病院の〈夜間出入口〉の前に、〈迎車〉の文字を明るく光らせたタクシーが停《と》まっていた。
浩志は、チラッとそのタクシーへ目をやったが、大して気にも止めずに病院の中へと入って行った。
夜間受付の窓口に人の姿がない。珍しいことでもなかった。何といっても、夜の病院は忙しいのだ。
もちろん何度かやって来ているから、父の病室は分かっている。エレベーターで三階へ上ると、〈個室〉と書かれた矢印の方へと歩いて行った。
マスコミをしめ出すには、個室にしなくては他の患者の迷惑になる。そう高い方の個室ではないにしても、やはりその料金は普通のサラリーマンなどではとても払えないものである。
ここの費用は、ゆかりのプロダクション——いや、西脇個人のポケットマネーでまかなってもらっている。西脇にそんな義理はないのだし、申しわけないとは思っているが、浩志としても、それに甘えるしかなかったのだ。
父の病室の辺りに、看護婦と医師が立って、何やら話している。——どうしたのだろう?
「今晩は」
と、声をかけると、その中年の医師がホッとした様子で、
「石巻さん! いや、良かった」
と、歩み寄って来た。
「どうかしたんですか」
「実は、お父さんが、退院すると言い出しましてね。まだ完全に良くなったわけじゃないし、やめろと言ってるんですが」
と、困惑顔。
「父が、ですか」
浩志は面食らった。退院して、どこへ行くというのだろう。
「ええ。こんな時間にね、突然退院するなんて言い出されても……。話していただけませんか」
「分かりました」
浩志はため息をついた。——全く、どこまで手を焼かせるんだ!
しかし、浩志が入って行く前に、病室のドアが開いて——浩志は足を止めた。
「あら、浩志さん」
妻の法子だ。
「何してるんです」
と、浩志は言った。
「見舞いに来たの。いけないかしら? 妻が夫の見舞いに来ちゃ」
浩志に平手打ちされたことを、忘れているはずはない。その目には冷ややかな恨みの色があった。
「構いませんがね、別に……。あなたが父に退院をすすめたんですか?」
と、浩志は訊《き》いた。
「本人にお訊きになったら?」
法子は人を小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたように、言った。
浩志が病室へ入って行くと、父はベッドに腰をおろしていた。
コートを着て、マフラーを首に巻いている。
「お前か」
と、浩志を見て、「俺《おれ》は出て行く」
「そう」
浩志は肩をすくめた。「医者の話は聞いたんだね。まだ退院しない方が——」
「俺の体のことは、俺がよく知っとる」
と、父は遮った。
「じゃ、好きにしなよ。止めやしないさ」
と、浩志は椅《い》子《す》にかけた。「どこへ行くんだい? もう、国枝の所じゃ歓迎してくれないぜ」
父はフンと鼻を鳴らした。
「行く所がないと思ってるのか。——ちゃんと帰るんだ。自分の家へな」
浩志はチラッとドアの方へ目をやって、
「法子さんの所へ? 父さんを追い出したんだろ。そこへノコノコ帰ってくの」
「悪いことをした。帰って来てくれ、と頼みに来たんだ。——あいつも、親《しん》戚《せき》におどされてたのさ」
とても浩志にはそう思えなかったが、別に異議は唱えなかった。
「そりゃ良かったね」
と、浩志は言った。
「ああ。お前や克子とは違う。少しは恩ってものを知っとる奴《やつ》だ」
父は胸を張って、「何といっても、俺は亭主なんだ。俺なしじゃやってけないことに、あいつも気付いたのさ」
——なるほど。
浩志にも合点がいった。要するに、父と法子は「共通の恨む相手」ができて、再び和解した、というわけだ。浩志と克子のことである。
父は、国枝にひどい目に遭わされたのを、浩志たちのせいだと思っているし、法子は人前で浩志からぶたれたことを恨んでいる。
