浩志がロビーへ入って行くと、西脇の方が見付けてやって来た。
「石巻さん」
「どうも」
浩志は会釈して、「ずいぶん派手ですね」
と製作発表の会場を見やった。
「ええ、三神監督がいつになく力を入れていて。——いつもなら、こんな席は嫌うんですがね」
西脇も、少し興奮している様子だった。
「ゆかりは?」
「もう控室に。緊張してますよ。少しほぐしてやって下さい」
——「あの事件」から、二週間が過ぎて、そろそろTVや週刊誌からも、沢田や神崎弥江子の名が消えつつあった。
ゆかりのスケジュールの都合で、製作発表は今日までのびたが、三神の新作に、ゆかりと邦子が共演するという話は順調に進んでいた。
もともと邦子はそうスケジュールが詰まっているわけではないし、ゆかりに関しては、西脇が協力的なので、問題はほとんどなかった。ゆかりが持っているTVやラジオのレギュラー枠も、西脇が何とかやりくりして、映画のためのスケジュールを空けたのである。
控室のドアを開けて、浩志が中を覗《のぞ》くと、ゆかりは大きなサンドイッチを頬《ほお》ばったところだった。
「ちょっと……待って……」
と、あわてて紅茶で流し込む。
「落ちついて食べろよ」
と、浩志は笑って、「何も食べてないのか」
「——朝から、お水一杯しか飲んでなかったの」
と、ゆかりはフーッと息をついた。「ねえ、少し派手すぎるかなあ、この服」
「いいんじゃないか。製作発表の席だぜ。華やかな方がいい」
浩志はソファに腰をおろした。
「でも今度は『役者』として出るんだもん。もちろん邦子にゃかなわないけど」
「そんなこと気にせずにやれよ。のびのびやった方が、ゆかりらしい」
「うん……」
「邦子は?」
「今こっちへ向かってるって、連絡入ったみたいよ。——浩志、会社は?」
「今日は休んだ」
「さぼったな」
「ゆかりと邦子が並んで座るんだ。見逃せないさ」
ドアをノックする音。
「どうぞ」
と、ゆかりが声をかけると、意外な顔が覗いた。
「あら——」
「失礼します」
と、照れたような顔で入って来たのは、大宮だった。
「大宮さん!」
ゆかりが飛び上がった。「退院したの? いつ?」
「本当は来週辺りって言われてたんですけどね」
大宮は相変わらず太った体で、汗をかいている。
「今日は見逃せないですよ。マネージャーとしちゃ、これを手がけないわけにゃいきません」
「座って! ね、サンドイッチ、食べる?」
ゆかりは大はしゃぎで大宮の腕をとると、ソファに座らせた。
「いや……。食べたいんですがね、何しろ入院してて、ますます太っちゃったんで」
「何言ってるの! 仕事すりゃ、すぐにやせるわよ」
と、ゆかりは言った。
「じゃ、一つだけ……」
と、大宮の方も、すぐのせられてしまう。
浩志は、元気そうな大宮を見て、ホッとしていた。
「私、コーヒー頼んで来てあげる!」
止める間もなく、ゆかりが控室を出て行く。
「——良かったですね」
と、浩志が言うと、
「色々ご心配をおかけして」
と、大宮が頭を下げた。「大変でしたね。病院でTVを見ながら、飛び出して駆けつけたかったですよ」
「禍《わざわい》転じて福、ってことになるといいんですがね」
「そうなりますよ。きっとなります」
大宮は、病院で大分「休息」したせいか、前よりもずいぶん元気そうだった。
——浩志は、大宮のけがに責任を感じていただけに、ホッとしていた。
とはいえ、心配の種がないわけではない。父がどこにいるのか、全く分からないままだった。
克子にも、できるだけ一人で歩くな、と言ってあるのだが、用心にも限度がある。何事もなければいいが……。
「——お待たせ」
と、ゆかりがコーヒーカップを手に入って来た。
「すみませんね」
「今日だけの特別サービス」
と、ゆかりはいたずらっぽく笑った。「ね、浩志、お客様」
「僕に?」
ドアが開くと、黒木翔が顔を覗《のぞ》かせた。
「やあ……。どうも」
浩志は曖《あい》昧《まい》に言った。黒木翔がどうしてやって来たのか、分からなかったからだ。
「またさぼってるな」
と、ヒョイと翔の後ろから顔を出したのは、克子だった。
「克子、おまえはどうして?」
「私にも、有給休暇ってもんがあるのよ」
と、克子は言った。
「やっとデートしてくれるようになったんです」
と、黒木翔が言ったので、ゆかりが笑い出した。
「実感、こもってる。でも、良かったわね」
浩志は、ちょっと克子と目を見交わした。——ただの「デート」ではないはずだ。父のことを聞いて、翔は克子を守ってくれているのだろう。
しかし、それでも克子の表情は明るかった。ごく普通の「二十一歳」が、そこにいた。
「翔君がね、どうしてもお二人を見たいからって」
と、克子が言った。「邦子さんは?」
「もう来るころだ。ともかく座れよ」
大宮が立って、
