私は一体何をしたのかしら?
詩《し》織《おり》は自分へ問いかけていた。——私は正しいことをしたはずだ。
そう。啓《けい》子《こ》をかくまったことだって、種《たね》田《だ》の正体を見破ったことだって、そして啓子を連《つ》れて種田の追《つい》跡《せき》から逃《に》げたことだって。
それなのに——それなのに、この空《むな》しさは何だろう?
この、お腹の中の空しさは……。
「あ、そうか。お弁当、食べてなかったんだ」
詩織は、ついに、「答え」を発見したのだった。
「——でもさ、詩織」
と、添《そえ》子《こ》が一《いつ》緒《しよ》にお弁当を食べながら言った。「その、啓子って子の言った、『二、三人殺さなきゃ』って、どういうこと?」
「しっ!」
と、詩織は、鋭《するど》い目で後ろを振《ふ》り返った。
教室の中には、異様な匂《にお》いが立ちこめていた。——いや、異様といっても、至ってなじみの深い匂いである。
花《はな》八《や》木《ぎ》刑事が、教室の一番後ろに、まだ陣《じん》取《ど》っていて、出前のラーメンを食べているところだったのだ。
「あの刑事さんも、よく頑《がん》張《ば》るわね」
と、添子が笑いをかみ殺しながら、「頭にあんなコブ作ってまで……」
花八木は、種田の車の屋根に頭から落下して、みごとなコブを作っていた。そこでグルグル巻《ま》きに包《ほう》帯《たい》で頭を巻いて、翌《よく》日《じつ》、再び教室へ現れたのである。
「車の方はどうしたのかしら?」
と、添子は言った。「屋根、へこんでたじゃない」
「きっと包帯巻いてんじゃない?」
と、詩織は言った。
「でも、啓子って子、誰《だれ》を殺すの?」
「聞いてないわよ」
「分《わか》んないわねえ。ヤクザの手から逃《に》げて来て、どうして人を——」
「私が知ってるわけないでしょ」
と、詩織も少々不《ふ》機《き》嫌《げん》である。「きっと、見かけによらず、殺《さつ》人《じん》鬼《き》なのかもしれないわ」
「殺人鬼?」
「満月の夜になると、オオカミに変身して、美女——いえ美男を襲《おそ》うのかも」
「まさか!」
「ともかく、分《わか》んないの」
詩織も、実は不安だった。
命をかけて守ってやろうという相手が殺《さつ》人《じん》狂《きよう》、というのでは、少々空《むな》しい話である。
「——やれやれ」
ラーメンを食べ終った花八木が、立ち上って、器を出しに教室を出て行った。
「何か、ああいう後ろ姿《すがた》って、侘《わび》しいわね」
と、添子はしみじみと言った。「あの人だって、昔からああだったわけじゃないでしょうに」
「そりゃそうでしょ」
小学生のころから、あんな風だったら、気味が悪い。
「人間、疲《つか》れて来るのね、あれぐらいの年《と》齢《し》になると……」
添子は、すっかり考え込《こ》んでしまっている。
詩織は、お弁当を食べ終って、席を立った。
——花八木は、どこかでタバコでもすっているのだろう。
午前中の授業のとき、タバコに火をつけて、
「灰《はい》皿《ざら》はないのか」
とやったので、教室中が大《おお》騒《さわ》ぎになってしまった。
結局、タバコをすうなら、廊《ろう》下《か》へ出てくれということになったのである。
詩織は、校庭に出て、ウーンと伸《の》びをした。
校庭に出て遊んでいる子は、あまりいない。
大体が、ぶらぶら歩くぐらいの広さしかないのだ。で、詩織も、ぶらぶら歩くことにした。
「ワン」
「何よ、添子」
と、詩織は振《ふ》り向いたが——添子の姿《すがた》はなかった。
考えてみれば、添子がなぜ「ワン」と鳴くのだろうか?