浩志の悪口を言っていれば、互いの間の過去を忘れられるのか。——土地も家も取り上げられたことを、父はもう忘れてしまったのか。
いや、今の父には、自分を立ててくれる相手なら、悪魔だって何十年来の旧友と同じことなのだ。怖いものだ。永年、お世辞とお追従ばかりを聞かされて来た人間は、その中毒になって、「禁断症状」を呈して来るのだろう。
自分に同情してくれて、自分のグチを、
「そうそう。全くその通り」
と聞いてくれる相手なら、誰《だれ》にでも飛びつくのだ。
そこには自分の過去への反省も、謙虚さのかけらもない。——もう何を言ってもむだだろう、と浩志は思った。
法子が、病室へ入って来た。
「タクシーが待ってるわ」
と、法子が言う。
「ああ……。行くか」
と、父が立ち上がって顔をしかめた。
まだ痛みは残っているはずだ。浩志は先に廊下へ出ると、待っていた医師へ、
「むだです。退院させて下さい」
と言った。
「そうですか」
医師はため息をついた。「しかし、この後何があっても、当方としては責任が負えませんね」
「もちろん、承知しています。でも、とても聞き入れる父じゃありませんから」
医師は肯《うなず》いて、
「分かりました。——どこへ行かれるにしても、まだ当分治療は必要です。病院が決まったら連絡していただきたい」
「一応、伝えておきます」
と、浩志は言った。「迷惑をおかけして、申しわけありません」
病室から、父がゆっくりと出て来た。法子が、荷物をつめたバッグをさげている。
父は、医師に一言の礼も言わず、エレベーターの方へと歩いて行く。
浩志は、自分があんな男の息子であることを、恥ずかしいと思った。
この入院費用も、全部他人におんぶしているのだ。そんなことも、父にとっては何の意味もないことなのだろう。
浩志は、父たちが行ってしまうと、医師と看護婦にていねいに礼を言った。
一階へ下りて、公衆電話で西脇の自宅へかける。まだ事務所にいると聞いて、かけ直した。
「——西脇さんですか。石巻です」
「やあ、どうも。今日、ゆかりのポスターどりがありましてね。凄いスタッフでした。存分に金をかけて。何しろ、黒木竜弘、じきじきのお声がかりですからね」
「うまく行きましたか」
「ゆかりも興奮していました。大変な力の入れ方で。——いや、失礼、こっちばかり話して。何か……」
「父が退院しました」
と浩志は言って、事情を説明した。
「そうですか。大丈夫なのかな」
「何を言ってもむだですから。——西脇さんには、すっかりお世話になって」
「いやいや。ゆかりの成功のためです。しかし……苦労しますな、石巻さん」
「全く。これですんでくれるといいんですけど」
と言いながら、浩志は、あの法子が父にまた何を吹き込むか、気になっていた。
国枝には、もうこりて近付かないだろうが、これきり田舎へ引っ込んでいるかどうか……。
浩志は不安だった。
道端に立って、神崎弥江子は苛《いら》々《いら》しながら待っていた。
「もう……。何してるのかしら」
文句を言ってみたところで、相手が早く来るわけではない。それはよく分かっているのだが——。
夜中で、人通りが少ないとはいっても、全く人が歩いていないわけではない。チラッとでも見られたら、神崎弥江子であることにすぐ気付かれてしまうだろう。
スターというのは不便なものなのである。
風は冷たかったが、今の弥江子にその冷たさを感じている余裕はなかった。——自分の未来が、この一夜にかかっているのである。
何としてもうまくやってのけなくては。失敗するわけにはいかないのだ。
「あれかしら」
車のライトが近付いて来る。夜の暗い道では、ライトの光だけではどんな車やら見分けがつかない。そのライトが弥江子を捉えて、スッとスピードを落とした。
「——遅れてごめん」
と、運転席の窓から、沢田慎吾が顔を出した。
「もう三十分も立ちっ放しよ、この寒い中で。——乗せて」
「後ろへ乗れよ。その方が目立たない」
