「——疲《つか》れた」
と、詩《し》織《おり》は言った。
「俺《おれ》だって……」
隆志が言った。
二人は、成《なる》屋《や》家の居間に入ってから、それぞれその一言ずつを発しただけだった。
「——二人とも、今日《きよう》はずいぶんおとなしいのねえ」
と、母親の智《とも》子《こ》が紅《こう》茶《ちや》などいれてくれる。
「ママ……」
「なあに? 何かくれるの?」
「どうして私がママに何かあげるの? その前に出してくれるものがあるんじゃない?」
「そうだった? 年賀状とか暑中見《み》舞《まい》?」
全く、どこまで本気なのか……。
「夕ご飯よ! お腹《なか》ペコペコなの!」
「あ、なんだ、そうならそうと言えばいいじゃないの」
と、智子は笑って、「じゃ、隆志さんも?」
「ええ……。もしよろしければ」
隆志としては精《せい》一《いつ》杯《ぱい》の遠《えん》慮《りよ》である。
「そう。それじゃ、困《こま》ったわね」
と、智子は言った。
「困った、って——ママ、何かあるんでしょ、食べるものくらい」
「それが今日は、残りものを全部きれいに平らげちゃったもんだから……。パンの耳ならあるけど」
「私、ウサギじゃないのよ!」
と、詩織は言った。
まあ、何とか、お寿《す》司《し》の出前を取る、ということになって、詩織と隆志は、辛《かろ》うじてあと二十分ほどの空《くう》腹《ふく》を堪《た》えることができたのだった。
お寿司が来ると、智子はお茶をいれて来たが、その間に、もう二人とも、三分の二は食べ終っていた。
「——しかし」
と、隆志が、やっと生き返った様子で、「あの三《み》船《ふね》も殺されて、何だか着々とやられてくって感じだなあ」
「うん……。まあ、やられて惜《お》しいってほどの人じゃないけど、でも、やっぱり殺すのは感心しない」
「そりゃそうだ。本当にあの啓《けい》子《こ》って子がやったのかな」
「分《わか》んないわよ。私はあの子じゃないんだから」
詩織は、しごくもっともなことを言った。
「もしかすると、これもあの子の計略なのかもしれないな」
隆志は考え込《こ》みながら言った。
「計略って……お寿《す》司《し》のこと?」
「何でお寿司が出て来るんだよ」
「だって、私の、あなたのと比べて、鉄《てつ》火《か》巻《まき》が一つ少ないわ」
「そうじゃないよ! 三船がやられて、手下たちは、あの緑《みどり》小《こう》路《じ》ってのがやったと思ってるわけだろう? これで二つのグループがやり合って、お互《たが》いに弱くなる……」
詩織は肯《うなず》いた。
「なるほどね。——何となく分るわ。でも、それじゃ、あの啓子さんって、とんでもない人ってことになる」
「ヤクザとかギャングとかが憎《にく》かったんだよ、きっと。だから自分の手で根絶やしにしてやろう、と……。その心根、俺《おれ》にもよく分るぜ」
と、隆志は涙《なみだ》ぐんでいる。
どうやら、詩織の性格に影《えい》響《きよう》されているらしい……。
電話が鳴った。智子が受話器を取ると、
「はい。——はあ、成屋でございます。うちの娘《むすめ》ですか? 詩織? そんな名前じゃなかったと思いましたが……」
「ママ!」
と、詩織が飛び上った。
「あ、ちょっとお待ちを。——あ、詩織だったわね、お前」
自分の娘の名を忘れるというのは、全く珍《めずら》しい母親である。
「代るわ。——誰《だれ》から?」
「女の人よ。ちょっと年《ねん》輩《ぱい》の。あなたのお母さんかしら」
「ママはここにいるじゃないの」
「あ、私がそうだったわね」
詩織は、母の相手をするのをやめて、受話器を受け取った。
「もしもし」
「あ、詩織さんていったわね。竜《りゆう》崎《ざき》幸《さち》子《こ》よ!」
「ああ! 女社長さん」
桜《さくら》木《ぎ》に、かつて世話になったという、ビルのオーナーだ。
「どう? 隆志は元気?」
「ええ。何とか。何かあったんですか?」
「ニュースで聞いてさ。三船とかってのがやられたじゃない」
「ええ」
「桜木さんも、あの男を知ってたと思うのよね」
桜木!——そうか、と詩織は思った。
あの啓子には人殺しなどできないかもしれないが、桜木が実際の犯行を受け持っているとすれば、分《わか》らないでもない。
「そうそう、桜木さんからも連絡があったのよ」
と、竜崎幸子が言った。
「まあ、あの人、どこにいるんですか?」
「たぶん、お宅《たく》の近く」
「え?」
詩織は、キョロキョロと周囲を見回して、「見当りませんけど」
「あんたの所の電話って、外にあるの?」
「いいえ、居間です」
「じゃ、見えないでしょ。今、お宅《たく》の方へ向ってると思うわ」
「そうですか!」
これで、色々な謎《なぞ》も一挙に解けて、大団円となるかもしれない。そうなると、小説も早く終って作者も楽だし……。
「私も今からそっちへ行くわ」
と、竜崎幸子は言った。
「そうですか、じゃ、お待ちしています」
「そうね。十分ぐらいで着くと思うわ」
十分?——じゃ、竜崎幸子も近くにいるらしい。
詩織が電話を切ると、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。きっと桜木だ。
詩織は玄関へと出て行って、ドアを開《あ》けると——がっかりした。
「花《はな》八《や》木《ぎ》さん!」
「何だ? 他《ほか》に誰《だれ》か来る予定だったのか?」
花八木刑事は、あたかも我《わ》が家の如《ごと》く、さっさと上り込《こ》むと、お寿《す》司《し》の器を見付け、
「ほう、寿司か」
と、言った。「全く、刑事ってのは、大変な商売だ。世の善良な人々を守るため、腹《はら》を空《す》かして頑《がん》張《ば》っても、誰一人として、寿司など取ってはくれんのだ」
何とも当てつけがましい言い方だが、これがこの家で通用すると思ったら、大《おお》間《ま》違《ちが》いなのである。
「まあ、お気の毒に」
と、智子が言った。
「分ってくれるか」
「ええ。——じゃ、お茶でもお飲みになります?」
花八木はガクッと来たのか、座《すわ》ったソファから、落っこちそうになった。
と、その時、表の方で、ドタドタと足音がしたと思うと、
「逃《に》がすな!」
という声。
「殺すなよ! 生《い》け捕《ど》りだ!」
と、怒《ど》鳴《な》る声。
誰《だれ》かが、詩織の家の中へ飛び込《こ》んで来た。
「—— 失礼します」
と、居間へ、顔を出したのは……。
「あ! おじさん!」
と、詩織は言った。
桜木だった。詩織を人質にしてたてこもった時と、同じ格好をしているので、すぐに分る。
「あんたか! 頼《たの》む! すまんが追われていて——」
と、ハアハア息を切らしている。
「隆志! あんた、連中を食い止めて」
と、詩織は、桜木の手を取って、「裏《うら》へ出ましょう!」
「食い止めるって——おい」
隆志は、オロオロするばかり。その間に、詩織は桜木の手を引いて、居間からガラス戸を開《あ》けて、庭へ飛び出した。
花八木は、ポカンとしていたが、
「おい! 待て! 俺《おれ》も話がある!」
と、立ち上る。
「それより、こっちを何とかして下さいよ!」
隆志が花八木の腕《うで》をつかんだ。
と、居間へドタドタと入り込んで来たのは——あの、三船の手下たちだった……。