馬《ば》鹿《か》げてるわ」
 ——浩志、克子と、ゆかり、邦子の四人は、六本木の、深夜まで開いているレストランへやって来ていた。
 場所柄もあって、ここは芸能人が多くやって来るので知られている。だから、ゆかりと邦子が一緒に来ていても、客は却ってそう珍しい目では見ないのである。
「だけど、黒木の息子って、本当に克子ちゃんに惚れてるんでしょ」
 と、ゆかりが言った。
「たぶん、今のところはね」
 と、ワインで少し頬《ほお》を赤くした克子が微笑《ほほえ》む。
「世間知らずの坊っちゃんなの」
「いい話じゃない! 断る手、ないわ」
 と、ゆかりはすっかり自分のことのように舞い上がっている。「克子ちゃんなら堅実だし、ぴったりじゃない?」
「もう、人のことだと思って」
 と、克子は苦笑いしている。
 浩志は、何とも言わずに、三人の娘たちのにぎやかな話を聞いていた。
 克子が、黒木翔という若者に恋されて、動揺していることは、よく分かっていた。父親を——その、母に対する仕打ちを、小さいころから身近に見て来た克子にとっては、男女の仲はまず「夢」である前に「現実」なのである。
 たぶん、その翔という若者は、克子の言う通り「世間知らずの坊っちゃん」なのだろうが、それだけに、一《いち》途《ず》に克子に恋をしているようだ。
 そんな恋があるということ。それは克子にとって、少なからずショックだった、というわけだ。
「でも、そんなことになったら、大変」
 と、克子は言った。「財産目当てと見られて、騒がれるでしょうね」
「騒ぎたい奴《やつ》にゃ、言わせときゃいいのよ」
 と、ゆかりが言った。「それに、黒木竜弘ほどの人なら、ストップさせられるんじゃないの、週刊誌とかに載るのを」
「ゆかりさんや邦子さんを、あの子に紹介しないようにしなくちゃね。横どりされそうだもん」
 克子の言葉に、ゆかりも邦子も声を上げて冷やかした。
 ——浩志は、克子と、斉木という男との間柄を知っている。だから克子も、その黒木翔との間が決して長くは続くまい、と分かっているのだろう。
 だからこそ、話の種にして笑っている。そんな克子を見ていると、浩志はふと胸が痛くなるのだった。
 料理が来て、四人が元気よく食べ始めると、
「——失礼」
 と、声をかけて来る男がいた。「安土ゆかりちゃんでしょ」
 町中でも、知らない人に声をかけられるのは慣れている。
「そうです」
 と、少しそっけなく答えると、
「もう憶《おぼ》えてないだろうけど、〈Tスポーツ〉の記者で、以前、芸能欄をやっててね、インタビューさせてもらったことがある」
 腹の出たその中年男は、人なつっこい感じの笑《え》顔《がお》で、そう言った。
 もちろん、多いときは一日に何件もインタビューを受けるゆかりである。いちいち、相手を憶えてはいない。
「そうですか」
 と、大して関心のない様子で言った。
「もう、今は芸能の方を離れてるんだけどね——。実は、今日、デスクがしゃべってた」
 と、その男はゆかりの方へ少しかがみ込むようにして、声を低くすると、「君のことで、何か明日、スクープが出るって」
「スクープ、ですか」
 と、ゆかりは笑って、「ちょうど今、スープが出たとこ」
「冗談じゃないんだ」
 と、その男は真剣そのものの口調で、「あんまり君にとって、いい話じゃないようだ。君、確かめた方がいいよ。僕は君のことが気に入ってるんだ。もし芸能にいたら、掲載させないようにもできるんだけどね」
 ゆかりは、初めて不安そうに浩志と顔を見合わせた。
「——私、何も書かれる憶え、ありませんけど」
「いや、事実無根ならいいんだけどね。——残念ながら、詳しいことは分からないんだが、どうやら『暴力団絡み』の記事らしいよ」
 その言葉に、一瞬、テーブルは静かになってしまった。
「確かですか?」
 と訊《き》いたのは、浩志だった。
「うん。——ああ、あんた、ゆかりちゃんの彼氏だね」
「何とか、詳しい記事の内容、分かりませんか」
「もう遅いからね」
 と、その男は言った。「むしろ、社長の西脇さん辺りなら、どこかにルートを持ってるかもしれない」
「訊いてみた方がいい」
 と、浩志はゆかりに言った。「僕が電話してみよう」
「それがいい。たとえ記事が出ても、内容が前もって分かってれば、あわてずにすむしね」
「ご親切にどうも」
「いやいや。大したことでもないスキャンダルで、すばらしいスターを潰《つぶ》したくないからね」
 と、その記者は言った。
 その〈Tスポーツ〉の男が席へ戻って行くと、浩志は、