「そうね」
弥江子が後部座席に乗り込むと、車は走り出した。
「ちゃんと素面《しらふ》で来た?」
「当たり前さ」
と、沢田は少しムッとしたように、「酒酔いなんかで捕まっちゃ、馬《ば》鹿《か》みたいだろ」
「それならいいわ」
弥江子は、沢田のピリピリした神経を鎮めるように、「何もかもすんだら、二人でホテルに行きましょ。予約してあるの」
と、微笑《ほほえ》んだ。
「楽しみだね」
と、沢田は言ったが、言葉だけだ。
表情が固くこわばっているのが分かる。弥江子は沢田の肩に手をかけて、
「大丈夫。うまく行くわよ。心配しないで」
と、子供をなだめるように言った。
「この車、高かったんだぜ」
と、沢田も無理におどけて見せる。「ローンも終わってない」
「だからこそよ。まさか、自分でこの車を壊すわけがない、と思うでしょ、みんな」
弥江子は道の前方へ目をやって、「あれを右よ」
「うん。——よく憶《おぼ》えてるな」
「道の憶えはいい方なの」
と、弥江子は言った。「前にロケで使った場所よ。——そう。これをずっと辿《たど》って行って」
道は上りになり、大きくカーブしながら、山を上って行く。
郊外へ出ると、ほとんどすれ違う車もなかった。
沢田も、山道なのでハンドルに神経を集中させ、却《かえ》って落ち着いて来ているようだ。
「——もう少しだと思うわ」
と、弥江子が言った。「道のわきが少しふくらんで、夜景がきれいなの。アベックがよく車を停めて愛し合う場所よ」
「僕らもやるか」
「そんな呑《のん》気《き》なこと言って! よく見てよ。もし他の車にでも見られたら——」
「分かってる。冗談さ」
と、沢田は笑った。
「——警察からはその後、何も?」
「うん。言って来ない。気を付けて見てるけど、別に尾行されてる気配もない」
やがて道は山の一番高い辺りへさしかかった。弥江子はじっと前方へ目をこらし、
「もうすぐ……。スピード落としてね。——そう、そこ! 左へ寄せて」
タイヤが砂利をかむバチバチという音がして、沢田は車を停《と》めた。
「——着いたか」
と、エンジンを切って、息をつく。
エンジン音が消えると、急に静寂に包まれる。
「外へ出てみましょ」
と、弥江子はドアを開けた。
山の高みだけに、風は一段と冷たい。しかし、確かに見下ろす町の灯はなかなかきれいでロマンチックな眺めだった。
「悪くないね」
と、沢田もコートをはおって降りて来る。
弥江子は、じっと腕組みしていたが、
「——のんびりしちゃいられないわ」
と言った。
「うん……。本当に大丈夫かな。却って怪しまれない?」
「怪しいと思ったって、証拠の車がめちゃくちゃに壊れてれば、立証は不可能。こっちは知らないって突っぱねればいいのよ」
「君とのことはばれる」
「それがいいカムフラージュになるわ。二人の関係が知れて、マスコミの前で恐縮してればいいわけでしょ。ひき逃げで捕まるより、ずっと楽だわ」
「うん……。でも、どう説明する?」
「サイドブレーキが甘かった。車を出てる間に動き出して——。だからあっちの、少し傾斜のある方へ向けておくのよ。車がガードレールを突き破って、落ちちゃった。停める間もなかった、って……」
「この下は?」
「崖《がけ》。——大丈夫。下に家や道はないわ。相当の高さで落ち込んでるから、ぐしゃぐしゃに潰《つぶ》れるわよ」
「燃えるかな」
「アクション映画じゃないからね。そう簡単には燃えないでしょうけど。でも、人をはねた傷なんか、見分けがつかなくなるわ」
と、弥江子は確信のある口調で言った。
沢田慎吾は、ためらいを振り切るように、大きく腕を振り回して、
「よし、やるか!」
と声を上げた。「まず車を……。どの辺まで持ってく?」
「勢いをつけないと、ガードレールで停まっちゃうかもしれないわ」
弥江子は歩いて行って、「——この辺でどう? そっちの方へ、ゆるい傾斜になってるでしょ」
