詩《し》織《おり》も、この物語のヒロインとして(ヒーローみたいだ、という声もあるが)、かなり勇《ゆう》敢《かん》で、少々のことでは、真《まつ》青《さお》になったりしないという性格にはできているが、しかし、何といってもうら若き、十七歳の乙《おと》女《め》である。
あら、女の子だったの?——こう訊《き》く読者がいたら、詩織にぶっとばされるのを覚《かく》悟《ご》しなくてはならない。
詩織にだって、怖《こわ》いものというのはある。たとえば数学。特に微《び》分《ぶん》積《せき》分《ぶん》、物理の法則類全般、ニンジン、雷《かみなり》、そして——地《じ》震《しん》。
突《とつ》然《ぜん》、家がガタガタ揺れ始めたので、詩織は青くなった。
「地震よ! 隠《かく》れて! 外へ飛び出しちゃいけないわ! 家の中にいたら潰《つぶ》される!」
「じゃどうしたらいいの?」
と、母親の方は至って落ちついている。
「だって、こんなに——」
と言っている内に、地震はピタリとおさまった。
詩織は、ああやれやれと息をついた。
「全くもう! 揺《ゆ》れるなら揺れるで、ちゃんと先に挨《あい》拶《さつ》ぐらいするものだわ」
と、無茶なことを言っている。
「——あら」
と、母の智《とも》子《こ》が言った。「あの刑事さんは?」
そういえば、花《はな》八《や》木《ぎ》の姿が見えない。
「どうしたのかしら?」
と、詩織は周囲を見回して、「地震で、地割れの中にでものみ込《こ》まれたのかしら?」
「家も壊れてないのに?」
と—— 食《しよく》卓《たく》の下から、 何やらモゾモゾと動くものがあった。
「キャッ!」
と、詩織は飛び上って、「お母さん! テーブルの下に! ゴキブリ!」
「こんなでかいゴキブリがいるか!」
と、その「ゴキブリ」は怒《ど》鳴《な》った。
もちろん、花八木である。
「何よ、だらしない!」
と、自分のことは棚《たな》に上げて、詩織は言った。「そんな所へ隠《かく》れて」
「隠れていたのではない。 —— 逃《に》げ道を捜《さが》していたのだ」
と、花八木は立ち上った。
詩織が、また何か言ってやろうとしたとき、
「——おい! どうだ!」
と、でかい声が玄《げん》関《かん》の方から聞こえた。
「あの声——三《み》船《ふね》だわ」
と、詩織が言った。
「面《おも》白《しろ》かったろう! 今度は家を逆さにしてやるぞ!」
詩織と母は顔を見合せた。——父親は?
もちろん、一《いつ》緒《しよ》にいたのだが、この詩人は、新しい詩の構想を練っているときは、何があってもだめなのである。
「じゃ、今の地《じ》震《しん》は?」
詩織は、あわてて、窓《まど》の方へと飛んで行った。「——ママ、見て!」
家の前の狭《せま》い道に、よく入ったと思うような、大きなクレーン車が停《とま》っていた。
三船が、ヒョイと窓の前に顔を出したので、詩織はあわてて後ろに退《さ》がった。
「——よう、よくも俺《おれ》たちを騙《だま》してくれたな、ええ?」
「あ、あの——」
「あの古ぼけた寮《りよう》の方は、中の奴《やつ》を逃《に》がしてからぶっ壊《こわ》してやった。しかしな、お前たちは別だ」
「じゃ、逃がさないで壊さない、ってこと? それなら助かるけど」
「半分だけ正解だ。一歩でも外へ出ようとすりゃ、撃《う》ち殺す」
「あ、そう」
「中で布《ふ》団《とん》にでもくるまってるんだな。今、俺《おれ》の手下が、この家の四《よ》隅《すみ》にロープをかけてる」
「まだ引《ひつ》越《こ》しの予定はないんだけど」
「なに、よそへ持ってきゃしねえ。これで逆さに引っくり返すだけだ」
三船はニヤリと笑った。「ま、ジェットコースターでも、こういう気分は味わえないぜ。楽しみにしてな」
さすがに詩織も焦《あせ》った。家が逆さにされたんじゃ、二階に行くのが大変だ!