「じゃ、会場の方を見て来ます」
と、ゆかりに声をかけた。
「ご苦労様。張り切りすぎないでね」
浩志たちが、大勢やって来たせいで、すっかりゆかりもリラックスしているようだ。
「——お待たせ」
と、ドアが開いて邦子が入って来たが、「わあ、どうしたの?」
と、目を丸くした。
控室はすっかりにぎやかになった。
「このままどこかに遊びに行きたいね」
と、ゆかりははしゃいでいる。
少しいつもより地味な格好のゆかり、きりっとした「勤め人」という雰囲気の邦子。それぞれに、「意気込み」がにじみ出ていた。
「——国枝から、何かないかい?」
と、少し落ちついたところで、浩志が訊《き》いた。
「今のところはね」
と、ゆかりが首を振って、「でも、ちゃんと気を付けてるわ。すっかり真面目《まじめ》になっちゃった、このところ」
「それくらいでいいんだ」
と、浩志は肯《うなず》いた。
「ね、ゆかりさんのコマーシャル、いつから流れるの?」
と、克子が訊いた。
「来週、CF撮りで、ヨーロッパに行くの」
「凄《すご》いじゃない」
「でも三日間。お天気が悪かったらどうしようって、スタッフが心配してる」
「大丈夫、きっと晴れますよ」
と、翔が言った。「親父も、ゆかりさんの出た番組のビデオ、ここんとこ、よく見てるらしい」
「すてきなコマーシャルになるわね、きっと」
と、克子が微笑《ほほえ》みながら言った。
ドアが開いて、大宮が顔を出す。
「三神監督がみえてます。そろそろ仕度して下さい」
「じゃ、行こうか!」
邦子が立ち上がる。ゆかりも立ち上がって、胸を張った。
「きっとすてきな映画になるわね」
と、克子が言った。
「うん……」
浩志は、克子と二人で、製作発表記者会見の会場の隅に立って、明るいライトに照らされる正面の席を眺めていた。
まだゆかりたちは登場していない。空の椅《い》子《す》が、ズラッと並んでいた。
「克子、何かあったのか」
と、浩志が訊《き》いた。
「何か、って」
「いや——翔君とデートっていうからさ」
「ああ……」
克子は、少し照れたように目を伏せて、「この間会って、お父さんのこと、ちょっとしゃべったら……。心配しちゃって、離れないの。毎日、会社の帰り、表で待っててくれるのよ」
「そりゃ凄い」
「私、見っともなくて。会社の人も知ってるじゃない。だから毎日冷やかされて」
と言いながら、克子は嬉《うれ》しそうである。
これほど、他人から心配され、気をつかわれたことがないのだ。克子の気持ちは、浩志にもよく分かった。
「——お兄さん」
「うん?」
「私……翔君のお父さんから誘われてるんだけど。仕事、変わらないかって。使ってくれるらしいんだけど……」
「いいじゃないか」
「でも……図々しいような気がして。そんなことまで甘えていいのかしら」
浩志は、ちょっと微笑《ほほえ》んで、
「お前は今まで誰《だれ》も甘える相手がいなかったんだ。少しはいいさ」
と、言った。
「そうかな」
克子は、ホッとした様子で、「お兄さんにそう言われると、何だか落ちつくわ」
「お前さえ良ければ、気にすることないさ。彼とも付き合って行けよ」
「翔君?——そうね」
「どうしたんだ、あの男……」
「斉木のこと?」
克子は肩をすくめて、「奥さんに逃げられて、私たちの間も終わったわ」
「そうか」
「今、翔君といるのが楽しいの。でも——お付き合いしてるだけよ。それだけなの」
「無理することはないさ。お前は若いんだ」
克子はちょっと兄の方を見て、
「若い、か……。そうね。若かったんだ、私って。忘れてた」
と、笑った。「でも、言っとくけどね、お兄さんだって若いのよ」
浩志は苦笑した。
拍手が起こった。監督の三神を先頭に、ゆかり、邦子が入って来ると、一斉にカメラのフラッシュが光った。
「凄い人数ね」
と、克子が言った。
記者会見の会場としては広い部屋を借りたはずだが、それでも、カメラマンと記者で一杯である。TV局のカメラも三台、入っていた。
浩志は——しかし、何となく落ちつかなかった。
「どうしたの?」
と、克子が気付いて、「何、変な顔してるの」
「いや……何だか……」
説明はできない。しかし、何か気になることがあるのだ。それが何なのか。浩志自身にも、よく分からなかった。
そこへ翔がやって来た。
「写真、とっちゃった」
と、小型のカメラを手にしている。
「私の分は残ってないんじゃない?」
「克子さんにはあと二十枚も残してますよ」
翔の反論がおかしかった。
「克子とここにいてくれ」
と、浩志は翔の肩を軽く叩《たた》いた。「見回ってくる」
「お兄さん」
「大丈夫だ。——ここにいろよ」
どうしてだろう? 浩志の中に、喉《のど》に引っかかった小骨のように、チクチクと刺しているものがある。
何かを見たのか? 何か気になることを。
それは何だろう?
