教室内は、異様な雰《ふん》囲《い》気《き》だった。
といって、校内暴力、教師と生徒の乱《らん》闘《とう》、対立、といった事《じ》態《たい》が起っているとか、起りそうというわけではない。
ただ——教室内に異質なものが紛《まぎ》れ込《こ》んでいたのだった。
エヘンと咳《せき》払《ばら》いをして、
「ああ——その、本日は、ちょっとした事情から、授業参観の方がおりますが」
と、教師が言った。「ま、みんなあまり気にしないように」
気にするな、って言われても……。
何しろ、女子校の教室の一番後ろに、ドッカと頭の禿《は》げ上った中年男が座《すわ》り込んでいるのだから、気にするなという方が無理である。
詩《し》織《おり》はもう沸《ふつ》騰《とう》寸前。——もちろん、教室の後ろの方に陣《じん》取《ど》っているのは、花《はな》八《や》木《ぎ》刑事なのだ。
詩織を監《かん》視《し》すべく、学校の教室にまで押《お》しかけて来た、というわけだった。
詩織が頭に来るのも当然であろう。
やたらむかっ腹《ぱら》を立てているときの詩織には誰《だれ》もかなわない。
「ええと」
四時間目、英文法の教師は、若くてナヨナヨした感じの男の先生だったが、「じゃ、この部分、主語と目的語を入れかえて、文章を作ってみましょう。——成《なる》屋《や》君」
みんなが一《いつ》斉《せい》に詩織を見た。詩織は、一分間にほぼ五回の割で、花八木の方を振《ふ》り返ってにらんでいた。
その内には、振り返っても見えなくなっているんじゃないか、と期待していたのだが、どうも花八木の神経も、そう繊《せん》細《さい》にはできていないらしい。
「成屋君。——成屋君は?」
と、先生の呼《よ》ぶ声、耳にはもちろん入っていた。
しかし、詩織はカッカしていたのである。何も悪いことしてないのに、どうして刑事に監視されてなきゃいけないのよ!
そして、怒《おこ》るとなると、もう詩織の怒《いか》りは、あらゆるものへ向けられるのである。
「成屋君」
と、もう一度先生に呼ばれると、詩織の怒りは頂点に達した。
どうして私があてられなきゃいけないの?
何も悪いことなんかしてないのに!
もう、理《り》屈《くつ》じゃないのである。
詩織は、椅《い》子《す》をけってパッと立ち上ると、
「はーい!」
と、馬《ば》鹿《か》でかい声を出した。「何ですか、先生!」
教師の方は、たじたじとなって、
「あ、あの——」
「呼《よ》んだんでしょ! 呼んだからにゃ、何か用があったんでしょ! だったら言いなさいよ! 何だってのよ!」
段々声のボリュームと周波数は上り続け、クラス中の子が唖《あ》然《ぜん》として、詩織を見つめていた。
「い、いや結構です」
と、教師はなだめるように、「どうぞ——お座《すわ》り下さい、はい」
「用もないのに、気安く呼ばないでください!」
「すみません」
と、教師の方が謝《あやま》っている。
ところで、詩織のいる教室は、校舎の二階。窓《まど》からは、町《まち》中《なか》のこととて、大して広いとも言えない校庭が見《み》下《お》ろせる。
詩織は窓《まど》際《ぎわ》の席ではないので、座っていたのでは校庭に目が行かないのだが、今、立ち上って、座ろうとした拍《ひよう》子《し》に、ふと校庭に目をやると——。
誰《だれ》かが詩織の方に手を振《ふ》っている。
「あ!」
と、思わず詩織は声を上げた。
校庭に立って、校舎の方をニコニコしながら見上げているのは、あの啓子だったのである。
花八木も、さすがに刑事で、その詩織の声でハッと立ち上ると、
「何だ!」
と、窓際へと駆《か》け寄った。
詩織は、窓の方へ駆《か》けて行くと、
「啓《けい》子《こ》さん! 逃《に》げて!」
