「ビルの最上階にねえ……」
と、聞いていた隆《たか》志《し》が首をかしげた。「ビルの地下道に寝《ね》転《ころが》ってるっていうのなら、分《わか》らないでもないけど」
「それじゃ、まるで浮《ふ》浪《ろう》者《しや》じゃないの」
と詩《し》織《おり》が言った。「ともかく、受付の人がああ言ってるんだから」
花《はな》八《や》木《ぎ》は、受《うけ》付《つけ》嬢《じよう》の言葉に、
「分った」
と、肯《うなず》いた。「最上階ということは、一番上の階だな」
当り前のことを訊《き》いているので、受付嬢は必死で笑いをかみ殺している。
「さようでございます」
「さようか」
花八木は、気取ってエレベーターの方へ歩き出した。すると、受付嬢が、
「あの、お客様」
と、呼び止める。「そちらのエレベーターでは最上階へはまいりませんが」
「何だと?」
花八木は顔色を変えた。「では、階段で上れと言うのか? いくら丈《じよう》夫《ぶ》に見えるからといって、馬《ば》鹿《か》にすると逮《たい》捕《ほ》するぞ!」
もう、いや!——詩織はたまりかねて、花八木をエイッと押《お》しやると、自分で受付嬢に訊《き》いた。
「あの、 その方は—— 竜《りゆう》崎《ざき》幸《さち》子《こ》さんという方は、どういう方なんですか?」
「このビルのオーナーでございます」
「そりゃ、女だってことは分ってるけど」
と、隆志が言って、詩織に足をけとばされた。「イテテ……」
「オーナーって、持主なんですか」
「はい。この他《ほか》にも、現在二十ほどのビルをお持ちで……」
「二十!」
「この最上階をご自《じ》宅《たく》兼、事務所になさっておられます」
「はあ……」
「直通のエレベーターが、その扉《とびら》の奥《おく》にございます。降《お》りられましたら、受付がございますので」
「分りました。どうもありがとう」
と、詩織は頭を下げた。「じゃ、行きましょ。——あら、あの刑事さんは?」
花八木は、詩織に押《お》しのけられた弾《はず》みでまた足を滑《すべ》らし、引っくり返って、やっと起き上ったところだった。詩織は、見ないふりをして、さっさと歩き出した。
「——凄《すご》い」
応接室へ通された三人は、どっしりとした調度類に、思わずため息をついた。
待つほどもなく、コーヒーが出る。 —— 上品なカップだ。
「見て! ウエッジウッド」
と、詩織は、受け皿《ざら》を引っくり返して見て言った。
「フン、私の所のカップも、似たようなものだ」
と、花八木が言った。「ちゃんとコーヒーを注《つ》いでも、洩《も》れない」
「当り前でしょ」
——ともかく、香《かお》りの高いコーヒーを味わっていると、ドアが開《あ》いた。
「お待たせしちゃって、ごめんなさい」
かなり(というのも控《ひか》え目な表現だが)太った、おばさんタイプの女性が、ドサッとソファに腰《こし》をおろした。
着ているスーツは、確かに高級品だろう。しかも、サイズは特大に違《ちが》いなかった。さぞ布地を沢《たく》山《さん》使っただろう、と詩織は考えていた。
「あんたが——『お竜《りゆう》』か?」
と、花八木が少々戸《と》惑《まど》い気味に言うと、
「お竜とは——また懐《なつか》しい呼《よ》び方をしてくれるわね!」
と、ワッハッハと豪《ごう》快《かい》に笑う。
体格のせいもあるのか、応接室の空気がビリビリ震《ふる》えるような声量だった。
「そう。以前は『お竜』と呼ばれてたわ。もう十五年も昔だけどね。あんた、鼻紙さんだっけ?」
「花八木だ!」
と、顔を真《まつ》赤《か》にして、言う。
「刑事さん? 何のご用かしら。この十年間は、後ろ指さされるようなことは、やっちゃいないわよ」
「そういうことじゃないんです」
と、詩織が言った。「桜《さくら》木《ぎ》さんって方、ご存知ですか?」
