あの啓《けい》子《こ》が、暴力団のボスの娘《むすめ》!
信じられないような話だが、しかし、いくら詩織が、世の中には偶《ぐう》然《ぜん》ってことがあるものだという信念の持主でも、
「年《ねん》齢《れい》十七、名前が啓子……」
しかも、その花《はな》八《や》木《ぎ》という刑事の話では、
「その啓子さんって、一人で家出したんですの?」
——これは詩織の質問である。花八木がこんな口をきいたら、気持が悪い。
「いや、この啓子という娘には、いつもボディガードがついていたのだ」
と、花八木が言ったので、添《そえ》子《こ》が、
「凄《すご》い! 私なんか誰《だれ》もついてない!」
と、ねたましげに叫《さけ》んだ。
「そんなもん、ちっとも楽しくないじゃない」
と、詩織が呆《あき》れて、「ボディガードがついてるってことは、いつ狙《ねら》われるか分《わか》んないってことなのよ」
「それだっていい! 一度でいいから、ボディガードに囲まれて歩いてみたい!」
「添子はね、大体——」
と詩織がやり出したので、花八木はムッとしたように、
「君らは私の話が聞きたいのかね? 聞きたくないのか、どっちだ!」
「ちゃんと聞いてますよ」
詩織がパッと花八木の方を向いて、「ほらこの通り」
「私も」
と、添子も真顔で言った。
「その——その——ボディガードがだな」
花八木は、息切れしながら言った。かなり疲《つか》れている様子である。隆《たか》志《し》は多少、花八木にも同情していた。
「そのボディガードが、啓子という娘に同情して、一《いつ》緒《しよ》に逃《に》げたのだ! 分《わか》ったか!」
「落ちついて下さいよ。血圧、上りますよ」
と、詩織は冷ややかな口《く》調《ちよう》で言った。「そのボディガードの名前は?」
「桜《さくら》木《ぎ》だ」
「やっぱり。年《と》齢《し》は四十ぐらい?」
「その通り。奴《やつ》を知ってるのか?」
「いいえ」
詩織は平然と言った。「全然、見たことも聞いたこともないわ。ねえ、隆志?」
「え?——あ、うん——でも——」
「添子も知らないでしょ?」
「ええ? だって——」
「ほら、刑事さん、みんなそんな人のこと、全然知らないわ」
と、詩織はすっとぼけて、「啓子って子のことも知らないわ」
「じゃ、なぜ、種《たね》田《だ》がここへ来たんだ?」
「トイレを借りに」
「——何だって?」
「車で走ってたら、急にトイレに行きたくなったんですって。で、この家が見るからにトイレを貸してくれそうなので、頼《たの》んで来たのよ」
「見るからに……?」
「そう。家には、住む人の性格が出るもんなのよ。この家は、見るからに優《やさ》しそうで、善良に見えたって」
「そうか。——なるほど」
花八木は、深々と肯《うなず》くと、「君の言いたいことはよく分《わか》った」
「そうでしょ。よく言われるの。お前の話は分りやすいって」
「では、これ以上ここにいてもむだらしいな」
と、花八木は立ち上った。「君の名は?」
「成《なる》屋《や》詩織」
「しおり、か。——一つ言っとこう」
「何ですか? 明日《あした》の天気予報?」
「天気ではないが、予報には違《ちが》いない」
花八木はニヤリと笑った。「君がそういう態《たい》度《ど》に出る限り、君は二、三日中に、本のしおりの如《ごと》く、あの種田の手でペチャンコにされるだろう。しかし、私は君を一《いつ》切《さい》護《まも》ったりせん。君が警《けい》察《さつ》を馬《ば》鹿《か》にしている限りは、だ。——分ったか!」
最後に雷《かみなり》を一つ落として、花八木は出て行ってしまった。——と思うと戻《もど》って来て、
「玄《げん》関《かん》はどこだ!」
と、怒《ど》鳴《な》ったのだ……。
「俺《おれ》、明日テスト……」
と、隆志が呟《つぶや》いた。
いや、もうその「明日」になっていた。
ついに、隆志は成屋家で一夜を明《あ》かしてしまったのだ。といって、詩織との間に、何かあったわけではない。