と、怒《ど》鳴《な》った。
「待て!」
と、花八木が怒鳴った。「警《けい》察《さつ》の者だ!」
「逃げて!」
「待て!」
並《なら》んだ窓から交《こう》互《ご》に怒鳴っているのだから、下にいる啓子の方が呆《あつ》気《け》に取られるのも、無理はない。
と——詩織は、大きな外車が、校庭へ乗り入れて来たのに気付いた。あの車は、確か……。
「種《たね》田《だ》よ!」
と、詩織が怒鳴った。「逃げて!」
啓子もハッと振り向く。
外車は、校庭を一気に突《つ》っ切って来た。
走り出した啓子を、急ハンドルを切って追いかける。
校庭は、時ならぬ追いかけっこの場となってしまった。
「危《あぶな》い!」
詩織は、とてもじっとしていられなかった。
「エイッ!」
とかけ声をかけると、窓から外へ飛び出した。
いや、スーパーマンじゃないから、飛び出したといっても、いったん両手で、窓のへりからぶら下り、手を離《はな》したのである。
ちょうど真下に、種田の車が——。
ドン、という鈍《にぶ》い音と共に、詩織は車の屋根にバウンドして、転《ころが》り落ちた。
幸い、足も痛《いた》めていない。すぐに立ち上って、啓子の方へ、
「校舎の中へ!」
と叫《さけ》んだ。「通り抜《ぬ》けるのよ! ついて来て!」
「分《わか》ったわ!」
啓子が詩織の指す方向へと走り出す。二人が校舎へ駆《か》け込《こ》むと、
「おい! 待て!」
花八木が、やっと詩織の後を追うために、窓のへりに腰《こし》をおろし、飛びおりようとしていた。
「何してんの、早く行けば?」
と、そこを添《そえ》子《こ》が突《つ》いたから、
「ワーッ!」
と悲《ひ》鳴《めい》を上げつつ、花八木は落っこちた。
ゴーン、という変な音がした。
また種田の車が下にいて、花八木はその屋根へ、頭から落っこちたのである。
いかに丈《じよう》夫《ぶ》な車でも、花八木の石頭にはかなわなかったらしく、屋根はペコンとへこんでしまった。
その代り、花八木も、もちろん気絶してしまったのだが。
「——花《はな》子《こ》が?」
啓子は、詩織の話に青ざめた。
「そうなの。—— 申し訳ないわ」
詩織の涙《るい》腺《せん》は、早くも活動の準備を始めていた。
二人して、学校の裏《うら》手《て》から、細い道を右へ左へと駆け抜けて——その辺は、詩織、お手のものである。
やっと、もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》、という所まで来たのだったが……。
「あなたに頼《たの》まれながら、こんなことになってしまって……」
と、詩織が、今正《まさ》にワーッと泣《な》き出そうとしたとき、
「大丈夫!」
と、啓子が、元気のいい声を出した。
「——え?」
「花子が、もし種田たちに連《つ》れられて行ったのなら、私をあんな風に追い回す必要ないわけだし、それに花子は運の強い子なの」
「そう?」
「大丈夫! きっと元気にやってるわ」
啓子はポンと詩織の肩《かた》を叩《たた》いた。「ね、あなたも泣かないで、元気出して」
「ありがとう……」
どうも妙《みよう》な具合である。
「それより、あなたのお宅《たく》に、すっかりご迷《めい》惑《わく》かけちゃったわね。ごめんなさい」
「いいのよ、そんなこと」
と、詩織は言った。「でも、啓子さん、あなた、今、どこにいるの?」
「友だちの所なの。まだ、色々やらなきゃいけないことが残ってて」
「やらなきゃいけないこと?」
「うん」
と、啓子は肯《うなず》いて、「二、三人、殺さなきゃいけないのよね」
と言った。
詩織は、ただ目をパチクリさせて、
「じゃ、また」
と、手を振《ふ》って立ち去って行く啓子を見送っていたのだった……。