「桜木?——もちろん!」
竜崎幸子の顔が、急に輝《かがや》いたように見えた。迫《はく》力《りよく》はあるが、その笑《え》顔《がお》の人なつっこさに、詩織は何となく嬉《うれ》しくなった。
「桜木さんは、私の恩人よ。あの人がいなかったら、今の私はなかったんだから」
「桜木がここへ来なかったか?」
と、花八木が言うと、竜崎幸子が、キッとにらみつける。
「桜木、なんて呼《よ》び捨《す》てにすると承知しないよ!」
と、花八木を叱《しか》りつけておいて、「桜木さんが、どうしてこんな所へ来るの?」
と、詩織の方へ訊《き》く。
「実は——」
と、詩織がそれまでのいきさつを手短に説明する(もっとも、あまりに複雑で、手短でも一時間近くかかった)。
「——そうだったの」
と、竜崎幸子は、真剣な顔で肯《うなず》いた。「あの人が東京に……。じゃ、今は保釈の身で?」
「そうだ」
と、花八木が肯《うなず》く。
「あんたにゃ訊《き》いてないわよ。——詩織さん、だっけ?」
「はい」
「桜木さんは、きっと、よほどのことがない限り、私の所へは来ないわ」
「どうしてですか?」
「足を洗った人間を巻《ま》き込《こ》んだりするのは、あの人の一番いやがることだったからね。まあ、でも、他《ほか》にどうしても行くところがなくなったら、ここへ来るかもしれないよ」
「もし、来たら……どうします?」
竜崎幸子はニヤリと笑って、
「そりゃ、全財産放り出しても、あの人を助けるわ!」
と、言った。
詩織はすっかり嬉《うれ》しくなってしまった。
「私も、あのおじさん、いい人だと思ってるんです。ちょっと一《いつ》緒《しよ》にいただけですけど、よく分《わか》ります」
「そう! あんた話せるね! どう? うちへ来て働かない?」
「喜んで!」
と、詩織が調子に乗るのを、隆《たか》志《し》があわてて、
「お前、高校生だよ」
と、引き戻《もど》す。
「じゃ、もし桜木さんから連絡があったら、教えて下さい」
と、詩織が電話番号をメモして渡《わた》す。
「分ったわ。必ず、あんたに連絡するから」
「お願いします!」
「一度、ご飯でも一緒に食べようよ! そっちの彼氏も一緒にさ」
彼氏とは、もちろん隆志のことである。
詩織と隆志は、エレベーターの前に来て、
「——すてきな人ねえ。人生の楽も苦も知り尽《つ》くしてるって感じだわ」
「うん、ああいうおばさんっていいなあ」
「あら。——あの刑事さんは?」
「ここだ」
二人の後ろに、花八木がふてくされた様子で立っている。 —— 完全に無視されて頭に来ていたのだ。
詩織が家へ帰ると、母親の智《とも》子《こ》が、
「あら、お帰りなさい」
と、台所から顔を出した。「ねえ詩織」
「なあに?」
「電話があったわよ。ええと——まさかりかついだ金《きん》太《た》郎《ろう》——」
と、突《とつ》然《ぜん》智子が歌い出したので、詩織は、焦《あせ》った。
「ママ! しっかりして! まだ私は学生の身よ! ママの面《めん》倒《どう》をみられないわ!」
「何を騒《さわ》いでるの。ほら、緑《みどり》小《こう》路《じ》金太郎さんから電話があったのよ」
詩織はホッとして、
「だったら、どうして歌なんか歌うのよ!」
「忘《わす》れないようにと思って、さっきから歌ってたのよ」
そこへ電話が鳴り出す。
「——はい、成《なる》屋《や》です」
と、詩織が出ると、
「やあ、緑小路だよ」
と、キザな声が聞こえて来る。「啓《けい》子《こ》とは連絡がついたかい?」
「ええ、でも……」
「実は、彼女に、急いで伝えてほしいことがあるんだ。大切なことだ。人の命に——」
「命に?」
と訊《き》き返したときだった。
ダダダ……。短い連続音が、電話から飛び出して来た。銃《じゆう》声《せい》か? 詩織は受話器を握《にぎ》りしめた。