最近の都会っ子が、運動不足で外に出たがらない、というのは事実だろう。
詩織などは、その中では比《ひ》較《かく》的よく出歩く方で、散歩も嫌《きら》いでない。歩くことは何よりいい運動になるし、ダイエットにもなる。
しかし、問題は、なぜかいつも散歩のコースの中に、詩織の好きな食べものの店が含《ふく》まれているということなのである。
いや、それはともかく——。
いかに散歩の好きな詩織でも、ヘリコプターの縄《なわ》ばしごにぶら下ったままの「空中散歩」は、あまり好みでなかった。
竜《りゆう》崎《ざき》幸《さち》子《こ》のヘリコプターは、ぐんぐん上昇し、桜《さくら》木《ぎ》と詩織の二人をぶら下げたまま、飛び続けていた。
詩織は目が回りそうになって、必死で縄ばしごにしがみつき、振《ふ》り落とされまいとした。
詩織は、自分の幸運を、かなり信じている方だが——他人からは「おめでたい」と言われる——ここから落ちたらたぶん生きていられないだろう、ということは分《わか》った。
もちろん、万が一、下で、キングコングを運ぶためのネットを広げていて、そこへ詩織がうまく落下する、といったことでもあれば別だが、それはもう「幸運」というより「奇《き》跡《せき》」——いや、「ご都合主義」というものだろう……。
と——ヘリコプターが停《とま》った。
停留所かしら? 詩織は周囲を見回したが、別に乗って来る人もいなかった。
空中だから、当然のことである。
「—— 上って」
と、頭上から、竜崎幸子の声がした。
桜木が、
「やあ、助かったよ」
と、縄ばしごを上って行く。
あ! ずるい! 私を置いて行くなんて!
詩織は、必死で上ろうとした。——しかし、縄ばしごというやつ、ともかくじっとしていないのである。ヘリコプターは停っていても、風が吹《ふ》きゃ揺《ゆ》れるし、上で桜木が上って行くと、それでもグラグラ揺れる。
とてもじゃないが、上って行くどころの騒《さわ》ぎじゃない。
そうこうする内、桜木はヘリコプターの中へ入りこんだようだ。
「ありがとうよ! 礼を言うぜ」
と、桜木が言っているのが、スピーカーから聞こえて来る。
「とんでもない! 桜木さんの役に立ちゃ、こんなに嬉《うれ》しいことはありませんよ」
と、幸子が言った。「本当にお久しぶりで……」
「いや、達者で何よりだ」
「これも、桜木さんのおかげですよ」
「とんでもねえ。お竜《りゆう》が頑《がん》張《ば》ったからさ」
「でもねえ—— 本当に、あの頃《ころ》が懐《なつか》しい」
「全くだ」
「まだ私も若かったし、桜木さんも……。そういえば、あのころの彼女、どうしました?」
「うん、話せば長くなるんだが——」
詩織は、いつになったら引き上げてくれるのかと待っていたが、二人の話が長引きそうなので、頭に来て、
「ちょっと! こっちを先にして下さいよ!」
と、怒《ど》鳴《な》った。
「あ、ごめん、忘《わす》れてたわ」
と、幸子が豪《ごう》快《かい》に笑った……。
「これ、竜崎さんのヘリコプターなんですか?」
やっと、ヘリコプターの中に無事おさまって、詩織は、少し動《どう》悸《き》が鎮《しず》まってから訊《き》いた。
「そう。自家用だよ」
と、幸子は肯《うなず》いた。
「凄《すご》い!」
「その代り、自分じゃ操《あやつ》れないけどね」
と、幸子は笑って、「そんなに他《た》人《にん》行《ぎよう》儀《ぎ》にしないで、『お竜さん』と呼《よ》んでくれ」
「お竜さん。——どこへ行くんです?」
「あんた、狙《ねら》われてんだろ? しばらく身を隠《かく》した方がいいよ」
「その方がいい」
と、桜木も肯く。「ああいう手《て》合《あい》は、しつこいからな」
「でも……」
と詩織はためらった。「隆《たか》志《し》を残して来ちゃったから」
「ああ、あの恋人ね?」
「目の前で逃《に》げちゃったから、きっとあの連中、怒《おこ》ってるわ。腹《はら》いせに、彼を殺しているかも……。どうしよう!」
と、詩織は両手を握《にぎ》り合せて、「何の罪もないのに、私のせいで殺されるなんて……。可《か》哀《わい》そうな隆志!」
ポロポロと涙《なみだ》が流れる。
「でも、男はね、愛する女のために死ぬのが本望なのよ」
と、幸子が言った。
「そうでしょうか?」
「そうよ。もし、それであんたのことを恨《うら》んで死ぬようなら、大した奴《やつ》じゃないから、死んだって構やしないわ」
「そうですね」
詩織も、ケロッとして、「じゃ、隆志、迷《まよ》わず成《じよう》仏《ぶつ》してね」
すっかり死んだことにされている。
果して、隆志は死んだのだろうか?
