邦子は、TVの出演を終えても、それで終わりというわけにはいかなかった。
映画の配給元や、プロダクションの方は、ここぞとばかり邦子と新作のPRに力を入れていて、今日だけで、雑誌のインタビューが三件入っていた。
車で移動している途中、車内の電話が鳴った。マネージャーが取って、
「はい、お待ち下さい。——邦子ちゃん。西脇さん」
「私に?——はい、原口です」
「やあ。ニュース、聞いてね。大変なことだね」
「ええ。助かるといいんですけど」
「ゆかりがね、大女優も一緒に落っこっちゃえば良かったのに、と言ってた」
「そんな……」
と、邦子は苦笑した。
「今入った情報だと、神崎弥江子はこっちへ向かってるらしい。夕方には記者会見を開くそうだよ。一応知らせてあげようと思ってね」
西脇の心づかいが、邦子には嬉《うれ》しかった。
「ありがとうございます。私、今日は一日インタビューとグラビア撮影で」
「頑張って。さっきのTVの生番組、見たよ。輝いてた。ゆかりが見たがると思ったんで、ビデオにとっておいたよ」
「よろしく言って下さい」
「ここが勝負どころだ。しっかり!」
「はい」
電話を切って、邦子は、息をついた。
ゆかりと違って、インタビューとかグラビアの撮影には不慣れな邦子である。西脇の励ましは嬉しかった。
「——でも、もし沢田さんが助からなかったら、いやね」
と、邦子は言った。「せっかくの映画なのに……」
「仕方ないわよ。そんなことだってあるわ」
と、マネージャーが言った。「撮影中の事故とかいうんだと、問題になるかもしれないけどね」
「うん……」
邦子は、理由はよく分からなかったが、漠《ばく》然《ぜん》とした不安に捉えられていた。
もちろん——もちろん、何でもないことなのだ。そうだとも。
邦子は、これからのインタビューのことを考えるようにした。
車の中で、疲れ切って、神崎弥江子は眠っていた。
疲労は、嘘《うそ》でも何でもない。通りかかった車に拾ってもらい、警察で事情を聞かれて……。
結局、一睡もしなかったのだ。しかし、何といっても、弥江子はどこでも有名である。警察の方でも、ずいぶん気をつかってくれていた。
「もうすぐ着きます」
と、運転している事務所の男性が言った。
弥江子はハッと目を覚ました。
「もう?」
と、窓外を見る。「——どの辺?」
「ホテルへ直行でいいですか? 途中、マンションに寄ります?」
弥江子は、少し考えて、
「真っ直ぐホテルへ行って」
と言った。「このまま会見だけやってしまうわ。それから、ゆっくり休む」
「分かりました」
車は都心の混雑の中を、ノロノロと進んでいた。弥江子にはありがたい。少しでも時間がほしかった。
今の、この疲れ切った様子で会見した方がリアリティーがあるだろう。
警察では、弥江子の話を全く疑っている様子はなかった。弥江子も「女優」である。その辺は抜かりなく、沢田の死を悲しんで見せたのだ。
いや、死体は見付かっていないが、ともかく車まで救助隊が行きつけない状態である。まず、沢田が生きているとは思えない。
もちろん会見の席では、
「生きていてほしい」
と発言しなくてはいけないし、涙も流して見せることになるだろう。
可哀《かわい》そうに、と思わないでもない。だが、もともと沢田が女の子をはねて死なせたのだ。沢田は命をもってそれを償った、というべきだろう。
弥江子はそれに手を貸した。——それだけのことだ。
無理な理屈と分かっていても、弥江子はそうして自分を納得させているのだった。
「ホテルの入り口はきっと大勢待ってると思いますよ」
と、事務所の男が言った。「どうします? 駐車場からでも入りますか」
「いいわよ。同じこと」
大分、頭もスッキリして来ていた。この分なら、うまくやれるだろう。
車がホテルの正面玄関へ近付くと、報道陣がひしめき合っているのが目に入った。
ふっと、つい笑《え》みがこぼれて、弥江子はあわてて顔を引き締めた。——悲劇のヒロインを演じるのだ。
