詩《し》織《おり》は、ひどい頭《ず》痛《つう》で、そろそろと頭を上げた。
——目を覚《さ》ましたのは、もう十五分も前のことだが、頭痛のひどさに、身動きする気にもなれなかったのである。
これが「二《ふつ》日《か》酔《よい》」というやつなんだわ、きっと、と詩織は思った。——まあ、正確に言うと十七歳だから、「未成年の飲酒」ということになるが、そこは目をつぶることにしよう……。
「どこだっけ、ここ」
と、やっと起き上って周囲を見回す。
何となく、空を飛んだような記《き》憶《おく》がある。でも、私は鳥じゃないんだから、まさかねえ……。夢《ゆめ》でも見たんだわ、きっと。
ママはどこへ行ったのかしら。娘《むすめ》がこんなひどい頭痛で寝てるっていうのに。
「あれ?」
どう見ても、自分の部屋ではない。
いくら詩織が呑《のん》気《き》者《もの》でも、自分の部屋と、そうでない場所との区別ぐらいはつくのである。
広々とした、高級ホテルの一室を思わせる部屋だ。ベッドも、詩織でも絶対に落ちる心配のない、堂々たる大きさのダブルベッド。
もちろん、そこに寝《ね》ているのは、詩織一人だった。
「——じゃ、夢じゃなかったんだ」
と、詩織は呟《つぶや》いた。
竜《りゆう》崎《ざき》幸《さち》子《こ》のヘリコプターにぶら下げられて——いや、後ではちゃんと乗せてくれたが——この島へやって来たのだ。あの桜《さくら》木《ぎ》という男も一《いつ》緒《しよ》だった。
「そうだわ、一年もここにいろなんて言われて……」
とんでもない、と言ったのだが、竜崎幸子の方も酔《よ》っ払《ぱら》って、さっぱりらちがあかない。
諦《あきら》めて、今夜はともかく寝よう、ということになったのである。
「何時かしら?」
キョロキョロ見回すと、壁《かべ》にクラシックな木《き》彫《ぼり》の掛《かけ》時《ど》計《けい》。——何だ、まだ一時か。
「一時?」
大変だ! こんなに寝たなんて!
「何か食べなきゃ!」
と、叫《さけ》んで、詩織はベッドから飛び出したのだった。
——正《まさ》にホテル並《なみ》に、ちゃんと部屋にバスルームもついていて、詩織は、シャワーを浴びてスッキリすると、部屋を出た(もちろん、服を着てからである)。
「—— 竜崎さん。——お竜《りゆう》さん」
と、呼《よ》びながら、階段を降《お》りて行く。
すると、そこへ——怪《あや》しい匂《にお》いが、いや、いい匂いが漂《ただよ》って来る。
詩織は、一階のダイニングキッチンへ入って、ゴクリとツバをのみ込《こ》んだ。——テーブルの上に、きちんと並《なら》んだ朝食は、我《わ》が家で毎朝お目にかかるものに比べて、三倍は豪《ごう》華《か》だった。
時間が時間だけに、朝昼兼用の食事というべきかもしれないが、詩織の食べっぷりについては、作者は、目をつぶりたいと思う。
しばらく目をつぶって開《あ》けると、そこには空の皿《さら》と器が並んでいて、果して中身が何だったのやら、想像もつかない状《じよう》況《きよう》になっていたのである。
「さて、と……」
それにしても、お竜さんや桜木さんはどこへ行ったのかしら?
詩織は、リビングルームへ入って行くと、広い窓《まど》から外を見た。 —— 青い水平線が、白い光の中に溶《と》けて行くようで、何の変化もない眺《なが》めながら、つい見とれてしまうほどの美しさ……。
ここは孤《こ》島《とう》だったんだわ、と詩織は改めて思った。一人でこんな所にいたら、退《たい》屈《くつ》だろうなあ……。
「お竜さん。——どこですか」
もしかしたら、まだ眠《ねむ》ってるのかも。
詩織は、リビングルームを出ようとして、ふとテーブルの上に目をやった。
一本のビデオテープが置いてあり、その上にメモが一《いち》枚《まい》。〈伝言〉と書かれている。
「伝言って——何も書いてないじゃない」
このビデオは? 何かしら?