沢田もその位置へ行って、しゃがんでみる。
「うん。——ハンドルを取られると、変な風にカーブするかもしれないけどな」
「短い距離よ。ともかくやってみましょ」
「ガードレールを突破できるかな」
と、沢田は不安げである。
「ガードレールっていっても、ここのはチャチなもんよ。それに、ずっとつながってなくて、間が空いてるでしょ。ロケのときは、あそこから斜面に少し降りてカメラマン、大変だったんだから」
「ローアングルの巨匠のときか」
「そうそう」
二人はちょっと笑った。——それが合図だったように、
「よし、やろう」
と、沢田は車へ乗り込んだ。
車を一旦バックさせ、弥江子の立っている辺りまで動かす。
「もう少し左へ。——そう。崖《がけ》の方へ向けて。タイヤは真っ直ぐにね」
「分かってる」
何度かハンドルを切り返し、細かく前進と後退をくり返して、ともかく、車はほぼ直進すれば崖から転落するだろうという位置に落ちついた。
「——これでいいか」
「そうね」
弥江子は、車のすぐわきに立って、前方を見つめた。「——いい方向じゃない?」
沢田がちょっと笑って、
「監督みたいだぜ、そうしてると」
「私が監督。あなたはスタントマンね、さしずめ」
「後はブレーキを外して……。外へ出て押すか」
「動き出せば、後は重さで加速するわ。ともかく、やってみましょう」
「うん」
沢田は、ドアを開けた。「開けとかないとね。一緒に落っこっちまっちゃかなわないからな」
緊張して、青ざめている。
「もう少しよ」
弥江子は沢田を励ますように言った。
そして、弥江子は少し後ろへ退がると、手にしていたバッグを開け、中から鉄のスパナを取り出した。そのために大きめのバッグを持って来たのだ。
鉄の塊の重味が、ずっしりと手に感じられる。
弥江子はさして緊張していなかった。まるで映画のワンシーンのような気がしていたのである。
スパナを握りしめた右手を、背中へ隠して、
「ちゃんと、中を見た?」
と、沢田に言った。
「うん?」
沢田はドアを開けて外へ出ると、中へ上半身を入れて、サイドブレーキを外そうとしていた。
「——ね、そこ。ブレーキペダルの上に、何か落ちてない?」
沢田の肩越しに覗《のぞ》き込むようにして、弥江子は言った。
「どこ?」
「その下。——そう、その辺」
「何もないぜ」
「そう。じゃ、いいの」
「ブレーキを外すぞ。どいてた方がいい」
「ええ」
弥江子は、スパナをゆっくりと振り上げた。
ガタッと音がして、ブレーキが外れる。
「よし」
沢田が体を起こした。その後頭部が目の前にある。弥江子は、力をこめて、スパナを振り下ろした。
沢田が少し振り向きかけていたので、スパナは頭のわきを一撃した。
「ワッ!」
と声を上げ、沢田は両手で頭を押さえた。
よろける沢田を、弥江子は車の中へと突き飛ばした。沢田の体が、車の運転席へ倒れ込む。
車が、ゆっくりと動き始めていた。——行け! 早く!
沢田が呻《うめ》いている。もがいて、起き上がろうとする。車は徐々に速度を増して、崖へと真っ直ぐに向かって行った。
そうよ……。そのまま突っ込んで! さあ! もっと——もっと速く!
車がガタンと揺れながら、ガードレールへ突っ込んで行く。沢田の足が、車の開け放したドアから飛び出している。
車がガードレールにぶつかった。ライトのガラスが砕けて散るのが見えた。車体が横向きに滑って——その重味を、レールは支え切れなかった。
キーッと鋭い金属音がして、同時に張ってあるワイヤーが切れた。沢田の車は、持ち主を乗せたまま、ふっと崖の向こうへ消えた。
弥江子は崖へと駆け寄った。
車がクルクルと横転しながら落ちて行くのが、暗がりの中で見える。そして車は闇《やみ》へ吸い込まれるように消えて——少し後に、激しい衝突音、火花の飛ぶのがチラッと見えた。
そして、後は何ごともなかったように、静かになった……。