役柄を忘れてはいけない。
車が停《と》まると、ドッと人が押し寄せて来る。
ドアを開けて外へ出ると、カメラのフラッシュが続けざまに光った。
「神崎さん! 今のお気持ちを!」
「沢田さんとはどれくらい——」
事務所の人間が何人かで弥江子を囲んで、
「会見の席でお願いします!」
と怒鳴りつつ、人垣を分けて行く。
弥江子は、乱れた髪をそのままに、ホテルの中へと入って行った。
「——少し休みますか」
と、マネージャーが言った。
「いいえ」
と、弥江子は首を振った。「やってしまいましょ。いくら待っても、同じこと」
「分かりました」
と、マネージャーは肯《うなず》いて、「全体に好意的ですから。そうひどい質問は出ないと思いますよ」
「そう願いたいわね」
マネージャーが出て行くと、弥江子は、小さな控室で、一人、タバコに火を点《つ》け、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
記者会見が待っている。
TVは、どんな小さな表情も映し出してしまう。用心しなくては。
スターは、カメラの列を前にすると、つい微笑《ほほえ》んでしまうくせがある。今度ばかりはそれは禁物である。
あの「事故」を警察が疑わないようにしなくては。——もし、女の子をはねた件で、沢田が疑われていたとしたら、その時点での車の転落というのは、タイミングが良すぎるかもしれない。
しかし、そのことに関しても、弥江子は抜け道を考えていた。
沢田が「自ら死を選んだ」という可能性である。
その可能性を、話の中に残しておくようにしよう。——弥江子はあれこれ考え抜いていた。
「——じゃ、始めていいですか?」
と、マネージャーが顔を出す。
「ええ」
弥江子は、タバコを灰皿に押し潰《つぶ》して、立ち上がった。
——会見の席は、記者やカメラマンで溢《あふ》れんばかりだった。
皮肉なものだ。ここ何年も、これほど自分の記者会見に人が集まったことはなかっただろう。
席につくと、たちまちフラッシュがたて続けに光った。
弥江子は、とりあえず、事故のいきさつについて、自分から話をした。落ちついて見えるが、内心はかなり動揺しているという印象を与えることに成功したと言っていいだろう。
ときどき、つっかえたり、言い直したりするのも、わざとらしくなく、うまくできた。
「——沢田さんが何か悩んでいるらしい様子だったので、じっくり話をしようと思って……」
と、弥江子は言った。「その場で車を降りたんです……。あんなことになるなんて」
「それは、沢田さんが自分で車を崖《がけ》から落っことしたということですか?」
と、質問が来た。
「そんなはずはないと思いますけど……」
と、弥江子は曖《あい》昧《まい》に答えた。
事故の話が一応終わると、様々な質問が飛び交った。
「待って下さい! お一人ずつ!」
と、事務所の人間が汗をかいている。
しかし、質問の大半は、沢田との関係についてだった。
もちろん、二人の仲はある程度噂《うわさ》になっていたし、今さら、という感じでもあったから、弥江子も事実をしゃべることができた。
「——沢田さんの捜索はまだ続いてるわけですか」
「今、地元の警察が、必死で車まで行き着こうとしているところです」
と、事務所の人間が言った。
「助かってくれたら……」
と、弥江子は言って、ハラリと涙をこぼした。
その涙は、決して演技ではない。沢田の死を悲しんでいるわけではないのだが、こういう席では、ごく自然に感情が昂《たかぶ》って来て、涙が出て来る。
「——何か他にご質問がありましたら」
と、事務所の人間が言った。「本人も大変疲れておりますので、休ませたいと思いますが」
記者たちも、そう言われると何となくそれ以上訊《き》きにくい様子だった。何といっても、神崎弥江子は大スターである。ポッと出の新人とはわけが違うのだ。
「じゃ、よろしいですね」