いや—— 生きていた。
詩織たちの乗ったヘリコプターが、どこへ行くのか、夜の空を飛んでいるころ、隆志たちも、乗物に乗っていた。
「たち」というのは、隆志一人でなく、花《はな》八《や》木《ぎ》も一《いつ》緒《しよ》だったからである。
もっとも、詩織たちに比べると、大分待《たい》遇《ぐう》は悪かった。 —— 車のトランクの中に、グルグル巻《ま》きに縛《しば》られて押《お》し込《こ》まれていたのである。
やはり、詩織の想像通り、桜木を逃《に》がして頭に来た三《み》船《ふね》の子分たちが、隆志と花八木を車のトランクに押し込んで、引き上げたのであった。
幸い、詩織の母、智《とも》子《こ》は無事だったが、それは決して「女性尊重」の結果ではなく、詩織がヘリコプターで吊《つ》り上げられて行くのを見送って、
「とうとうあの子も昇天したわ……」
と、真《ま》面《じ》目《め》に呟《つぶや》くのを見て、連中が怖《おじ》気《け》づいたせいだった。
「——刑事のくせに、だらしないんだから!」
トランクの中で、花八木と体をくっつけ合って(詩織とならいいのに、と思った)、隆志はグチった。
「何を言うか」
花八木は、言い返した。「ローン・レンジャーだって、必ず一度は危《き》機《き》に陥《おちい》るのだ」
引用が古い!
隆志は、この先どうなるんだろう、とため息をつきながら、考えた。
詩織の奴《やつ》、きっと心配してるだろうな……。
「——ま、人間、死ぬときゃ死ぬのよ」
と、幸子が、言った。「ま、一《いつ》杯《ぱい》やんな」
「どうも」
詩織は、すっかり酔《よ》っ払《ぱら》っている。「——男がなんだ! 隆志一人が男じゃない!」
「そう! その調子!」
隆志が聞いていたら、ショック死するかもしれない。
「ここ、どこ?」
と、詩織は、部屋の中を見回した。
「私の別《べつ》荘《そう》。——誰《だれ》もここまでは追っちゃ来ないわよ」
そりゃそうだろう。海へ出て、かなり沖《おき》合《あい》へ出た島なのだ。
「この島ごと、私のものでね」
と、幸子は言った。
「へえ! いいなあ!」
と、詩織は少々回りの悪くなった口で、「私も——こんな所に住みたい!」
「だから、ここへ連れて来たのよ」
「——え?」
と、詩織は目をパチクリさせた。
「ここなら、あの連中も追っちゃ来ない。ほとぼりがさめるまで隠《かく》れてるといいよ」
「ほとぼりが……」
お湯《ゆ》がさめるぐらいなら、せいぜい二、三十分だろうが。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。当分、ここにいて大丈夫なように食料もあるし」
「当分って……。どれくらいいればいいんですか?」
「そうね。まあ、一年もいりゃ、向うも諦《あきら》めるんじゃない?」
幸子の言葉に、詩織は、いっぺんに酔いがさめてしまった。