ここで詩《し》織《おり》が大《だい》活《かつ》躍《やく》、たちまち三《み》船《ふね》とその六人の子分をのしてしまった、と来れば、お話の方は簡《かん》単《たん》だが、いくら小説でもそこまで都合良くはいかない。
詩織は別に空《から》手《て》の有段者でも、柔《じゆう》道《どう》の黒帯でもないのだ。
ま、「空手」よりは「空《くう》腹《ふく》」、「黒帯」よりは「腹帯」の方に縁《えん》がある(小さいころ、よくオヘソを出して寝《ね》ていて、お腹《なか》をこわしたので)。が、これじゃ、敵をやっつけるわけにいかない。
「エイッ!」
と、三船に体当りした詩織、そこは体重の差で、ドン、とはね返されてしまった。
「キャッ!」
と、悲《ひ》鳴《めい》を上げて、尻《しり》もちをつく。
「勇ましいこった」
と、三船は笑った。「おい、せっかくこんだけ見物人が大勢いるんだ。裸《はだか》にひんむいてサービスしてやれ」
「な、何よ! お巡《まわ》りさんが来るわよ!」
詩織が強がっても、首ねっこをつかまれてギュッと引っ張り上げられると、首の辺《あた》りが苦しくなって、目を白黒。
哀《あわ》れ、ここで詩織も一《いつ》巻《かん》の終り——かと思うと——。
ゴーン……。
季節外《はず》れの除夜の鐘《かね》みたいな音がしたと思うと、詩織の体がまた重力に任された。つまり、落下した。
「逃《に》げるんだ!」
ぐい、と手首をつかまれる。——隆《たか》志《し》だった!
子分の一人が、ウーンと唸《うな》り声を上げて引っくり返る。
隆志が、その辺の屑《くず》入《い》れ(鉄の大きな缶《かん》みたいなものである)で、ぶん殴《なぐ》ったのだ。
詩織は、あわてて立ち上ると、引っ張られて走り出した。
「隆志!」
「急げ!」
二人が、人ごみをかき分けて駆《か》けて行くと、三船の方も、やっと怒《おこ》り出したのか、
「おい! 逃がすな!」
と、怒《ど》鳴《な》った。
ワーッと子分たちが詩織と隆志を追って駆《か》け出す。
「どいてくれ!」
何しろ人が多くて、思うように逃げられないのだ。隆志が大声を出しながら、走る。
「隆志! そっちは——」
「あそこへ逃げ込もう!」
隆志が、走りながら、指さしたのは——何と、あの〈お化《ば》け屋《や》敷《しき》〉だった!
「あ、だめ! あそこはだめ!」
と、詩織は叫《さけ》んだ。
「だめって、どうして!」
「だって——」
事情をゆっくり説明している暇《ひま》はない。
「ね。じゃ他《ほか》の方へ!」
と詩織は言ったが、三船の子分たちで足の速いのが、何人か先へ回って、正面から駆けて来るのが見えた。
「まずい!」
やっぱり、〈お化け屋敷〉しかない!
二人は、仕方なく、〈お化け屋敷〉へと飛び込《こ》むことにした。
「入場券は?」
「そんなもん、いいよ!」
「だけど——」
詩織としては、少々気になったのだが、この際、そんなことは言っておられない、というのも事実だったので、やむを得ず、入口から飛び込んだ。
「——ああ、参った!」
隆志がハアハア息をついている。
「私だって……。でも、追いかけて来るわよ!」
「分《わか》ってるけど……。少し休まないと」
「休む?——そうだ!」
詩織は、中を進んで行くと、さっき啓《けい》子《こ》が連れて行ってくれた休《きゆう》憩《けい》室《しつ》を捜《さが》した。
「ええと……確かこの辺だわ」
女《おんな》吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》の姿《すがた》はなかった。休んでいるのかしら?
