詩《し》織《おり》は、啓子が〈女《おんな》吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》〉の役をやっているお化《ば》け屋《や》敷《しき》から、やっと花《はな》八《や》木《ぎ》刑事を引っ張り出した。
「ああ怖《こわ》かった! ねえ、刑事さん」
と、少しオーバーに花八木にもたれかかって見せたりして、「もう二度とこんな所、来たくないわ」
「何だ、さっきは大好きなようなこと、言ってたじゃないか」
「そ、そうでした?」
「怪《あや》しいぞ。さては、ここから私を引き離《はな》す気だな」
花八木の言葉に、詩織はドキッとした。
「そんなの、考え過ぎです!」
「あわてるところを見ると、ますます怪しい。——そうか! 読めたぞ!」
花八木は、ちょっと見《み》得《え》を切って、「問題の娘《むすめ》が、このお化け屋敷でアルバイトをやっているのだな? たぶん、お岩《いわ》さんとか女吸血鬼とか」
これには詩織も焦《あせ》った。まさか花八木のカンが、ここまで鋭《するど》いとは、思ってもみなかったのだ。
どうしよう? 花八木をのして気絶させ、スルメにするか——いや、イカじゃなかったんだ。啓子が逃《に》げのびるまで、何とか花八木を引き止めなくては。
場合によっては、殺してでも——なんて、詩織が物《ぶつ》騒《そう》なことを考えていると、花八木がワハハ、と笑って、
「そんなことがあるわけがないな。それじゃまるで小説だ。おい、どこかで何か食おう。腹《はら》が減った」
詩織はホッとしながらガックリ来た。ま、花八木に関する認識を改める必要がなかったというのは、結構なことである。
さっき、お昼をたっぷり食べたばかりじゃないの、と思ったが、ここは素直に、
「そうね。私もそう思ってたんです」
と言った。
詩織たちは、ホットドッグやコーヒーを売っているカウンターの方へとやって来た。
「ここは私が払《はら》おう」
と、花八木が珍《めずら》しいことを言い出した。
「でも——」
「心配するな」
と、花八木は胸《むね》を張って、「さあ、いくつでも食べていいぞ」
いくつでも、ったってね……。ホットドッグやらハンバーガーを、二つも三つも食べられやしない。
「私、飲物だけでいいです」
と、詩織は言った。「ともかく、列に並《なら》ばないと」
「うむ。では私にホットドッグを二つとコーラを買って来てくれ」
何よ、要するに人に並んで買わせよう、ってんじゃないの!——飲物一《いつ》杯《ぱい》じゃ合わないわ。
そうグチりつつ、詩織は列の後ろについた。何しろ凄《すご》い人出なので、カウンターの前も長《ちよう》蛇《だ》の列——というのは少々オーバーかもしれないが、まあ十分や十五分は待たされそうだった。
「ええと……何にしようかな」
珍しく花八木がおごるというのだから、できるだけ高いものにしてやろう、と思った。
しかし——渡《わた》されたのは千《せん》円《えん》札《さつ》一《いち》枚《まい》で、花八木のホットドッグとコーラの分を引くと、結局、詩織の分はコーラかアイスコーヒーぐらいしか買えない計算になるのだった。
ま、いいや。
それにしても——花八木と一《いつ》旦《たん》はここを出なきゃ。そして、ここが閉《し》まってから、もう一度、啓子と話をするのだ。
啓子が一体誰《だれ》を殺そうとしているのか。詩織は不安だった。
そうだわ、こんな所に呑《のん》気《き》に並《なら》んでる場合じゃない! でも、並んでるんだけど……。
あと三人くらいで、順番が回って来る、という時だった。
「おい、アイスコーヒー七つ!」
と、突《とつ》然《ぜん》前の方へ割り込んだ男がいる。
「ちょっと! 並んでくれよ」
と、ヒョロリとした学生らしい男の子が文句を言うと、
「うるせえ!」
白いスーツのその「割り込み男」がジロッとにらんで、「文句があるのか!」
