「——くたびれた!」
と言ったのが、隆《たか》志《し》だったのか、それとも添《そえ》子《こ》だったのか、もちろん聞けば分《わか》るはずだが、言った当人の方に、その自覚がない、という……。
つまり、二人ともそれほど疲れ切っていたのである。といって、隆志と添子は新《しん》婚《こん》夫婦ではなく(何の話だ?)、ただ、成《なる》屋《や》家を後にしたところだった。
「—— 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かしら、詩《し》織《おり》?」
と、夜道を歩きながら、添子が言った。
「大丈夫だろ。あいつ、ともかく泣《な》きさえすりゃ、ケロッとできる性格だから」
隆志の方も、半ばやけ気味だった。
二人がくたびれ果てるのも無理はない。
赤ん坊《ぼう》の花子が誰《だれ》かに連れ出されたというので、詩織の落ち込《こ》み、はなはだしく、ワンワン泣いて、
「啓《けい》子《こ》さんに申し訳ない。死んでお詫《わ》びを——」
というのを、駆《か》けつけた隆志が、添子ともども、何とか思い止《とどま》らせて来たのである。
隆志が成《なる》屋《や》家へ駆けつけたのが、午後六時少し前。今は深夜の一時。——何と七時間余りにわたって、
「お前のせいじゃないんだから……」
「お前が死んだって赤ん坊は帰ってこない」
「お前が腹《はら》空《す》かしてたって、赤ん坊は腹一《いつ》杯《ぱい》にならない」
といった文句を、順番にくり返していたのだから、これでくたびれなきゃ人間じゃない!
しかし、ともかく詩織も絶望のどん底にいるわりには、晩ご飯を二杯食べ(いつもよりは少なかったが)、涙《なみだ》もさすがに一時的に水不足の状態となったようなので、隆志も家へ帰ることにしたのである。
「明日《あした》、テストなんだぜ、頭痛《いた》いよ、全く!」
と隆志はぼやいた。
「仕方ないじゃない、恋《こい》人《びと》のためなら」
と、添子が欠伸《あくび》をした。「あーあ、眠《ねむ》くなっちゃった」
「何の因《いん》果《が》で、詩織みたいな変った奴《やつ》の恋人になっちまったんだろ?」
ブツクサ言っちゃいるが、「恋人」であることは、隆志も自覚している。
「でも、赤ちゃん、どこへ行っちゃったんだろね?」
「俺《おれ》が知るか。——何だかあの子、いわくありげだったよな」
二人が歩いて行くと、道の向うから車のライトが近付いて来た。
「でかい車。——おい、わきへ寄らねえと危《あぶな》いぞ」
そう。実際、道《みち》幅《はば》一《いつ》杯《ぱい》って感じの大きな外車だった。
二人がわきへ寄ると、その車、ピタリと停《とま》って、後部席の窓《まど》が静かに降《お》りた。
「ワン」
と、その男が言った。
いや——「ワン」と言ったのは、その男の膝《ひざ》の上にいた犬だった。
「ちょっとうかがいたいが」
と、その男が隆志に言った。
「はあ」
「この辺に、成屋という家はないかね」
「成屋?」
隆志はびっくりした。車に乗っているのは、六十歳ぐらいかと見える、白《はく》髪《はつ》の老《ろう》紳《しん》士《し》。そう人《ひと》柄《がら》は悪くないように見えた。
「そう。確かこの辺《あた》りだと思うんだが」
「それなら、この先の右側ですよ」
と添子が、素直に言った。
「そうか! 大分先かね?」
「いいえ、五、六十メートルじゃないかな。割と新しくて小ぎれいな家だから、すぐ分《わか》りますよ」
「いや、どうもありがとう。助かったよ」
「どういたしまして」
車が、スーッと大型車特有の滑《すべ》るような動きを見せて、遠《とお》去《ざ》かる。
「——おい、俺《おれ》が訊《き》かれたんだよ。何でお前がペラペラしゃべっちゃうの?」
「あら、いけないって法律でもある?」
「そうじゃないけど……。変じゃないか、こんな時間に詩織の家に——」
「だから、よ」
「だから?」
「私たちも行こ」
と、添子は、さっさと車の後を追って、道を戻《もど》って行く。