と、事務所の人間が言った。
ザワザワとカメラマンが退出しかける。
弥江子は、椅《い》子《す》にかけたまま、気が抜けたようで、ホッと息をついた。
やってのけた。——うまくやれたのだ。
もちろん、これで何もかも終わりというわけではない。警察の事情聴取もあるだろう。しかし、ともかく今日のところは——。
そのときだった。事務所の若い社員が、弥江子のマネージャーの所へ駆けて来た。そして何か話をする。
マネージャーがあわててマイクをつかんだ。
「ちょっと——ちょっとお待ち下さい!」
と、上ずった声で、「今、警察の方から連絡が入りました」
帰りかけた記者たちが足を止める。弥江子は顔を向けた。
「——今しがた、沢田慎吾さんが発見されたそうです!」
と、マネージャーが興奮気味に言った。「沢田さんは生きています!」
記者たちがワッと前の方へ詰めかける。
「車から投げ出されて、崖《がけ》の途中に引っかかっていたそうです。かなりひどいけがで、骨折もしているようですが、命はとりとめるということで、今、病院へ運ばれる途中とのことです!」
——弥江子は、周囲の世界が、闇《やみ》の中へ沈んで行くような気がしていた。
記者会見の席からどうやって出て来たものか、弥江子は全く憶《おぼ》えていなかった。
気が付くと、車の中で……マネージャーが運転する車は、もう弥江子のマンションの近くまで来ていた。
「——気分、どうです?」
と、マネージャーが、車が赤信号で停《と》まっている間に振り向いた。
「え?」
弥江子は、目が覚めているのかどうか、自分でもよく分からない状態だった。これは夢の中なのだろうか?
「大分顔色、戻ってますね。ゆっくり寝て下さい。差し当たり、TVの仕事はキャンセルしときましたから」
「そう……」
弥江子は、ぼんやりと窓の外を眺めた。
歩道を行く人々。——あのほとんどは、神崎弥江子の顔と名前ぐらいは知っているはずだ。でも……もう、それもあと何日かのことで……。
「女優、神崎弥江子」は、人々の頭から消えてしまう。後には「殺人未遂を犯した、馬《ば》鹿《か》な女」の哀れな姿が、ほんのしばらく、残るだけだ。
——あのとき、車のドアから沢田の足が出たままだった。車が崖から落ちたとき、沢田の体は外へ投げ出されたのだろう。
——NG。やり直しのきかないNGだ。
弥江子は笑い出していた。
車をスタートさせながら、マネージャーがびっくりして、
「大丈夫ですか?」
と、チラッと振り向く。
「大丈夫。——事故起こすわよ、ちゃんと前を見て」
「はい」
そう。事故なんか起こしちゃだめよ。
ほんの一瞬の気の緩みが、とんでもないことをひき起こすんだから。
もし——もし、沢田があの女の子をはねていなかったら……。私だって、何もしないですんだのに。
どうして……どうして、沢田を殺そうなどと考えたのだろう? 何て愚かな!
もう遅い。——もう遅い。
弥江子は、もはや取り返しのつかないところへ、自分がやって来ていることを知った。
「——マンションです」
車は停《と》まっていた。
「ありがとう」
弥江子は車を降りた。
「何か召し上がりますか。届けさせますが」
「お腹空いてないわ。——ゆっくり寝るから。こっちから電話する。電話して来ないで」
「分かりました。——じゃ、何かあったら、いつでも」
まだ、外は明るい。やっと黄昏《たそが》れてくるところである。
部屋へ戻って、弥江子は、ゆっくりと居間を片付けた。
お風《ふ》呂《ろ》。——そう、お風呂に入ろう。
ゆっくり体を休めて、眠ろう。
目が覚めたら、何もかもうまく行っているかもしれない。沢田も元気で、弥江子のことを笑って許してくれるかも……。
そして、「風の葬列」は大ヒットする。
「さすがベテランの風格!」
と、評論家は絶賛してくれるだろう。
主演女優賞だって、いくつも手にできるかもしれない。——そう。それだけの値打ちは充分にあるでしょ?
