「そりゃ、今日《きよう》はいいよ。日曜日だからな。だけど——」
「言いたいことは分《わか》ってるわよ」
と、詩《し》織《おり》は言った。
「本当かい?」
と、隆《たか》志《し》は、半信半疑の面《おも》持《も》ち。
「どうせ、私は馬《ば》鹿《か》だ、間《ま》抜《ぬ》けだって言いたいんでしょ。どうしようもないお節《せつ》介《かい》やきで、救いがたいオタンコナスだって。どうせそうですよ。——そんなにいじめなくたっていいじゃない」
グスン、と詩織は涙《なみだ》ぐんでいる。
「自分で勝手に言って勝手に泣くなよ」
と、隆志はため息をついた。「ほれ、鼻かめよ」
ティッシュペーパーを常に持ち歩く。これは、詩織と付き合うときの第一鉄則なのだ。
今、二人は、詩織の家の近所にある公園から、戻《もど》る途《と》中《ちゆう》である。そろそろ陽《ひ》が傾《かたむ》いて来て、夕空は大分秋めいていた。
二人は——いや、正確に言うと三人だった。
例の花《はな》子《こ》——桜《さくら》木《ぎ》啓《けい》子《こ》に置いて行かれた赤ん坊《ぼう》が、一《いつ》緒《しよ》だったのである。
といっても、赤ん坊が詩織たちと並《なら》んで、ポケットに手を突《つ》っ込みながら歩いているわけはないので、詩織の腕《うで》の中に抱《だ》かれているのだった。
「鼻かめ、ったって……」
と、詩織が、ノッポの隆志を見上げる。
「分ったよ。——落っことしても知らねえからな」
隆志は、こわごわ花子を詩織から受け取った。
赤ん坊というのは、抱き慣れていない人間の危っかしい手つきを、敏《びん》感《かん》に察知するものである。
「ワッ! ワッ!——動いた!」
「当り前でしょ。もっとしっかり抱かなくちゃ。赤ちゃんだって怖《こわ》いわよ」
「そんなこと言ったって、慣れてねえんだからな」
何度も抱き直して、やっと花子も静かになった。詩織は、チーンと鼻をかんで、それからハンカチを出して涙を拭《ぬぐ》った。
そして、ヒョイと顔を上げると、どこかで見たような女性が立っている。四十代も後半に違《ちが》いないという、尖《とが》ったメガネの細身のおばさんで、地味なスーツを着て、歩いて来たところだった。
「こんにちは」
誰《だれ》だっけ? 考えながら、詩織はそう挨《あい》拶《さつ》した。たぶん近所のおばさんだろう。
「—— 今の誰だ?」
と、すれ違って少し歩いてから、隆志が言った。
「見《み》憶《おぼ》えあるんだけどね……」
「何だか、変な顔してこっちを見てたぞ」
「失礼しちゃうわ。こっちがちゃんと挨拶したのに、何も言わないなんて」
と、詩織は腹《はら》を立てている。
「そんなこといいけどさ、明日《あした》から、どうするんだ? 学校あるんだぞ」
詩織も隆志も、まあ一応学校という所へ通っている。詩織は高校二年。隆志は三年生だ。ただし、隆志は都立、詩織は私立の女子校。
その割に、隆志はあまり受験勉強している様子もなく、呑《のん》気《き》だ、と思われるかもしれないが、この小説に出て来ない場面では、必死になって勉強して——いるだろう、と著《ちよ》者《しや》は想像している……。
「分《わか》ってるけど、その子を捨《す》てるわけにもいかないでしょ」
「捨てろとは言わないよ。でも、何てったって、ちゃんと母親がいるんだからさ。捜《さが》してこの赤ん坊《ぼう》を渡《わた》すべきだよ」
「どうやって捜すの?」
「どうやって、って……」
そう言われると、隆志も、ぐっと詰《つま》るのである。「だけど——あの啓子ってのが、いつ帰って来るのか分らないんだぜ。それまでずっとお前が面《めん》倒《どう》みるのか?」
「ママが何とかするでしょ」
と、詩織の方だって、いい加減無責任なのである。
「しかし、お前の母さんもひどいよな」
と、これは腕《うで》の中の赤ん坊へ向って、「お前を放《ほ》ったらかして、どこかへ行っちまうなんてな。——帰って来たら、うんとギャーギャー泣《な》いて、困《こま》らしてやれよ」