「おい! 俺は明日《あした》テスト……」
隆志は口の中でブツブツ言いながら、添子の後をついて行った。
ま、この後、隆志と添子が戻って行って、詩織が面食らうという一《ひと》幕《まく》は省略。
成屋家のリビングルームに、さっきの白《はく》髪《はつ》の老《ろう》紳《しん》士《し》を迎《むか》えて、詩織に母親の智《とも》子《こ》、後から追加の隆志と添子が揃《そろ》ったところで、続きがスタート……。
詩織の父親は、インスピレーションが湧《わ》いたとかで、昼間から二階で詩作に熱中している。こうなると、誰《だれ》が何を言っても耳に入らないのである。
「——で、お話というのは?」
と、母親の智子が言った。
「こんな夜分に、誠に申し訳ありません」
と、老紳士は、いたって丁《てい》寧《ねい》な口《く》調《ちよう》で言った。「私は種《たね》田《だ》信《のぶ》義《よし》と申します。少々会社などを経営している、まあ、実業家のはしくれ、と申しましょうか」
「はあ」
「実は、私の秘《ひ》書《しよ》が、先日、この新聞の切《きり》抜《ぬ》きを持って来たのです」
と、種田と名乗った老紳士、上等な背《せ》広《びろ》のポケットから切抜きを出して、テーブルに置いた。
「まあ」
と、智子はそれを手に取り、「冬物のバーゲン、三日間限り!」
「それは裏《うら》です」
「あ、そうですか」
詩織は、母の手もとを覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「あ、これ——」
隆志も反対側から覗き込んだので、智子には記事が見えなくなってしまった。
「おい、これ、お前が例のおっさんに人質にされたときの記事じゃないか」
「本当だわ。他《ほか》の新聞には私の写真ものったのに、これ、出てないわ」
「変なことにこだわるなよ。——この事件がどうかしたんですか?」
「その桜《さくら》木《ぎ》という男に、私は娘《むすめ》をさらわれたのです」
詩織と隆志は顔を見合せた。種田は続けて、
「私は桜木という男が、若い女と暮《くら》していたと知り、もしや私の娘ではないかと……。住んでいたアパートを訪《たず》ね、あちこち訊《き》き回って、どうやら、その娘は赤ん坊《ぼう》ともどもこちらへ引き取られたらしいと分《わか》ったのです」
種田は、ちょっと息をついて、「こんな夜中も構わず押《お》しかけたのも、娘を思う親心と、お許しいただきたい」
と、頭を下げた。
「そりゃ結構ですけど」
と、智子が言った。「ちょっと詩織、あなたどいてよ。何も見えないじゃないの」
「あ、ごめん」
覗《のぞ》き込《こ》んだ姿《し》勢《せい》のままだった詩織と隆志が左右へ引っ込んで、やっと視界が開けた智子、
「その娘《むすめ》さんというのは——」
「啓《けい》子《こ》といいます。写真を持って来ました」
種田が、ポケットから写真を取り出し、智子に渡《わた》すと、また詩織と隆志がワッと覗き込む。
「——啓子さんだわ!」
と、詩織が叫《さけ》んだ。
確かに、それは啓子の写真だった。セーラー服を着ているので、大分イメージは違《ちが》うが、見間違いようはない。
しかし……。隆志は首をひねった。
啓子の話では、両親は彼女が家出したと思って、心配もしていないだろう、ということだった。しかも家は九州で、母親は実の母じゃない、とも。
「やはりそうでしたか」
種田が大きく息をついて、「いや、良かった! 啓子がいなくなってから、一日たりとも、気の休まる日はなかったのです! 生きてさえいてくれたら、と祈《いの》るような思いでした。——で、今、啓子はどこに?」
「はあ……」
詩織は、隆志と顔を見合せた。
「いや、実はですね」
と、隆志が代って言った。「啓子さんは確かにここへ来たんです。でも、出て行っちゃったんですよ」
「何ですって?」
種田が訊《き》き返した口《く》調《ちよう》は、びっくりするほど鋭《するど》かった。