「本当に……」
と、その女性は、涙《なみだ》ぐんでいた。「私が何をしたっていうの!」
「あんたの気持はよく分《わか》る」
と、花《はな》八《や》木《ぎ》刑事が慰《なぐさ》めている。「まあ、人生には色々なことがあるものだ。これもいい経験だと思って——」
これが、二《は》十《た》歳《ち》かそこらの女性に言って聞かせているのなら、まあ良かったのである。
だが、相手は加《か》藤《とう》啓《けい》子《こ》。——同じ「啓子」でも、詩織の家から姿《すがた》を消した啓子とは少々年《ねん》齢《れい》差《さ》があって、やがて六十歳《さい》になろうという、家庭科の教師だったのである。
つまり、慰めている花八木よりも年上なのだ。誰《だれ》だって、年下の人間から、
「これもいい経験だよ」
なんて慰められたら、いい気持はしないだろう。
この加藤先生も、やはり人間が出来ているとはいえ、プライド低からず、
「大きなお世話です!」
と、花八木をにらみつけて、ピシャリとやった。「私は充《じゆう》分《ぶん》に『いい経験』をして来ましたよ!」
ツン、として、行ってしまう。花八木は、ため息をつくと、
「全く、どうして人間というのは素直になれないものなのだろうか」
と、独《ひと》り言《ごと》を言った。
ギャハハ……。笑い声が、花八木の背《はい》後《ご》で上った。花八木がキッとなって振《ふ》り向くと、詩《し》織《おり》がピタッと口を閉《と》じて、あさっての方を向く。
「笑ったな!」
と、花八木が詩織をにらんだ。
「いいえ。空《そら》耳《みみ》でしょ」
「まあいい……。三《み》船《ふね》が、君の言ったことがでたらめだったと知って、どうするか、楽しみだな」
花八木は口《くち》笛《ぶえ》など吹《ふ》きながら、校庭を歩いて行く。
「—— 大人《おとな》げないわねえ、二人とも」
と、見ていた添《そえ》子《こ》が呆《あき》れている。
今日は一日、学校での授業が中止になったのである。
何しろ、寮《りよう》が叩《たた》き壊《こわ》されちゃったのだから、大変な騒《さわ》ぎだ。
寮《りよう》には、古くからこの学校にいる先生たちや、事務員、用務員、それに、遠方から入学している生徒も何人か入っていた。
「さぞびっくりしたろうね……」
と、添子は言った。
「うん」
と、詩織は肯《うなず》いた。
二人は、校庭を出て、学校の裏《うら》手《て》に回って行った。——そこには、寮が、今はただの木材の切れはしとなって、山をなしていた。
やっとブルドーザーやトラックがやって来て、片《かた》付《づ》けが始まっている。
数人の証言を総合すると、誰《だれ》やら男たちが加藤啓子の部屋のドアを、斧《おの》でぶち破って、中へ入った。そしてすぐに、「啓子違《ちが》い」だと分ったのだろう(一目見りゃ、分《わか》って当然だが)、顔を 真《まつ》赤《か》にして飛び出して来ると、次々に寮の部屋のドアを叩《たた》いて回り、全員が仰《ぎよう》天《てん》して起き出して来ると、
「十分以内にここから出ろ!」
と、命じたらしい。
一一〇番しようにも、予《あらかじ》め電話線は切られており、みんな仕方なく、貴重品を持って逃《に》げ出した。中には、家具まで運び出した怪《かい》力《りき》の者もいたらしい。
きっかり十分後、ガタガタと音がしたと思うと、いきなり、大きなクレーン車が現れ、その太いアームで、寮をぶっ壊《こわ》し始めたのである。——もともと、かなり老《ろう》朽《きゆう》化《か》していた木造の建物は、たちまち崩《ほう》壊《かい》した……。
「詩織……」
と、添子が、詩織の肩《かた》に手をかけた。「元気出しなよ」
「うん……。でもね、やっぱり——」
「お腹《なか》空《す》いてるのは、分《わか》るけどさ」
詩織は、添子をにらんで、
「誰《だれ》がお腹空いたなんて言った? 私はね、自分のせいで、寮が壊されたと思って、悩《なや》んでるのよ」
