邦子は、ホテルの一室にいた。
雑誌のグラビアの撮影と、インタビュー。この一部屋を時間で借りてあるのだ。
車のせいで早く着いてしまい、まだ向こうのスタッフは誰《だれ》も来ていなかった。慣れないTVやインタビューで、くたびれていたので、この休息はありがたい。
マネージャーが、飲み物を頼んでくれて、ちょうどそのルームサービスがドアのチャイムを鳴らしたとき、室内の電話が鳴った。
「出るわ」
と、邦子が言ってソファから手をのばした。
「お願い。私、お金払わなきゃいけないから。たぶん、雑誌の人よ」
「うん。——もしもし」
と、邦子は電話に出た。
「名女優さん、元気?」
と、聞いたことのある声がした。
「え?——神崎さんですか」
邦子は面食らった。
「そう。良かったわ。あなたがいてくれて」
「あの——大変でしたね。沢田さん、でも助かったって。良かったですね」
邦子の言葉に、少しの間、相手は沈黙した。
「——もしもし? 神崎さん——」
「邦子ちゃん」
と、弥江子が言った。「あなたにお詫《わ》びしたくて、かけたの」
「お詫び?」
「以前のドラマのこともあるけど。それだけじゃないの。せっかくの、あなたのすばらしいデビューなのにね」
「何のことですか」
「沢田はね、女の子を車ではねて、死なせたの」
弥江子の言葉に、邦子は絶句した。「——私も一緒だった。でも、もう女の子は死んでたし、田舎道で誰も見ていないし……。二人で逃げてしまったのよ」
「神崎さん……」
「ところが、警察が沢田の所までやって来たの。あの人は気が小さい。——訊《じん》問《もん》をうまく言い逃れできるような人じゃない。分かるでしょ?」
「ええ」
「もし、ばれたら私の女優としてのキャリアも終わり。それで私、沢田を車ごと崖《がけ》から落としたの」
「落としたって……」
「殺すつもりでね。てっきり死んだと思った。ところが……。計算通りに行かないものね」
と、弥江子はちょっと笑った。「とんだNGを出したわけ」
邦子は、何とも言葉が出て来なかった。
「邦子ちゃん……。沢田には、大して悪いことしたとは思ってない。でもね、あなたには……」
と、言葉が途切れる。
「私のことより……神崎さん。自首した方が——」
と、邦子は言った。「自首して下さい」
飲み物の盆を運んで来た邦子のマネージャーが、
「どうかしたの?」
と、ただごとでない雰囲気に気付いたのか、邦子の方へ寄って来た。
邦子は、激しく首を振って、手ぶりでマネージャーを遠ざけた。
「神崎さん。やり直せますよ。沢田さん、死んだわけじゃないんだし。そうでしょう?」
少し間があって、神崎弥江子の声が聞こえて来た。
「あなたにも想像がつくでしょ? 私のような女が、殺人未遂なんて。——どんな風にTVや週刊誌で扱われるか。そんな惨めな思いはいや」
淡々とした口調である。
「でも——」
「聞いて」
と、弥江子は言った。「『風の葬列』の主役二人——一応、私と沢田が主演になってるわけですものね。その二人が、一人は女の子を車ではねて死なせ、放り出して逃げた。もう一人は、自分の身を守るために、彼を殺そうとした。——分かるでしょ」
邦子の顔が、固くなる。
「ええ」
「いくら巨匠の作品でも、こんな事件が二つも重なったら……。公開は当分見合わせることになるでしょう。——こんなことになるとは思わなかったの。本当よ。あなたの大切なデビューを、こんなことで……」
泣いているのか、弥江子は絶句した。
邦子の体から力が抜けて行く。確かに、弥江子の言う通り、いくら三神が、「作品とは関係ない」と主張したところで、世間のほとぼりが冷めるまで、映画は公開できないだろう。
出演者が麻薬などで捕まっただけでも、公開が無期延期という場合さえある。三神の作品となれば、そんなことはあるまいが。しかし——せっかく力を入れてプロモーションしようとしている矢先の出来事は、この傑作を、色メガネで見ることにしてしまいかねない。
何もかも——すべてを賭《か》け、自分を燃焼させたあの映画が……。こんな「馬《ば》鹿《か》げたこと」のために……。
「でも、あなたはすばらしい女優になるわ」
と、弥江子が気を取り直したように言った。
「それは私が保証する。——私が保証したって仕方ないわね。犯罪者なのに」
弥江子がちょっと笑った。