と、凄《すご》んだ。
「い、いえ——どうぞ」
男の子が、二、三歩後ずさりする。
それも無理はないので、何しろ相手は見るからにおっかないヤクザである。しかし……。どこかで見たような、と詩織は首をかしげた。
「早くしろ! 親分が待っておいでなんだ!」
せかされて、カウンターの中のバイトの女の子も、焦《あせ》っている。
詩織は周囲を見回した。——と、まぶしく光を反《はん》射《しや》しているもの……。
「あ!」
反射していたのは、白いスーツの丸《まる》坊《ぼう》主《ず》だった。
三《み》船《ふね》だ! 詩織の所へ押《お》しかけて来て家具を壊《こわ》し、家を引っくり返そうとした連中である。
あの時は、手下も三人だけだったが、今日《きよう》は、ズラリ五人も揃《そろ》えている。いや、今、アイスコーヒーを買っているのを加えると六人だ。
「おい、盆《ぼん》にのせろ!」
七つも手で持てるわけがない。
「あの……お盆、ないんですけど」
と、バイトの女の子が言うと、
「じゃ、お前が一《いつ》緒《しよ》に運んで来い」
「は、はい……」
可《か》哀《わい》そうに!——詩織は震《ふる》え上っているその女の子を見て、つい同情してしまった。
同情すると、後先も考えずに行動するのが詩織のくせである。
「私、持ってあげるわ」
と、進み出た。
「ほう、感心だな」
と、男が言った。「よし、俺《おれ》が二つ持つから、お前、五つ持て」
そんな不公平な!——しかし、意地になった詩織は、両手でアイスコーヒーの紙コップを五つ、ギュッと挟《はさ》むようにして持つと、男の後をついて行った。
三船は、木かげのベンチにドカッと腰《こし》をおろしている。
「——親分、アイスコーヒーです」
「遅《おそ》いじゃねえか! 早くよこせ」
「はい」
詩織は、三船の方へ、紙コップを一つ差し出そうとしたが……。五つも持っていて、その内の一つを差し出すというのは、非常にむずかしいのである。
おっとっと……。
ツルッ、と手がすべった。アッと思った時には、アイスコーヒーの紙コップは次々に詩織の手の中から飛び出して——もろに三船の頭からコーヒーが降《ふ》り注《そそ》いだのである。
——やばい! 詩織は、青ざめた。
三船は、ツルツルの頭を、さらに光らせて、じっと座《すわ》っていた。
「——あ、こいつ!」
と、子分の一人が詩織に気付いた。「あの家の小《こ》娘《むすめ》だ!」
「そうか……」
三船がギュッと拳《こぶし》を固める。「——いい度《ど》胸《きよう》だな」
「あ、あの——ごめんなさい」
詩織としても、相手はともかく、コーヒーを頭からかけてしまったことは反省していたのである。
「わざとやったとしか思えねえな」
気が付くと、三船の子分たちが、グルッと詩織を取り囲んでいる。さすがに詩織も焦《あせ》った。
花八木は? すぐそばにいるはずなのに!
「私に何かしたら、すぐ近くに刑事さんがいるのよ!」
と、詩織が言った。
「そうか。じゃ、呼《よ》んでみろ」
「刑事さん! 花八木さん!」
と、詩織は叫《さけ》んだ。
たちまち花八木が駆《か》けつけて——は来なかった。なぜか、一向に返事がない。
「どうやら、風をくらって逃《に》げたらしいぜ」
と、子分の一人が笑った。
もう! 肝《かん》心《じん》の時になるといないんだから!
「このスーツ、どうしてくれる?」
と、三船が言った。
白いスーツが、コーヒーの色で、ぶちの犬みたいになっちゃっているのだ。
「クリーニングに出せば、落ちると思いますけど」
と、詩織は言った。
「面《おも》白《しろ》い。お前も一《いつ》緒《しよ》に洗《せん》濯《たく》機《き》に放り込んでやろうか。おい、こいつをひねっちまえ」
簡《かん》単《たん》にひねられてたまるか!
詩織は思い切って、正面の三船に体当りした。