「でも、仕方ないじゃない。壊れちゃったものは元に戻《もど》らないんだし。それに、もう建て替《か》える時期だったもん」
「それもそうね」
詩織は、コロッと明るくなって、「じゃ、私、いいことをしたのかもしれないわね! 感謝状くれるかしら?」
「どうかしらね、それは……」
添子も、詩織の変りようには、なかなかついて行けなかった。
「——問題は、あの三船ってのが、どう出て来るかよ」
と、詩織は、校舎の方へと戻《もど》って行きながら、「うちも危《あぶな》いわね。寮《りよう》をぶっ壊《こわ》しちゃうぐらいだから、うちなんか」
「アッという間ね」
「変なこと、請《う》け合わないでよ」
と、詩織は顔をしかめた。
しかし、ともかくその日、学校から戻《もど》ってみても、詩織の家は、無事だった。
気が変ったのかしら? それとも、これから来るのか。
「——ただいま」
と、家へ上った詩織は、結構上《じよう》機《き》嫌《げん》であった。
別に、家が壊れていなかったから、というわけではない。花八木が、今日は昼ごろからいなくなってしまったのである。
「お帰りなさい」
と、母の智《とも》子《こ》が台所に立って言った。
「今日は、あのできそこないの刑事がいなかったの。いい気分だったわ」
と、詩織は言った。
「あら、そう」
「やっぱり、あの手の顔は、動物園にいるべきだわ。人間とは思えないもの」
「そう」
「でも、チンパンジーやオランウータンも、拒《きよ》否《ひ》するかもしれないわね。俺《おれ》たちを、こんな奴《やつ》と一《いつ》緒《しよ》にするな、って」
と言って、詩織はハハハ、と笑った。
「そうか?」
「そうよ」
他《ほか》の声だった。母の声にしては、いやに男っぽい声で——そう、あの「変な刑事」の声に似ていた……。
「あら」
詩織は、目の前に、当の変な刑事が立っているのに気付いた。「何してるんですか、こんな所で?」
「調査のために、やって来ると、君の母親が、夕食でもどうぞ、と強くすすめてくれたのだ。断るのも却《かえ》って失礼に当る、と思ってな」
花八木はニヤリと笑って、「人間とは思えないかもしれんが、一応、人間と同じエサを食べるのだよ」
「そうですか……。良かったですね」
花八木が居間へ戻《もど》って行くと、詩織は頭に来て、
「ママ! いるならいるって言ってくれりゃいいでしょ!」
「だって、お前が一人で、勝手にしゃべってるから……。いいじゃないの。人間、正直が一番だわ」
呑《のん》気《き》な母親なのだ。
——かくて夕食の席は、成《なる》屋《や》一家の三人と、それに犬、花八木の五人になった。
「この犬にも名前が必要ね」
と、詩織は、言った。「お前、何て呼《よ》ばれてたの?」
「ワン」
「ワンか。でも、『ワン』じゃ、お前を呼んでるとき、他《ほか》の人が変に思うでしょうね」
「じゃ、『犬』にしたら?」
と、母親。
「『ワン』がだめなら、『カン』とか『コン』とか……」
と、父親。
「『花』はどうだ」
と、花八木も加わる。
「もう! 真《ま》面《じ》目《め》にやってよ!」
と、詩織は頭へ来た。「大体、あんた刑事でしょ? 公務員でしょ?—— 人の家で勝手にご飯食べるなんて!」
「勝手ではない。私はこの家の守り神なのだ」
何だか薄《うす》汚《よご》れた守り神だ。
「どの辺が?」
「つまり、私がここにいれば、三船も手を出さない。さもなくば、この家はとっくにスクラップと化していただろう」
「あんたのほうがよほどスクラップ」
と、詩織が口の中で呟《つぶや》く。「——でも、あの桜《さくら》木《ぎ》っておじさんは、どうしてるの?」
「今、調査中だ」
と、花八木は胸《むね》を張った。「ここにいれば報告が——」
ガタガタと家が揺《ゆ》れた。
「地《じ》震《しん》よ!」
と、詩織は叫《さけ》んだ。