邦子はハッとした。——なぜ、わざわざ弥江子がこんな所にまで電話して来たのか。
「神崎さん。神崎さん、聞いてますか?」
と声を大きくして、邦子は言った。
「聞いてるわ」
「いけませんよ。死んじゃいけません」
と、邦子は訴えるように言った。
弥江子は、邦子の言葉に、一瞬詰まったようだった。
「——神崎さん」
と、邦子は固く受話器を握りしめて言った。「聞いて下さい。あの映画の製作発表の記者会見、憶《おぼ》えてますか?」
「記者会見? ええ」
「そのとき、私、言いました。役者にとっては、どんな経験も、演技の勉強だって。口幅ったいこと言って、ごめんなさい。でも本当に、そう信じてるんです、私。神崎さんの追い詰められた気持ち、よく分かります。でも、沢田さん、死ななかったんですよ。分かります? もし、死んでたら、違ってくるかもしれないけど、死ななかったんです! やり直しの機会が、与えられたっていうことですよ。そうでしょう? 神崎さん。死ぬのは逃げることですよ。せっかく、もう一つの道が残されたのに。私のことなんか——私のデビューなんか、どうでもいいんです。私、まだ若いんですもの。たとえあの映画がお蔵入りになって、日の目を見なかったとしても、またチャンスは来ます。そんなことより、生きて下さい! 神崎さん、お願いですから、生きていて!」
——長い間があった。
ちょうどドアが開いて、
「どうも、遅くなって——」
と、雑誌の編集の人間とカメラマンが入って来る。
マネージャーが、
「ちょっと今——。少し廊下で待ってて下さい」
と、面食らっている相手を押し出してしまう。
「神崎さん。——聞いてます?」
「ええ」
と、穏やかな声がした。「あなたみたいな子と一緒に仕事ができて、良かった。本当に」
「思い直して下さい。みんな、分かってくれますよ」
と、邦子は言った。「また、共演させて下さい。ね?」
「ありがとう」
と、弥江子は言った。「でもね、最後は私一人の主演で決めたいの。見っともなくないように、きれいにね。刑務所でやつれた神崎弥江子なんて、見てほしくないの」
「でも——」
「もう……いいの。あなたの気持ち、嬉《うれ》しいわ。心残りといえば、あなたの成功をこの目で見られないことかしら」
と、弥江子がちょっと笑った。「じゃあ、頑張って」
「神崎さん! 待って下さい!——もしもし!」
電話は、沈黙だけを伝えて来た。
邦子は、ゆっくりと受話器を戻した。その頬《ほお》を、涙が一筋、落ちて行く。
ドアの前まで来て、その足音はためらった。
浩志は、カチャリとロックを外し、ドアを開けて、言った。
「どうして、ノックでもしないんだ」
「——ごめん」
と、邦子は言った。「何だか——来ちゃいけないような気がして」
「入れよ」
と、浩志は促した。
「うん」
邦子は、浩志の部屋へ上がった。「TV、見てた?」
「さっきまでね。でも、どこも同じニュースのくり返しだ」
と、浩志も上がって来て、「何か飲むか?」
「コーヒーでいい」
浩志は、
「いれたところだ。匂《にお》ってるだろ」
「うん」
邦子は畳にペタッと座って、足を伸ばした。
「大騒ぎだな」
「仕方ないわ。ショッキングですもの」
「しかし……。あのせいで、何か様子が変だったのか、ハワイでも」
と、浩志は言った。「すぐ、警察へ届けときゃ良かったのに」
邦子は、黙っていた。
浩志がコーヒーを熱くして、カップに入れ、持って来ると、
「ありがと」
と、邦子は受け皿を持って、そっと一口飲んだ。
「邦子も追い回されないかい?」
「あんまり。神崎さんと親しかった人は、沢山いるから」
「そうだな」
「今夜ね——」
「うん?」
「さっき、連絡があったの。映画、とりあえずは公開無期延期になった」
浩志は、何とも言いようがなかった。邦子の悔《くや》しさは、浩志などには想像もつかない。
「私……恨んでる」
と、邦子は言った。「死んだ人のことだから、許さなきゃと思うし、最後に電話で話したときもそう言った。でも——やっぱり恨んでるの」
——神崎弥江子は、マネージャーが迎えに来る前に、五階のベランダから飛び下りた。即死だった。
沢田は、少女をはねて死なせたと自供。神崎弥江子が自分を殺そうとした、と青くなって報道陣に語った……。
「どうして、あんなことを……。何も、私の映画のときじゃなくたっていいじゃないの!」
ほとばしるように、悲痛な声が飛び出した。