「西脇さん、自宅にいるかな」
 と、ゆかりに訊いた。
「たぶん……。昨日まで香《ホン》港《コン》だったから」
「電話して来る」
 と、浩志が腰を浮かす。
「私が——」
「いや、僕の方がいい」
 浩志は、レストランの入り口のわきにある、小さな電話ボックスへ急いだ。
 西脇の自宅の番号も、手帳に控えてある。
 ——幸い、すぐに西脇が出た。
「やあ、ゆかりと一緒ですか」
 と、浩志の声を聞くと、西脇は言った。
「西脇さん、実は、ちょっと——」
 浩志の話で、西脇はしばし考え込んでいたが、
「また国枝の奴《やつ》が何かしたのかな」
「僕も、それが心配なんです」
「〈Tスポーツ〉ですね。そこなら、私の同級生だった男がいる。記事は止められなくても、内容は分かると思います。今、どこです?」
「六本木の〈P〉という店です」
「ああ、ゆかりのお気に入りの店ですね。まだしばらくそこにいますね。こっちから連絡を入れます」
「よろしく」
 浩志は電話を切った。
 手帳をポケットへしまいながら、浩志は不安だった。
〈暴力団絡み〉か。——芸能界は、なかなかそういう世界との縁を断ち切ることができない。
 しかし、そんなものだとみんな思っていても、もし何か、暴力団とのつながりが明らかにされると、芸能人は一斉に非難され、袋《ふくろ》叩《だた》きにあうのだ。
 よほどの大物スターならともかく、ゆかりは何といっても新人スターだ。まだ若く、アイドル系の常として、若い人にファンが多い。
 もし、暴力団とのつながりが表に出たとすると、それはゆかりの命とりにもなりかねないのである。
 いや、もちろん——そんな大したことじゃないのだろうが……。
 自分へそう言い聞かせても、浩志の不安は去らなかった。ある「恐ろしい予感」が、浩志の胸の中にふくらんでいた。
 席へ戻ると、
「どうだった?」
 と、ゆかりが心配そうに訊《き》く。
「ああ、西脇さんが、すぐ調べて、うまくやるってさ。君は心配しなくていい」
 と、浩志はわざと笑《え》顔《がお》を見せて、言った。
「そう……それならいいけど」
 ゆかりも、すっかり安心したわけではない。ぎこちない笑顔に、その気持ちが出ていた。
 邦子の映画のクランク・アップを祝っての食事が、その後、どこか意気上がらないものになったのは、仕方のないところだろう。
 しかし、デザートが出るころには、大分ゆかりもいつもの調子をとり戻し、ワゴンで運ばれて来たデザートの中から三種類も選んで、邦子を呆《あき》れさせた。
 いつもはそう甘いものを沢山食べない浩志も、付き合って、やたら甘いケーキをとり、胸焼けしそうになりながら、何とか食べてしまった。
 そして、食後のコーヒーを飲み始めたところへ、店のマネージャーが、
「石巻様でいらっしゃいますね」
 と、やって来た。「お電話が入っております」
「ありがとう」
 浩志は、すぐに立ち上がった。
 店のカウンターにかかった電話に出る。もちろん西脇からである。
「——何か分かりましたか」
 と訊く浩志に、
「ええ。明日、早版の記事を手に入れましたよ」
「それで?」
 少しの間、返事はなかった。
「石巻さんには言いにくいんですが……」
 と、西脇がためらうのを聞いて、浩志には分かった。
「父のことですね」
 と、浩志は言った。「そうですね」
「ええ……」
 西脇はため息をついた。「全く、卑劣なことをやる連中だ。しかし、記事を止めるには、もう遅すぎます」
「内容は?」
 と、浩志は言って、「いや、これから、ゆかりを連れてお宅へ伺います」
「そうして下さい。相談しましょう。何かいい手がないか」
 と、西脇は言った。「ただ、あなたには散々世話になっておきながら、少なからずご迷惑をかけることになってしまって」
「そんなことはいいんです。問題はゆかりですからね。ともかく、ゆかりが一番傷つかずにすむ方法を考えましょう。——もう食事が終わるところですから」
「お待ちしてます。ここの場所はゆかりが知っていますから」
 浩志が席に戻ると、誰《だれ》もが、黙って浩志を見つめている。
「ゆかりと、西脇さんの家へ行って相談する。邦子、送れなくて悪いけど」
「あら、そんなことないわ。私も行くもの。三人で話し合った方がベター。ね、ゆかり」
 と、邦子が言うと、
「四人よ」
 と、克子が加わって——四人は何となく笑っていた。
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