大きなサイズのTVがデンと置かれていて、その上にビデオデッキがのっている。詩織はスイッチを入れ、カセットを押《お》し込《こ》んだ。
「プレイボタン、と」
TVの画面が、ちょっとチラついたと思うと、
「やあ! おはよう!」
と、いきなり、画面一《いつ》杯《ぱい》に竜崎幸子の顔が出て来たので、詩織は仰《ぎよう》天《てん》した。
「ああ、びっくりした! いきなり出て来ないで下さいよ」
と、TVに向って文《もん》句《く》を言う。
「もう起きてる? 起きてなきゃ、これを見ないわよね、ワッハハハ!」
ビデオのカメラに向って、よくあんな風に笑えるもんね、と詩織は妙《みよう》なことに感心している。
「私は仕事があるんでね、ヘリコプターで出勤するわ。ま、あんたはここでのんびりしててちょうだい。食べる物、冷蔵庫と冷《れい》凍《とう》庫《こ》にどっさり入ってるし、缶《かん》詰《づめ》は地下に山ほどあるから、好きに食べて。——それから、桜木さんは、あんたみたいに可《か》愛《わい》い子と二人きりじゃ、ついフラフラッと妙な気になるかもしれないって心配して、私と一《いつ》緒《しよ》に行くって。だから、あんたはTVでも見て、ゆっくり静養してね。——さて、そろそろ出かけなきゃ。じゃ、一週間したら、また来るからね。バイバイ」
詩織もつい、
「バイバイ」
と、手を振《ふ》っていたが……。「——一週間?」
一週間も、ここに一人でいるの?
「冗《じよう》談《だん》じゃないわよ!」
どこかに電話ぐらいあるはずだ。でなきゃ、伝《でん》書《しよ》鳩《ばと》とか(?)。
しかし、あわててこの別《べつ》荘《そう》中をかけ回って捜《さが》しても、電話はついに見当らなかった。
疲《つか》れ果てて、詩織はリビングのソファにのびてしまった。
「——参ったな!」
ここに一週間!——隆志や、母はどう思うだろう?
きっと心配で心配で、泣《な》きあかしているに違《ちが》いない……。
成《なる》屋《や》家では、そのころ——。
「おい、詩織は?」
と、成屋が昼食のスパゲッティを食べながら、訊《き》いた。
「詩織ですか。あの子は、ちょっと出かけてます」
と、母親の智《とも》子《こ》がTVを見ながら、答える。
「ふーん。ゆうべ何だか騒《さわ》ぎがあったじゃないか」
「ええ。でも、空を飛んで行ったから、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》でしょ」
「そうか。—— 空を、ね」
成屋は肯《うなず》くと、ふと考え込《こ》んで、「うむ、空を飛ぶ少女か。これは悪くないイメージだな」
「まあ、可《か》哀《わい》そう。あの子、一体これからどうなるのかしら」
と、智子が両手を握《にぎ》り合せた。
「詩織のことか?」
「違《ちが》いますよ。このドラマの主人公。両親とはぐれて、戦乱の中を、逃《に》げ回ってるんですよ……」
「そうか。——可哀そうにな」
二人は、しみじみと肯《うなず》き合ったのだった。
一方、しみじみと肯き合ってはいない二人もいた。
「腹《はら》が減ったぞ!」
と、怒《ど》鳴《な》っているのは、花《はな》八《や》木《ぎ》刑事。
「その声が、空《す》きっ腹《ぱら》に響《ひび》くんですよ」
と、文句を言っているのは隆《たか》志《し》である。
「黙《だま》っていれば、食い物が来るとでもいうのか」
「大声出しゃ、持って来てくれるとでも言うんですか! デパートの食堂じゃあるまいし」
二人は手足を縛《しば》られて、どこやらの倉庫みたいな所に放り込《こ》まれていたのである。
もちろん、隆志は、詩織のことも、気にはしていた。しかし、詩織を守るにも助けるにも、まず、自分が無事に解放されなくてはならない。そのためには、生きていなくてはならない。そのためには何か食べなくてはならない。
こういう極《きわ》めて論理的な思考に立って、隆志も、花八木と一《いつ》緒《しよ》になって、
「食いものをくれ!」
と、怒《ど》鳴《な》り出したのである……。