熱い風呂にのんびりと浸《つ》かって、それからバスローブをはおって居間へ戻ると、外はやっと夜になっていた。
ベランダへ出るガラス戸を開ける。もちろん外の風は冷たいが、少しのぼせていた頬《ほお》には快いくらいだった。
この五階のベランダから、以前はずいぶん遠くまで眺め渡せたものだが、今は大きなビルが目の前に立ちはだかって、視界を遮っている。
居間へ戻ると、カーテンを引き、弥江子は自分でコーヒーをいれた。
ソファに身を沈めて、つい無意識の内にリモコンでTVを点《つ》けている。アニメ番組の時間らしい。
チャンネルを変えてみたが、ニュースはやっていない。
そう。大したニュースじゃないのだ。沢田が助かったことなんて。沢田が生きていようといまいと、誰も気にしやしないんだわ。私とは違う。そう、私は大スターで、みんなに愛されてる。
誰も私のことなんか、捕まえたりしない。するもんですか、誰だって。
電話が鳴り出した。弥江子は、手をのばして、コードレスの受話器を取った。
「はい。——もしもし?」
「あ、すみません」
と、マネージャーの声。「寝てましたか」
「いいえ、いいのよ。何?」
弥江子に怒鳴られるかとびくびくしていたらしい。少しホッとした声で、
「実は——警察の方から連絡が」
「警察?」
「そうなんです。出頭してほしい、と……。言ったんですけどね。ともかく疲れてらっしゃるので、明日にしてくれと」
「そう。——それで?」
「何だか……その……どうしても至急話をうかがいたいんだって。あんまり逆らうわけにも……」
マネージャーは口ごもっている。
「それはそうよ。じゃ、行きましょう」
と、弥江子は淡々とした口調で言った。
「そうですか、すみません」
マネージャーのホッとした顔が、電話を通してでも見えるようだ。
「他に何か言ってた?」
と、弥江子は訊いた。
「え? いや——何だか、沢田さんが——。大方、大けがしたせいで混乱してるんですね。何でも人をはねたとか……。まあ、詳しいことは聞いてませんが」
「そう。じゃ、迎えに来てくれる?」
「もちろんです。すぐ出ます。そんなに時間はかからないと思いますよ。社長も一緒に行くそうですから。安心して下さい」
「じゃ、仕度して待ってるわ」
「ええ。よろしく。大したことじゃないと思いますから」
マネージャーの言葉が、何の根拠もないことは、すぐに分かった。
弥江子は電話を切って、そのまま受話器を目の前のテーブルに置いた。
TVが、まだついている。——リモコンで消すと、後には表面のガラスに室内の風景が歪《ゆが》んで映っていた。
何でもない? 何もかもうまく行く?
馬鹿な!
そんなはずはない。沢田は、少女をはねて死なせたことを告白したのだ。当然、自分を殴って殺そうとしたのが誰なのか、しゃべっている。
沢田には、弥江子をかばわなくてはならない理由などないのだから。
当然、警察へ行けば、弥江子は厳しく問い詰められるだろう。マネージャーも社長も、そこでは何の力もない。スターであることなど、何の意味も持たないのだ。
殺人未遂——。はっきりと、弥江子には殺意があった。そして実行した。
留置場に入れられ、たとえ保釈になっても、その後、裁判で、無罪になるのは不可能だろう。
刑務所へ入る。あの灰色の、厚い、高い塀の中へ。ロケではない。本当の囚人として、入らなくてはならない……。
弥江子は、じっと消えたTVの画面を見つめていた。
そこに、手錠をかけられ、惨めにうなだれた自分の姿が映し出されているのが、見えるような気がする。
「もう……何もかも……」
と、弥江子は呟《つぶや》いた。
そして、ちょっと声を上げて笑うと、コードレスの電話を取って、ボタンを押した。
「——もしもし。——あ、神崎弥江子ですけど。——ええ、どうも。——あの、今、邦子ちゃん、どこに?——ええ、今、話したいんです。——そうですか。分かりました。かけてみます。——いえ、いいんです。ありがとう」
弥江子は再びボタンを押し始めた。