「ワン」
足下へ目をやると、犬が一《いつ》匹《ぴき》、詩織を見上げていた。
「あ、お前——」
と、詩織は目をみはった。「種田の犬じゃないの。スパイしに来たのね? そうでしょう! 白状しろ!」
そんなこと言っても無理ですよ、とでもいう顔で、犬は、また、
「ワン」
と鳴いた。
「たまには『ツー』とか『スリー』とか鳴いたら?」
犬が、トコトコ歩き出し、ちょっと振《ふ》り向く。——どうやら、ついて来い、と言いたいらしい。
「私に用?——怪《あや》しいな」
「ワン!」
「だって、お前は、種田の犬じゃないの」
しかし、犬の方は、詩織の不信の念など一向に構うことなく、またトコトコと歩いて振り向く。
「分《わか》ったわよ」
と、詩織は肩《かた》をすくめた。「ついてきゃいいんでしょ」
犬は、学校の裏《うら》門《もん》から外へ出た。
「休み時間に、勝手に外へ出ちゃいけないんだぞ」
と言いながら、もちろん詩織は外へ出る。
「——どこへ行くのよ?」
犬は、詩織もあまり知らない道を辿《たど》って行く。—— 少々不安になって来る。
一人で来るんじゃなかった、と、チラッと考えたが、しかし、ここまで来て、引き返すわけにもいかない……。
「ワン!」
犬が、足を止めて、急に鳴いた。
「どうかしたの?」
——ちょっと寂《さび》しい場所、といっても、こんな町の中に、人里離《はな》れた林があるわけもなく、そこは鉄骨の林——建設中のビルの工事現場だった。
工事が中断されているのか、働いている人の姿《すがた》はない。
こんな所に、何の用で呼《よ》び出したんだろう? 詩織は、充《じゆう》分《ぶん》に用心して、歩いて行った。
犬は、その工事現場の奥《おく》の方へと入って行くのである。
「ちょっと!——ねえ、どこに行くのよ!」
何しろ足下が危《あぶな》くて仕方ないのだ。やたらに鉄材やら木の折れたのが転《ころが》っていて、下を見て歩かないとつまずいてしまいそうだ。
「ねえ、こら、犬!」
何か名前はあるのだろうが、その犬が見えなくなってしまった。
「どこなの? 一声、『ワン』とやってよ」
詩織は、足を止めた。
あの音は? 何だろう?
ギリギリ……。何だか、特大の歯ぎしりみたいな音が、頭上から聞こえて来た。
鉄骨が三階ぐらいまで組んであり、その上から、何かが降《お》りて来た。
ゆっくり、ゆっくりと……。それは、人だった。
落ちないのは、何かにぶら下っているからで、どうやら、それは太い鎖《くさり》らしい。
詩織は、後ずさった。
あれ……。あれは……もしかして……。
ガクン、と鎖《くさり》が上った。
「——種田だわ」
と、詩織は呟《つぶや》いた。
種田だった。間《ま》違《ちが》いない。
鎖が体に巻《ま》きつけられて、逆さまにぶら下っているのだ。そして——種田は死んでいた。
赤いシャツを着ているのかと思ったが、そうではなく、血に染《そま》っているのだと分った。
殺されたのだ!
さすがに、詩織も、突《とつ》然《ぜん》のことでガタガタ震《ふる》え出した。
種田がなぜ? 誰《だれ》に殺されたのか?
詩織が、二メートルほどの所でぶら下って揺《ゆ》れている種田の死体を見上げて、身動きできずにいると、
「——何をしとる」
と声がした。
「キャーッ! お化《ば》け!」
詩織は飛び上った。
「私がどうしてお化けだ!」
花八木だった。「ちゃんと尾《び》行《こう》して来たのだ。私の目を逃《のが》れられると思っているのか?」
「あ、あれ……」
「何だ? 人に振《ふ》り向かせて、その隙《すき》に逃《に》げようったって、そうはいかんぞ」
「見なさいよ!」
「何を?」
と、花八木は、詩織の指さす方へ目をやった。「誰だ、あそこで遊んどるのは? ふざけるのもいい加減に……」
「死体よ! 本物の!」
と、詩織は叫《さけ》んだ。「早く一一〇番!」
だが、花八木はその場にズデン、と引っくり返ってしまった。どうやら気を失ったらしい……。