「分かるよ」
と、浩志は肯《うなず》いた。「悔しいな。——僕も悔しい」
邦子は、熱いコーヒーを一気に飲み干して、カップを離れた所へ置いた。
「——すっかり暇になっちゃった」
と、笑う。「何しろこの何カ月か、映画のキャンペーンであちこち回ることになってたでしょ。スケジュール、ポカッと空いちゃったの」
「どこかへ行ったらどうだい? 旅にでも出てさ」
「社長さんもそう言ってくれるけど……。でも、帰ったら、もう忘れられてるような気がして」
「そんなことないさ」
「私ったら。——神崎弥江子みたいなこと言ってる」
邦子は両膝《ひざ》を立て、かかえて、背中を丸めると、「飲んで、酔いたい」
「飲みに行くか?」
「いい。——どうせ酔えないって、分かってるし」
邦子は、TVをリモコンで点《つ》けた。——ニュースショーの時間。当然、自殺した大スターの話である。
「消せよ。同じ話だ」
「うん。——でも、聞きたいの。これが夢じゃないんだって……。悪い夢じゃないんだって自分へ納得させるのに、何度も見なきゃだめなの」
邦子は、じっとTVの画面を見つめたまま、「——浩志」
「うん?」
「今夜、ここに泊まってもいい?」
浩志は、すぐには返事ができなかった。
「布団、冷たいぜ」
「いい。浩志の体であったまるもん」
「邦子——」
「お願い。今夜は特別でしょ。ゆかりだって、許してくれるわ」
邦子がTVから目を離して、浩志を見つめる。その目には涙がたまっていた。
浩志は、邦子を抱き寄せた。邦子は、体の重みをすべてその腕の中へ任せた。
「このままでいい……。明るいままで。浩志に抱かれるのなら、この目で、自分を見ていたいの!」
燃えるように囁いて、邦子は浩志にすがりつく。
「——お兄さん」
ドアの外から、声がした。「お兄さん?」
邦子は、身を引いて、涙を拭《ぬぐ》った。
浩志と邦子。——二人の目が、じっと一つの糸で結ばれる。
「お兄さん、いる?」
「ああ」
浩志は立ち上がると、玄関のドアを開けに行った。克子が入って来ると、
「邦子さん。来てたの」
と、呟《つぶや》くように言って、兄の顔を見る。
浩志が目をそらすのを見て、克子は察した様子で、
「ごめんなさい。——来ちゃいけなかったわね」
と、言った。
「そんなことないわ」
邦子は、もうみごとにいつもの顔に戻っていた。
「今、二人でTV見ながら、グチを言い合ってたとこ。グチって、一人で言ってちゃ面白くも何ともないでしょ。だからここに来て、二人で盛り上がってたの。克子ちゃんもどう?」
浩志は、邦子の「名演技」に胸が痛んだ。克子にも、分かっていただろう。しかし、今は邦子に騙《だま》されてやることだ。
「いいわね」
と、克子が上がって来て、「本当に男らしくないわよね、沢田って」
ちょうどTVには、沢田慎吾の記者会見が映っていた。
「こんな男のせいで死ぬなんてね。神崎さんも可哀《かわい》そう」
と、邦子は言って、息をつく。「——さ、帰って寝ようかな」
「いいじゃない、まだ」
「このところ寝不足なの。明日は誰《だれ》が来ても起きないで、ぐっすり眠ろう」
邦子は立ち上がって、「じゃ、浩志。——またね」
「うん」
浩志は肯いて、「車で送ろうか?」
「タクシー拾うから、大丈夫。その後のことは、また知らせる」
「ああ。早く公開できるといいな」
「そうね、ギャラはもうもらっちゃってるんだけど」
邦子は、ちょっと笑って、「じゃ、克子ちゃん、おやすみ」
と手を上げて、出て行く。
気をつかった、静かな足音が消えると、浩志は玄関の鍵《かぎ》をかけた。
「——ごめんね」
と、克子が言った。「知ってたら、来なかったのに」
「いや……」
浩志は、畳にゴロリと横になった。「これでいいんだ」
「でも——邦子さん、お兄さんに……」
「そうなりかけてた。でも、良かったんだ、邪魔が入って」
「そうかな」
克子は、TVをリモコンで消した。「——抱いてあげるべきだったんじゃない?」
浩志はしばらく間を置いて、
「分からないよ」
と、言った。「俺《おれ》には分からない」
そして浩志は、ふと起き上がると、
「克子。何かあったのか? どうして来たんだ、ここへ」
と、訊《き》いた。
「うん……」
克子は、どう話したものか、迷っている様子だったが、「今日ね、会社へ国枝が来たの」
「国枝?」
