「どうするんだよ、一体!」
と、隆《たか》志《し》が、詩《し》織《おり》のわき腹《ばら》をつついた。
「くすぐったいわね、エッチ」
「冗《じよう》談《だん》言ってる場合じゃないだろ」
「じゃ、あの子と赤ん坊《ぼう》を、放り出せっていうの?」
「そうじゃないけどさ……。お前、言うことが極《きよく》端《たん》なんだよな」
「こういう性格でございますの」
と、詩織は言い返した。
さて、ここは—— 成《なる》屋《や》詩織の家である。
至って洒《しや》落《れ》た造りの洋風建築。大《だい》邸《てい》宅《たく》というほどでもないが、ま、住んでいるのが詩織と両親の三人だけなんだから、そんな馬《ば》鹿《か》でかい家を建てても仕方ないのである。
「やあ、隆志君」
と、二人がいるリビングルームへ入って来たのは、詩織の父。
丸顔、丸っこい体、短い足……。これに丸ぶちメガネをかけているので、どこもかしこも丸い、という印象を与えている。
人《ひと》柄《がら》の方も至って「丸く」、いつもニコニコしていて、不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔ってのを知らないのじゃないかと思えて来る。
「おじさん、どうも——」
と、隆志は頭を下げた。
「ね、パパ。あの子、どうしてる?」
と、詩織が訊《き》いた。
「ん? ああ、例の赤ん坊《ぼう》連《づ》れの娘《むすめ》か。今、ママが一《いつ》緒《しよ》になって赤ん坊を風《ふ》呂《ろ》へ入れてるよ」
こうなると、隆志も笑い出してしまいそうになる。
詩織のセンチなのは、どうやら親《おや》譲《ゆず》りらしい。
「しかし、可《か》愛《わい》いもんだな、赤ん坊というのは」
と、詩織の父親は、ゆったりとソファに腰《こし》をおろして、「新たなインスピレーションが湧《わ》いて来た! 久しぶりに詩を作ってみるかな」
「パパ、それだったら、娘の私を見てて、インスピレーションは湧かないの?」
「見慣れた顔はだめなんだ」
と、成屋一《いち》郎《ろう》は言った。
しかし——いつもこの父親を見る度《たび》に、隆志は、この人が「詩人」だとは思えないな、と考えるのだった。
詩人なんていうのは、およそ商売としては成り立たない。特に、成屋一郎はあまり——というか全く、というか——知られていない詩人だから、ろくに収入というものがないのである。
それでいて、どうしてこんな家で優《ゆう》雅《が》に暮《くら》していられるかといえば——。
「ほら、こんなに元気一《いつ》杯《ぱい》!」
と、リビングに赤ん坊《ぼう》をかかえて飛び込《こ》んで来たのは、詩織の母親、成屋智《とも》子《こ》である。
「ママ!」
詩織が真《まつ》赤《か》になって、「何よ、その格好! 隆志君がいるのよ!」
赤ん坊をお風《ふ》呂《ろ》へ入れていたので、成屋智子は、当然のことながら裸《はだか》だった。バスタオル一《いち》枚《まい》、体に巻《ま》きつけていたが、もしそれが外《はず》れて落ちたら……。詩織が目をむいたのも当然のことだったのである。
「あら、おかしい?」
と、智子は心外、という様子で、「隆志君だってお母さんのお風呂上りぐらい見たことあるでしょ」
「自分の母親とよその母親じゃ違《ちが》うでしょ!」
と、詩織はむきになって、「ともかく、ちゃんと服を着て来てよ!」
「はいはい。うるさいのねえ。——ああ、よしよし」
と赤ん坊《ぼう》をあやしつつ、リビングを出て行く。
詩織はフーッと息をつき、隆志は笑い出したいのを、必死でこらえている。
いや、実際、詩織の両親は、ユニークな人たちなのである。
母親の方は、詩織とよく似た顔立ちで(詩織の方が、母親に似たのであるが)、金持のお嬢《じよう》さんで、この家の収入は、この母親が、親からもらった株だの証《しよう》券《けん》だのの配当などがほとんどなのだ。