「——大変満足できるキャスティングだね」
と、三神が話している。
会見そのものは、順調に進んでいた。
誰かが邦子に、神崎弥江子のことを訊《き》くのではないかと心配だったが、「亡くなった人間のことには触れにくい」という気持ちがあるせいか、その問題は全く出なかった。
浩志は、会場の一番後ろを、壁に沿って歩いて行った。
ズラッと並んだ椅子で、せっせとメモを取る記者たち。その前にしゃがみ込んでいるカメラマンたち。
明るくライトを浴びて、ゆかりと邦子が並んでいる。——ゆかりの方が緊張しているのが分かる。
本当なら、ゆかりはこんな席に慣れているはずだが、今日は「アイドル」としてでなく、「役者」として出席しているのだという気持ちがあるのだろう。
それに比べると、邦子は、これも「一つの場面」として演じている。だから、落ちついて見えるのである。
——浩志は、ゆっくりと会場の中を見渡した。
別に、国枝の所の人間らしい姿も見えないし、危険はないだろう。気のせいか……。
浩志は、克子たちの方へ戻りかけた。
「では、写真を……。皆さん、並んで立って下さい」
と、司会者が言った。
どこかおかしい。
浩志は、その印象をどうしても拭《ぬぐ》い切れなかった。——ゆかりと邦子を挟んで、監督の三神と、プロデューサーが立つ。
カメラマンたちの出番である。フラッシュが一斉に光り、モータードライブのメカ音がシャッター音と混じって、やかましいほどである。
浩志はじっと立っていた。——不安がふくらんで来る。
何だろう? これは一体……。
「それじゃ、ゆかりちゃんと邦子ちゃんのお二人、残って下さい」
と、司会者が言った。
ゆかりと邦子が少し頬《ほお》を上気させながら、並び立つ。さらに凄《すご》いフラッシュの光。
一方、記者たちの方は帰り始めている。もう用はないというわけだ。
その中に——後ろから見ている浩志には、丸めた背中しか見えないが——少し年輩らしい男の後ろ姿があった。他の記者が立って帰り始めると、ゆっくり立ち上がって……。
ノートも何も持っていない。記者が、何も持っていない?
その歩き方。——浩志には分かった。
「親《おや》父《じ》だ……」
と、浩志は呟《つぶや》いた。
なぜこんな所に来たんだろう? 記者のふりをして、中へ入ったのだろうが——。しかし、浩志や克子が来ていることなど、気にもしていないような……。
父の背中を見ながら、浩志は帰ろうとする記者たちの流れに逆らって、進んで行った。
父は、なぜか前方へ——カメラマンたちがフラッシュを二人のスターへ浴びせている、その方向へと歩いて行く。
もしや——ゆかり!
「ゆかり!」
と、浩志は大声で怒鳴った。
力の限りの声で。
「危ない! 伏せろ!」
浩志の声は届いても、その内容を聞き取るには、カメラのシャッター音がうるさすぎた。ゆかりがびっくりしたように浩志の方を見る。
父が飛び出すのを、浩志は見た。ポケットから出した右手に、ガラスのびんを握っている。
「ゆかり!」
浩志は目の前のカメラマンを突き飛ばして、父の背中へと——。
永遠のような数秒間。
石巻将司は、呆《あつ》気《け》にとられているカメラマンたちの前に出ると、びんのふたを開けて、中の液体を真正面に立つゆかりの顔に向かってぶちまけた。
同時に、危険を悟ったゆかりが両手を上げた。隣の邦子がゆかりの腕をつかんで引っ張る。
しかし——間に合わなかった!