居間のソファで、眠《ねむ》っていたのだ。その内、
「コケコッコー」
と時代遅《おく》れな目《め》覚《ざま》し時計の音がして、目が覚《さ》め、ハッと起き上って、ねぼけたままで、
「俺、明日テスト……」
と呟いたのだった。
——朝食の席で元気なのは、詩織と、やはりここに泊《とま》って行った添子、そして成屋智《とも》子《こ》。
要するに女性陣は元気一《いつ》杯《ぱい》。隆志と成屋一郎の二人の男性は、くたびれはてて、半ば眠っている状《じよう》態《たい》で朝食を取ったのである。
「——早く出て、家に寄らなきゃ」
と、添子が言った。「学校にこれじゃ行けないもんね」
「俺だってそうだ」
隆志は、コーヒーをガブ飲みして、「しかも今日《きよう》はテストだぞ」
「でも、私、ゆうべ決心したの」
と、詩織が言った。「啓子さんの気持、いじらしいじゃない。父がヤクザだという宿命を負って生れて来た啓子さんが、幼《おさな》い命を抱《だ》いて、決死の逃《とう》避《ひ》行《こう》! 私、断然啓子さんを守ってやるわ!」
「簡《かん》単《たん》に言うけどさ——」
と、添子が不安げに、「かなり危《あぶな》いんじゃない、そのバイト?」
「命にかえても、守って見せる」
と、詩織が断言する。
「だけど、詩織、お前そんな義理、ないんだぜ、あの娘《こ》に。お前が命落としたら、どうすんだよ」
と、隆志が言うと、詩織は、ちょっと不思議そうに、
「あら、どうして私が命落とすの?」
「だって、お前、今『命にかえても』って——」
「私の命、なんて言ってないわ。もちろん隆志の命よ」
隆志が椅《い》子《す》ごと後ろへ引っくり返ったのは、無理もないことだった……。
ともかく——あれだけの事件があった割には、いつもより早く、詩織は学校へ行くべく、家を出ることになったのである。もちろん、隆志と添子も一《いつ》緒《しよ》だ。
「行ってきます」
と、詩織は、ドアを開《あ》けようとして、「——あれ? 開かないよ」
「鍵《かぎ》、かけたままじゃないのか?」
「あけたわよ。このドア——外開きなのに。変ねえ」
「俺《おれ》が押《お》すよ」
隆志が、エイッと両手でドアを押すと、
「ワアッ!」
と、表で声がして、ドアが開いた。
「——まあ」
と、詩織が目を丸くした。
玄《げん》関《かん》先に転《ころ》がっていたのは——いや、やっとこ起き上ろうとしていたが——花八木刑事だったのである。
「何してるんです?」
「監《かん》視《し》だよ」
花八木は、立ち上ると、伸《の》びをして、「君は警《けい》察《さつ》に対し、隠《かく》しごとをしている。従って怪《あや》しい人物だからな。目を離《はな》さないことにしたのだ」
「怪しいって、私が?」
「もちろんだ。これから私は君をずっと監視する。それがいやなら、何もかもしゃべりたまえ」
詩織は頭に来た。——涙《なみだ》もろいということは、感情に左右されやすく、従って、怒《おこ》りっぽいということでもある。
「じゃ、どうぞご勝手に!」
と言い捨《す》てて、さっさと歩き出した。
「おい、詩織!」
隆志と添子があわてて追って来る。
「——詩織! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》、あんなこと言っちゃって?」
「平気よ。徹《てつ》底《てい》的に無視しちゃうから」
と、詩織はカンカンである。
「だけど、相手は刑事だぜ」
「それが何よ! 刑事が怖《こわ》くてソーセージが食えるか!」
「関係ないんじゃないか?」
——ともかく、三人は足早に朝の道を辿《たど》って行く。
それからほんの数メートル遅《おく》れて、花八木が。そして、さらに十メートルほど後から、もう一人の尾《び》行《こう》者《しや》が——いや、もう一匹と言うべきか。
それは、ゆうべ成屋家にやって来た種田の犬だった……。