いとも優《ゆう》雅《が》な生活であるが、それがいい方に出て、二人とも無類のお人好し。ねたんだり、恨《うら》んだりしようという気になれないタイプなのだった。
「——ああ、いい気持だった」
と、リビングに入って来たのは、もちろん桜木啓子である。
詩織のパジャマを着ている。——もはや、この家にすっかり居つく気でいるらしい。
「あの赤ん坊、なんていう名前なの?」
と、詩織が訊《き》く。
「花《はな》子《こ》。——だって、考えるのが面《めん》倒《どう》だったから。おじさんがね、昔そういう名の象が動物園にいたって……」
象、ねえ……。
隆志は、もう、どうにでもなれって気分である。
詩織は、結局、赤ん坊《ぼう》ともども、この家へ桜木啓子を連《つ》れて来てしまったのだ。
「ほら、連れて来たわよ!」
一応、ちゃんと服を着た智子が、赤ん坊の花子を抱《だ》いて来る。
「あ、すみません。——お風《ふ》呂《ろ》の後は、よくオッパイ飲むんですよね」
「本当に可《か》愛《わい》いわね。大きくなったら、きっと美人になるわ」
と、智子は、もうニコニコしっ放しである。
赤ん坊が、フギャーフギャーとむずかり出した。啓子は、
「はいはい」
と、パジャマの前を開《あ》けて、胸《むね》を出し、乳《ち》首《くび》を赤ん坊に含《ふく》ませた。
隆志は目をパチクリさせて、それを見ていた。——その、当り前のしぐさは、なかなか感動的な光景であった。
フギャー、フギャー。
次の日、成屋家にやって来た隆志は、いやに派手に赤ん坊が泣《な》いているので、声をかけにくくて、しばらく玄《げん》関《かん》に突《つ》っ立っていた。
すると、詩織がバタバタと足音を立てて飛び出して来た。
「隆志君! 何をぼんやり突っ立ってるのよ!」
「へ?」
「早く、粉ミルクを買って来て!」
「粉ミルク?」
「そうよ、急いで! 十秒以内にね!」
そんな無茶な。
「おい、粉ミルクって、コーヒーに入れるやつ?」
「馬《ば》鹿《か》! 赤ちゃんにのませるやつよ!」
何だかよく分《わか》らなかったが、ともかく仕方なく、隆志は表に飛び出した。が——しかし、大体、粉ミルクってのは、どこで売ってるんだ?
——しかし、ともかく駆《か》け出して、商《しよう》店《てん》街《がい》へ行くと、幸い、薬局の店頭に山積みになっている粉ミルクの大きな缶《かん》を見付けた。
取りあえずそれを買って、飛んで帰ると、詩織が引ったくるようにして——。
しばらくすると、赤ん坊は泣きやんだ。
隆志が恐《おそ》る恐る覗《のぞ》き込《こ》んでみると、台所で詩織と父親の二人がへばっている。
赤ん坊は、辛《かろ》うじて詩織の腕《うで》の中で、スヤスヤと眠《ねむ》っていた。
「どうしたんだよ、一体?」
「え?——あら、隆志君、いつ来たの?」
「それはないだろ。今、粉ミルク買って来たじゃないか」
「あ、そうだっけ」
こりゃ相当なものだ。
「どうでもいいけど——母親は?」
「うちのママ? お出かけ」
「違《ちが》うよ。例の桜木啓子さ」
「ああ」
詩織は、片《かた》手《て》で赤ん坊を抱《だ》いたまま、もう一方の手をのばして、台所のテーブルの上の紙きれを取り、隆志の方へ差し出した。
「何だい?」
と、受け取って見ると——何だか子供の走り書きって感じの字で、
〈いろいろありがとうございました!
私、したいことがいくつかあるんで、しばらく花子をお願いします。粉ミルクは××印のにして下さいね。他《ほか》のだと便ぴしますので。
じゃ、よろしく。
啓子〉
「——おい」
隆志は呆《あき》れて、「じゃ、出てっちまったの? 赤ん坊を置いて?」
「そのようね」
「どうするんだよ! もう帰って来ないかもしれないぜ」
詩織は、ちょっと隆志をにらんで、
「あなたの買って来た粉ミルク、メーカーが違《ちが》ってたわよ」
と言った。