「ちょっと!」
と、食堂へ駆《か》け込むと、「刑事さん! ほら、何とかしてよ! あんた、ここの守り神でしょ!」
「分《わか》っとる!」
花八木は、ぐっと胸《むね》をそらして、「すぐ一一〇番しよう」
と、電話の方へ駆《か》け寄った。
「もう、だらしない!」
と、詩織はかみつきそうな声を出したが、
「いや、勇《ゆう》敢《かん》と無《む》謀《ぼう》は別だ。——もしもし。——もしもし」
花八木は顔をしかめて、「何だ、この電話は? 料金を払《はら》っとらんのじゃないのか?」
「冗《じよう》談《だん》言わないで!」
詩織は、受話器を引ったくって、かけ直そうとしたが……。「だめだわ。全然、音がしない。——きっと電話線切られちゃったんだわ」
「そうか! こうなっては仕方ない」
花八木が、渋《しぶ》々《しぶ》覚《かく》悟《ご》を決めたのか、玄《げん》関《かん》の方へと出て行った。
「——困《こま》ったわね」
と、さすがに呑《のん》気《き》な智子も、不安げである。「そうと分ってりゃ、お掃《そう》除《じ》なんかするんじゃなかったわ」
父親の方は、じっと目を閉《と》じて、眠《ねむ》っているわけではないが、ともかく、いい詩が思い付きそうなのだった。
「お前ら! 神《しん》妙《みよう》にしろ!」
玄関の方で、花八木の声がした。「この警《けい》察《さつ》手帳が目に入らんか!」
——へえ、なかなかやるじゃないの、と詩織は思った。
相手の方も静かになったようだ。さすがに、刑事がいるのでは、今日は引き上げようということになったのだろう。
と——バン、バン、と弾《はじ》けるような音が続けざまに五、六回聞こえて、ドタバタと花八木が転《ころが》り込《こ》んで来た。
「撃《う》たれた! おい、手を貸してくれ!」
「ええ? どこを?」
「どこ? それは——」
と、花八木は起き上ると、「うむ。幸い当らなかったようだ」
と、息をついた。
「何よ、だらしがない! あなただって、ピストルぐらい持ってるんでしょ!」
「いや、これはめったなことでは使えんのだ」
「じゃ、どうするのよ!」
「うむ……。警察手帳も落として来てしまったし。——ここが思案のしどころだ」
「そんな呑《のん》気《き》なこと言ってる場合じゃないでしょ!」
「——おい! 用意ができたぜ!」
と、三船の声がした。「そのヘナチョコ刑事も一《いつ》緒《しよ》に逆立ちさせてやる!」
「逃《に》げなきゃ!」
こうなっては仕方ない。「ママ! パパ! それに——ほら、犬!」
「ワン」
「裏《うら》から庭へ出るのよ!」
と、詩織が叫《さけ》ぶ。
そのときだった。
ダダダダ……。短く途《と》切《ぎ》れた銃《じゆう》声《せい》が、表にひびきわたった。
「機《き》関《かん》銃《じゆう》じゃない?」
と、智子が言った。
「クレーンだけじゃ間に合わないのかしら?」
しかし——どうも妙《みよう》だった。
「ワーッ!」
「逃げろ!」
と、叫んでいるのは、どうやら三船らしい。
逃げる?——でも、どうして三船が?
しかし、ともかく、二、三分も騒《さわ》ぎが続いたと思うと、急に静かになってしまったのである。
「どうしたのかしら?」
と、詩織は母の顔を見た。
「私が知ってるわけないでしょ。あなた、見てらっしゃい」
と、冷たい母は言った!
が、詩織が出て行くまでもなかった。
誰《だれ》かが家の中へ入って来たのだ。そして、詩織が目を見開いている前に現れたのは——。
「ご無事でしたか」
真《まつ》白《しろ》な三つ揃《ぞろ》いのスーツ、スラリと長身の色白な青年が、機関銃を片手に下げて、現れると、そう言って、サングラスを外《はず》した。
「はあ……」
詩織は、ポカンとして、その青年を眺《なが》めていた。——きりっとした顔立ちの二《に》枚《まい》目《め》。
きれいになでつけた髪《かみ》。まるで、少し昔のギャング映《えい》画《が》から脱《ぬ》け出して来たような青年だった。