液体はゆかりの手を焼いて、顔に向かって飛んだ。白い煙と悲鳴が上がる。
次の瞬間、浩志は父の背中に飛びかかっていた。
凍りつくような沈黙が、一瞬、会見の席を支配した。
浩志は父親を床へ押し倒した。ゆかりは邦子に引っ張られ、もつれ合うように転がった。
ガラスのびんが床へ落ちて砕けると、鼻をつく匂《にお》いが立ちこめる。
「硫酸だ!」
と、誰《だれ》かが叫んだ。
カメラマンたちがワッと散る。同時に、西脇を先頭にスタッフが駆けつけて来た。
「ゆかりを!」
と、浩志は叫んだ。「ゆかりを、早く!」
机が倒れ、椅《い》子《す》が転がる。
「ゆかり!」
西脇が駆け寄る。「ゆかり! 大丈夫か!」
呻き声が聞こえた。
「早く病院へ!」
邦子が叫んだ。「救急車を!」
畜生! 何てことだ!
浩志は、倒れて動かない父親を放っておいて、立ち上がった。
「ゆかり——」
しっかりと顔を両手で覆ったゆかりの、焼けて煙を上げる服と、ただれた手の甲を見て、浩志は絶句した。
「顔を……」
と、邦子が泣きそうな声で言った。「もっと早く気付いてたら……」
「ゆかり! 目は? 目は大丈夫か!」
ゆかりがかすかに肯く。細く、絞り出すような声が洩れた。
「早く救急車!」
と、西脇が怒鳴る。「病院の手配だ!」
スタッフの若い男たちが駆け出して行く。大宮が駆けて来た。
「大宮さん——」
「どうしたんです!」
「ゆかりの顔に硫酸を——」
「そんな……」
大宮は真っ青になった。「ともかく——こっちへ!」
大宮はパッと上着を脱いで、ゆかりの頭からかけると、抱きかかえるようにして、
「どいて! どいてくれ!」
と、集まって来たカメラマンや記者たちをかき分けた。
「退がれ!」
と、大声が響いて、記者たちが飛びのいた。
三神が記者たちの前に立ちはだかったのである。
「けが人だぞ! 邪魔するな!」
その声の迫力で、記者たちは会見場からあわてて出て行く。
「浩志……」
と、邦子が青ざめ、震えながら言った。「何があったの?」
そのとき、乾いた笑い声が、静かになった部屋に響いた。
父——石巻将司が、床に起き上がり、声を上げて笑っていた。
浩志は、床に砕けたびんの砕片、そして硫酸を浴びた机の白いテーブルクロスが、茶色くこげて、ねじれたようにちぢれているのを見た。
「お兄さん」
克子と翔が、机の間をやって来る。
「お前は、ゆかりについて行ってくれ」
「でも——」
「俺《おれ》はこいつを警察へ引き渡す」
浩志の声は震えていた。「黒木君、妹と一緒にいてやってくれ」
「はい」
翔が肯き、「行こう」
と、克子を促す。
克子は、やりきれない表情で、父親の方へ目をやると、翔と一緒に、ゆかりたちの後を追った。
浩志は、床に座り込んでいる父親の方へと向き直った。
「——警察へ渡す、か」
と、石巻将司は鼻先で笑うと、「自分の親を引き渡すか。立派なもんだ」
浩志は父親の方へ歩き出した。
「浩志!」
邦子が、すがりつくようにして止める。「いけない。——だめよ」
「放っといてくれ」
と、浩志はじっと父親を見《み》据《す》えて、「何をしたか分かってるのか! 自分が何をしたか」
「ああ、だからやったんだ」
と、石巻将司は口を歪《ゆが》めて笑うと、「お前らに教えてやったんだ。親を大事にしないと、どういうことになるか。よく分かったろう」
「何て人……」
邦子は、キッと石巻将司を見つめて、「ゆかりに何の罪があるっていうの! 大体、親らしいこともしないで、何が『大事にしない』よ!」
「生意気言うな」
と、ジロッと邦子を見上げると、「ついでにお前にもぶっかけてやりゃ良かったな」
「邦子」
浩志は、ギュッと邦子の肩を抱いた。「何を言ってもむだだ。——到底わかり合えない人間ってのが、世の中にはいるんだ」
邦子は、こぼれ落ちる涙を拭《ぬぐ》って、
「こんなこと……。ひどすぎるわ……」
と、震える声で言った。
「おい、浩志、誰だってな、お前が父親にしたことを聞きゃ、俺に同情してくれるさ。分かってるんだ、俺には」
床にあぐらをかいて、まるで殿様のように胸をそらしている父親の姿は、こっけいでしかなかった。——浩志は、怒りがやがて哀しみに変わって行くのを感じていた。
ホテルの責任者が、警官を伴って会場へ入って来るのが目に入った……。