啓《けい》子《こ》がいない、と聞いて、父親が驚《おどろ》くのは当然のことだ。
ただ、この場合の種《たね》田《だ》の驚き方は、ちょっとニュアンスが違《ちが》っているように、詩《し》織《おり》には思えた。どう違うか、二百字で答えよ、と言われたら詩織も困《こま》るだろうが、ともかくこの人の驚き方、ちょっとおかしいわ、と直感的に思ったのである。
「いなくなった……」
と、種田は呟《つぶや》くように言ってから、「いつのことです、それは? いや、赤ん坊《ぼう》は? 一《いつ》緒《しよ》にいなくなったんですか?」
何だか刑事の訊《じん》問《もん》みたい、と詩織は思った。その種田の口《く》調《ちよう》には、娘《むすめ》を捜《さが》し求めて来た苦労の果て、やっと見付けたと思ったのを、裏《うら》切《ぎ》られた落《らく》胆《たん》や、娘の身を案ずる不安はなくて、何か仕事をしているという雰《ふん》囲《い》気《き》があったのである。
「いなくなりましたけど、別々にです」
と、母の智《とも》子《こ》が言った。
「詳《くわ》しくお聞かせ願えますか」
と、種田は言った。
「はあ。実は——」
と、智子が言いかけるのを、
「ママ!」
と詩織が遮《さえぎ》った。
「な、何よ、大きな声で。びっくりするじゃないの」
「しゃべっちゃだめよ」
「どうして? 私はただ、こちらのお父様に——」
「この人が本当に父親ならね」
これはいかにも大胆な発言だった。
詩織だって、ここまで言うつもりはなかったのである。ただ、もののはずみで、つい……。
この詩織の言葉には、智子も隆《たか》志《し》も、ついでに添《そえ》子《こ》もびっくりした。しかし——これに対する当の「父親」、種田の反応に、みんな、もっとびっくりすることになったのである。
「——ほう」
と、種田は、急に別人の如《ごと》く冷ややかな表情になって、「私が本当の父親ではない、とね」
そして、種田は、ちょっと唇《くちびる》の端《はし》を上げて、笑った。——いつの間にか、種田の手には、大《たい》砲《ほう》が——いや、拳《けん》銃《じゆう》が握《にぎ》られていたのである。
「やっぱり、先を越《こ》されたか」
と、種田は首を振《ふ》って、「奴《やつ》らにいくらで売ったんだ?」
しかし、いくら詩織が小説のヒロインでも、いきなり拳銃をつきつけられて、すぐに相手の質問に答えられるわけがない。心の準備というものが必要である。
種田はその点、あまり思いやりの心を持った男とは言えないようだった。
「答えないつもりか。——これがオモチャだと思ってるのか?」
と、突《とつ》然《ぜん》、バン、と鼓《こ》膜《まく》を叩《たた》くような音がして、サイドボードの上の花びんが、砕《くだ》け散った。——拳銃の銃《じゆう》口《こう》から、うっすらと煙《けむり》が漂《ただよ》っている。
「お前の頭を、あの花びんみたいに粉々にしてやろうか。どうだ?」
「花はいけられません」
詩織は、ふさわしくない場所で、つい余計なことを言ってしまうというくせがあった。
「そうか、——そっちがそういう態《たい》度《ど》で来るのなら、運転手を呼《よ》んで、ここでお前を可《か》愛《わい》がらせてやろうか」
詩織は、やっと恐《きよう》怖《ふ》が脳《のう》に到《とう》達《たつ》したのか、青くなって、ガタガタ震《ふる》え出した。
「待ってくれ!」
と、隆志が叫《さけ》んだ。「何の話なんだよ? 奴《やつ》らって何だ? いくらで売った、って、何をだよ?」
「質問は一つずつでなきゃだめよ」
と、智子が隆志をたしなめた……。
「なるほど」
種田は、拳《けん》銃《じゆう》を手に立ち上った。「どうもよく分《わか》っていないようだな。一人、死ななくちゃ分らねえか。——じゃ、まず一人、片《かた》付《づ》けよう。誰《だれ》がいい?」
「あのね」
と、詩織が、やっとこ口を開いた。「本当に、啓《けい》子《こ》さんは、ここから勝手に出てっちゃったの。何も知らないのよ、私たち」
「ほう、じゃ、赤ん坊《ぼう》も勝手に出てったのか?」