「おい、どこへ行くんだよ?」
「いいから。——こっちだわ、確か」
手を引っ張って、詩織は古井戸の裏《うら》手《て》へ回った。「この壁を——」
壁を押《お》すと、クルリと回って休憩室へ出る。中は誰《だれ》もいなかった。
「おい、どうしてこんな所、知ってるんだよ?」
と、隆志がびっくりしている。
「さっきね。鬼に案内してもらったの」
暑い! コーラでも飲もう。
「呑《のん》気《き》な奴《やつ》だな」
「何よ。大体、あんたが貧血起してのびちゃうからいけないんでしょ!」
隆志が貧血を起したことと、三船に追われたことは、一応関係ないはずだが、こう言えば隆志としても、何も言い返せない、と分っているのである。
「そりゃ……人間、誰だって、欠点ってのはあらあ」
と、隆志はブツブツ言っている。
「それより、啓子さん、どこへ行ったのかしら」
「あの女の子? 会ったのか?」
「ここでね。女吸血鬼になってたの」
隆志は、一《いつ》瞬《しゆん》青ざめた。本当の吸血鬼に変身したのかと思ったのである。
「それより、花《はな》八《や》木《ぎ》の奴《やつ》! 肝《かん》心《じん》の時になるといなくなるんだから! 全く!」
コーラをぐっと飲むと、詩織は腹《はら》立《だ》たしげに言った。
「だけどさ——」
と、隆志が言いかけた時、
「おい! 徹《てつ》底《てい》的に捜《さが》せ!」
と、怒《ど》鳴《な》る声がした。
「来たよ」
「そうね」
「どうする?」
「知らない」
「お前——」
隆志が唖《あ》然《ぜん》として、「先のことも考えないで、ここへ飛び込《こ》んだの?」
「あら、ここへ来たらって言ったのは隆志じゃない」
「そりゃそうだけど……。俺《おれ》はただ、ここを通り抜《ぬ》けて逃《に》げるつもりだったんだ」
「私、ただ喉《のど》が乾《かわ》いたから、コーラが飲みたかっただけだもん」
と、詩織が言っている間にも、
「おい! 構わねえ、どこでも叩《たた》き壊《こわ》して、捜すんだ!」
と、声がして、ドタン、バタン、バリバリ……。
あちこちぶっ壊している音が聞こえて来た。
「どうするんだよ! ここも見付かっちまうぞ」
「じゃ——私が悪いって言うの? 何もかも私のせいだと……」
詩織の目から大《おお》粒《つぶ》の涙《なみだ》が——。
「分《わか》った! お前のせいじゃない!」
隆志はあわてて言った。「本当だ。悪いのは俺《おれ》だ!」
「そう?」
「そうだ」
「じゃ、何もかも?」
「何もかも」
「メス猫《ねこ》にヒゲがあるのも?」
「ああ、俺が悪い! ともかく泣くな! ここから、何とかして逃《に》げ出さないと……」
だが——遅《おそ》かった。
二人が入って来た入口の壁《かべ》が、ドン、という音と共に押《お》し倒《たお》されて、三船の子分が二人、目の前に立っていたのである。
「いたぞ!」
と、一人が怒《ど》鳴《な》った。「おい、こっちだ!」
他《ほか》の子分たちも集まって来る。
「ちょうどいいや。ここなら悲《ひ》鳴《めい》を上げたって、誰《だれ》にも聞こえないぜ」
と、一人が笑った。「手間、かけさせやがって」
「詩織」
と、隆志が言った。「僕が闘《たたか》ってる間に、逃《に》げるんだ!」
「でも——」
「いいか!」
隆志が、ワーッと叫《さけ》びながら、突《つ》っ込《こ》んで行くと——ガツン、と音がして、隆志は一発でのびてしまった。
これじゃ、詩織の逃げる間がない。
「この娘《むすめ》の方だ、用があるのは」
「——コーラ、飲まない?」
と、詩織は言ってみた。
その時、
「大変だ!」
と、叫び声がした。
あの、さっき隆志にのされた子分である。
「おい、大変だ! 親分が——親分が、殺された!」
それを聞いて、詩織もびっくりしたのだった……。