「父親の方よ。一応紳士的だったから、別に会社の人も変には思わなかったみたい」
「どうして国枝がお前の所へ——」
「お兄さんの所には、顔を出しにくかったみたいよ。『あなたのお兄さんは、怖い方ですからな』って笑ってた」
「笑いごとかね」
と、浩志は苦々しげに言った。「で、何の話だったんだ?」
「父さんのこと」
「親《おや》父《じ》の?」
浩志は眉《まゆ》をひそめた。
「何でも——電話があったらしいの。あんなひどい目に遭ってるくせに、犬みたいに尻《しつ》尾《ぽ》を振って見せるなんてね」
「そういう人間さ」
と、浩志は言った。
「そうね。——ともかく、お兄さんと私のことにひどく腹を立てて、仕返ししてやりたい、って話したらしいわ。一旦戻りはしたけど、結局、奥さんの所にはいられなかったんでしょ」
「また出て来てるのか、こっちへ」
「そこははっきりしないの。でも、私たちに何かしようっていうのなら、当然、上京してるでしょ」
「物騒だな。しかし、国枝がなぜそんな話を?」
「息子のやったことで、あの父親は大分迷惑してるみたい。仲間内でからかわれたりして。——アイドルタレント一人に、ああもしつこくいやがらせしたりして、その世界で馬《ば》鹿《か》にされてるらしいのね」
「なるほど」
「だから、もしお父さんが私たちに何かしたとしても、自分はそれと関係ない、と言いたかったみたいよ。それも勝手な話よね」
「注意はしたぞ、ってことか」
「そんな所でしょうね。ともかく用心した方がいいって。そう伝えてくれってことだった……」
浩志は、ため息をついた。——父が「仕返し」するなら、むしろ国枝の方だろう。しかし、実際には自分に大した力もないことが分かっているのだ。
「——ねえ、何をする気なのかしら」
と、克子は言った。
「分からないな……。ともかく、用心しろよ。もう親父はまともじゃない」
「うん。——そのことだけ、知らせようと思って来たの。でも、邦子さんに悪かった」
「もう、その話はよせよ」
浩志は立ち上がって、「泊まってくか? 帰るなら、車で送るぞ」
と、言った。
父親のこともあるので、用心に越したことはない。
浩志は、克子をアパートまで送ってから戻って、風呂に入った。——そう遅い時間というわけでもないが、明日は会社だ。
眠気のささないままに、浩志は布団に入った。邦子と——もし、克子があのときやって来なかったら……。たぶん、邦子と寝ていただろう。
そうなった方が良かったのか。それともならなくて良かったのか。——浩志にも分からなかった。
どっちにしても、ハワイでの、ゆかりとのときといい、今夜といい、何か邪魔が入ることになっているようである。
「俺《おれ》には、これでいいのかな」
と、浩志は呟《つぶや》いた。
同僚の、森山こずえのことを、ふと思い出す。彼女も浩志のことを思っている様子だったが……。迷っている内に、みんなに逃げられてしまうかもしれない。
そうなったら、却《かえ》って気楽かな、などと考えて、浩志は一人でちょっと笑った。
電話が鳴り出したのは、十二時を少し回ったところ。
「——もしもし。——やあ、さっきは」
邦子だった。
「ごめんね、克子ちゃんの前であんな……」
「そんなこと気にするなよ」
「でも、私はいつでもいいのよ。呼んでくれたら飛んでくわ」
「仕事がなきゃ、だろ」
「ひどいこと言うのね」
と、邦子は笑って言った。「でもね、帰ったら、いいニュースが待ってたの」
「へえ」
「巨匠がもう一度私を使ってくれるって」
「三神憲二が?」
「うん。それも、ゆかりと一緒」
「そうか。——おめでとう」
浩志は起き上がった。あの二人が共演する。その日が意外に早くやって来たのだ。
「三神監督が、うちとゆかりのプロダクションにかけ合ってくれたの。来年の企画だったのを、くり上げて撮るって。来週、製作発表をやるのよ」
「じゃ、二人で並ぶわけだ」
「うん。浩志も並んで座らない?」
「よせよ。僕は記者席の隅から見てる」
「——例の映画も、たぶん半年もすれば公開できるだろうって。沢田さんはともかく、神崎さんは自殺したわけでしょ。そう叩かれないだろうし。他にも色々事情はあるみたい。ともかく——少しホッとした」
「これで、ゆっくり眠れるだろ」
「うん。——浩志と一緒なら、もっとよく眠れるのに」
そう言って邦子は笑った。浩志の胸が、チクリと痛んだ……。