「そりゃ……見てなかったから、分らないわよ」
「とぼけた奴だな」
と、種田は苦《にが》笑《わら》いして、「よし、若い身《み》空《そら》で気の毒だが、まずお前の頭をふっ飛ばしてやる」
頭がないと困《こま》るのよね、と詩織は思った。美容院にも行けないし、イヤリングもつけられない。ご飯も食べられない……。
「ママ!」
詩織は母親の方へぴったりと身を寄せた。
智子は、ひしと詩織を抱《だ》きしめて、
「娘の代りにこの私を!」
と、言うかと思えば、
「詩織、何か言い遺《のこ》すことは?」
詩織は目をむいた。すると、そこへ、
「ああ、やっと出《で》来《き》た!」
と声がして、成屋が、ブラリとリビングルームへ入って来たのである。
誰《だれ》もが、種田も含《ふく》めて、ポカンとして、成屋を眺《なが》めていた。
「やったぞ! 傑《けつ》作《さく》が書けた。これで私の詩人としての名声は、長く後《こう》世《せい》に伝えられるだろう!」
成屋は、天を仰《あお》いで(もちろん、ここでは天井であるが)、力強く、こぶしを握《にぎ》りしめ突《つ》き出した。「——ん? 花びんが壊《こわ》れてるぞ」
隆志が一番先に我《われ》に返った。
種田が呆《あつ》気《け》に取られて成屋を眺めているところへ、パッと飛びかかって、その手にかみついた!
ちょっと女の子みたいで、あんまりカッコ良くはないが、この際、そんなことは言っていられない。
「ウッ!」
種田が、不意を突《つ》かれて、拳《けん》銃《じゆう》を取り落とす。と、添子がすかさず足をのばして、それを遠くへけとばした。
「畜《ちく》生《しよう》!」
種田が、見かけからは想像もつかない凄《すご》い力で、隆志をはね飛ばす。隆志は、もろに智子の膝《ひざ》の上に落下した。
「キャッ!」
と、智子が悲《ひ》鳴《めい》を上げる。
「また来るぞ!」
種田が、そう捨《す》てゼリフを残して、足早に出て行く。玄《げん》関《かん》の方で、ワン、と犬の声がして、すぐに車の音が遠去かって行った。
もちろん隆志は猛《もう》然《ぜん》とその車を追いかけ——たりしなかった。何しろ命が大切である。
「ああ……」
誰《だれ》からともなく、声が洩《も》れて、みんなその場にへたり込《こ》んで、動けなくなってしまった。
「——どうしたんだ?」
ただ一人、成屋だけがキョトンと突っ立っているのだった……。
そして——やっとみんなが平静に戻《もど》ったのは、三十分近くもたってからのことだ。
「——何かしら、あの男?」
と、添子が言った。
「拳銃なんか持ってんだ。まともな奴《やつ》じゃないよ」
隆志は、まだ床《ゆか》に落ちたままになっている黒い鉄の塊《かたまり》を、ゾッとしたように見やった。
「私、殺されるところだったのね」
と、詩織は、今さらのように実感しているらしい。
「だからよせって言ったんだ。あんな娘《こ》と赤ん坊《ぼう》をここへ連れて来たりするから……」
「私が悪いのね。——そうよ。みんな私のせいなんだわ……」
詩織が、またグスグスと泣《な》き出したので、隆志はあわてて、
「取り消す! お前のやったことは正しい! 絶対に正しい!」
「本当?」
「ああ! お前はキリストの再来の如《ごと》く正しいんだ!」
どこからこんな文句が出て来たのやら。
が、詩織はプーッとむくれた。
「キリストは男でしょ! 私は女よ!」
「ま、かたいこと言うなって」
「だけどさ」
と、添子が言った。「その赤ん坊と母親が、何であんなのに狙《ねら》われるわけ?」
「俺《おれ》が知るかよ」
「でも、あの人、『奴《やつ》ら』とか言ってたわ。他《ほか》にもいるのかしら?」
と、詩織が言った。
「かもな。——ともかく、こいつは警《けい》察《さつ》へ届けなきゃ。こっちの手にゃ負えないよ」
と、隆志が電話の方へ歩き出そうとしたとき、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。
みんなが顔を見合せる。
「——その、『奴ら』かしら」
詩織が、あまり楽しくない予想を述べた。