隆志は、いつの間にか、詩織が隣《となり》を歩いていないのに気付いて、足を止めた。二、三メートル後ろで、詩織、ポカンとして突《つ》っ立っている。
「おい。——何してんだ?」
と隆志が声をかけると、
「思い出した」
と、詩織が言った。
「何を?」
「さっき、すれ違《ちが》ったおばさん……」
「何だ、誰《だれ》なんだよ?」
「うん……。学校の生活指導の先生」
と、詩織は、呟《つぶや》くように言ったのだった……。
「あのおばさん、完全に誤解してるぜ」
成《なる》屋《や》家のリビングルームに座《すわ》って、隆志は言った。「何しろ俺《おれ》が赤ん坊抱《だ》っこして、お前がすすり泣いてる、と来りゃ……」
「いくら何でも! 私がいつ生んだっていうのよ? ずっと学校へ行ってたのに!」
「夏休みの間に生んだ、とかさ」
「人のことだと思って」
と、詩織は隆志をにらんだ。「——明日《あした》行ったら、まず間違いなく呼《よび》出《だ》しね」
「もう席がないかもしれないぜ」
と、隆志がからかった。
電話が鳴り出した。詩織があわてて飛んで行ったのは、せっかく花子を寝《ね》かしつけたところだったからだ。
「はい。——あ、何だ、ママ?——うん、今寝てるよ」
「じゃ、紙オムツとか、色々買って帰るわ」
と、智《とも》子《こ》は、何だかやけに楽しそうである。
「今日《きよう》は早いじゃない」
と詩織が言ったのは、何しろ母の智子、年中出歩いているからである。
「そりゃ、だって、赤ちゃんの顔が見たいからね」
「娘《むすめ》の顔じゃだめなの?」
「見《み》飽《あ》きたわよ」
智子はグサッと来ることを平気で言って、「じゃ、帰るまで泣かさないようにね」
と、さっさと電話を切ってしまう。
「いい気なもんだわ」
と、ふくれっつらで、詩織が戻《もど》りかけると、また電話。「——はい——え?」
「私、啓子よ」
「あら、どこにいるの、あなた?」
「それは言えないの。ごめんなさい」
いやに低い、押《お》し殺したような声を出している。
「どうしたの?」
「花子、元気?」
「ええ。今、寝てるわ」
「そう。悪いんだけど、もう少し預《あず》かってちょうだい。お願い」
啓子の声には違《ちが》いないのだが、切《せつ》羽《ぱ》詰《つま》った声を出している。
「何があったの?」
「もう一つ、あなたに甘《あま》えて、お願いがあるの」
「というと?」
「あの子を絶対、誰にも渡《わた》さないで」
「何ですって?」
と、詩織は思わず訊《き》き返した。
「引き取りに来る人がいても、決して渡《わた》さないでね。私が、必ず行くから。——お願いね!」
「でも——もしもし?」
もう、電話は切れている。
リビングルームへ戻《もど》ると、隆志が大《おお》欠伸《あくび》をして、
「赤ん坊《ぼう》って、よく眠《ねむ》るなあ。見てると、こっちまで眠くなっちまう。——どうしたんだ?」
「うん……」
詩織が、今の啓子からの電話のことを話してやると、隆志は首をかしげて、
「この赤ん坊を、一体誰《だれ》が引き取りに来る、っていうんだい?」
「知らないわよ。でも——彼女、真剣だったわ。それは確かよ」
「ふーん。じゃ、結構何か事情があるのかもしれないな」
「そうよ。それをあなたは馬《ば》鹿《か》にして!」
「俺《おれ》がいつ——」
「可《か》哀《わい》そうに。きっとやむにやまれぬ事情があって、この子を置いて行ったんだわ!」
早くも、また涙《なみだ》ぐんでいる。「——私、この子を命にかえても守ってやるわ!」
「オーバーだなあ」
と、隆志が苦《にが》笑《わら》いする。
玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。
「誰か来たわ!」
と、詩織が身構えると、
「——チワー。そば屋ですが、器、下げに来ました」
と、声がした。
確かに、引き取りに来たには違いなかったのである……。