「ええと……失礼します」
詩織の育ちの良さは、こういうところにもあらわれている。
つまり、誰《だれ》が潜《ひそ》んでいるかも分らない別《べつ》荘《そう》の中へ入って行く時でも、つい、こうやって声をかけてしまうのである。
やっぱり私は「お嬢《じよう》様《さま》」なんだわ、と詩織は感心していた。——隆《たか》志《し》とじゃつり合わないかしら?
今は、そんなこと考えてる場合じゃないでしょ!
そう。——誰かがボートでやって来て、この中に潜んでいるかもしれないのだ。手の中の石を握《にぎ》りしめる。
もし、誰かが来たとして、まずどこに行くだろう? やっぱりトイレだろうか?
と——頭上で、バタン、と何か倒《たお》れる音がした。
二階にいる! 詩織は、石を握りしめて、逃《に》げ出そうかと思った。しかし、ここを出たって、島から外へ出られるわけじゃないのだ。
こうなったら、誰がいるのか、覚《かく》悟《ご》を決めて確かめるしかない。
二階、二階、と……。
階段を上って行く。——さっき音がしたのは、どの辺《あた》りだったろう?
自分の家ならともかく、居間の上はどの辺か、といったことは、他人の家では分《わか》らないものである。
「ええと……しょうがないや。片《かた》っ端《ぱし》から——」
詩織としては珍《めずら》しい大《だい》胆《たん》さで、次々に部屋のドアを開《あ》けて行く。
ここもいない。——ここも空《から》。——ここは一人しかいない……。ん? 一人?
パッと、もう一度ドアを開ける。
「あ!」
詩織は思わず声を上げた。——そこに立っていたのは、あのキザで固めたようないでたちの、緑《みどり》小《こう》路《じ》金《きん》太《た》郎《ろう》だったのである。
「金太郎……さん!」
詩織は、引きつったような笑顔を見せた。「どうも!—— 珍《めずら》しい所でお会いしますねえ」
が、金太郎は何も言わなかった。やや青ざめた顔で、じっと詩織を見つめながら、ゆっくりと歩いて来た。
「あ、あの——お一人ですか?」
と言って、詩織は、やばい、と思った。
孤《こ》島《とう》に二人きり。しかも詩織の魅《み》力《りよく》(当人がそう思っている)を考えれば、金太郎が妙《みよう》な気を起しても当然というものである。
「待って下さい! 金太郎さん、落ちついて! 私には隆志という将来を誓《ちか》った人が——」
なに、誓ってなんかいやしないのだが、そこは方便というものだ。「ね、ですからだめなんです。そりゃまあ……どうしてもってことなら、頬《ほ》っぺたにキスするぐらいでしたら……」
金太郎が、ゆっくりと詩織の方へのしかかって来た。
「キャッ!」
詩織は叫《さけ》び声を上げて、後ずさり、つまずいて尻《しり》もちをついた。
と——金太郎がドサッと床《ゆか》へ突《つ》っ伏《ぷ》してしまった。
詩織は、目をパチクリさせた。
「金太郎……さん」
体を起して、詩織は目をみはった。金太郎の背《せ》中《なか》には、ナイフが深々と刺《さ》さっていたのである。
「あ……あの……あの……」
死んでる?——詩織は愕《がく》然《ぜん》とした。
背中にナイフが、ということは、誰《だれ》かに刺された、ということだ。
自殺するのに、わざわざ後ろへ手を回して自分の背中を刺すというのは、どう考えてもよほどの物好きであろう。
ということは——こんな時でも、詩織の明《めい》晰《せき》な頭《ず》脳《のう》は、論理的な結論を出していた——刺した人間がいる!
「助けて! 誰か!」
詩織は飛び上るように立って、階段を駆《か》け下《お》りて行った。
「これで何人殺されたんだろう?」
と、隆志は言った。
「数学は苦《にが》手《て》だ」
と、花《はな》八《や》木《ぎ》が首を振った。
「別に、数学ってほどのもんじゃないでしょう」
「お前は、死体の転《ころが》っている所でカップラーメンを食い、かつ失神して倒《たお》れていたのだ。威《い》張《ば》るな」
「威張っちゃいませんよ」
警察の人間がワイワイやって来て、三船の子分たちの死体を運び出す。
「花八木さん、見てたんでしょ、犯人を?」
と、隆志が訊《き》く。
「見たと言えば見たが、見ないと言えば見ない」
と、花八木はやたら哲学的なことを言い始めた。
「どっちなんですか」
「うむ。——ここで食事をしていると、あの連中の一人が、飛び込《こ》んで来たのだ。そして、『危《あぶな》い! 奴《やつ》らが——』と言った瞬《しゆん》間《かん》、銃《じゆう》声《せい》がして、バタッと倒れた」
「それで?」
「私は決して臆《おく》病《びよう》者《もの》ではない」
と、花八木は強調した。「しかし、危《き》険《けん》な時には身を隠《かく》す。これは賢《けん》者《じや》の知《ち》恵《え》というものだ」
「要するに、机《つくえ》の下へ隠れたんですね」
「早く言えばそうだ。——続けて銃声がしたと思うと、他《ほか》の二人もバタバタと倒れた。凄《すご》い迫《はく》力《りよく》だった! 映《えい》画《が》じゃよくあるが、本物を目の前で見るのは、やはり段《だん》違《ちが》いの——」
「そんなこといいけど、じゃ、犯人の姿《すがた》は見なかったんですか」
「一部分は見た」
「一部分?」
「靴《くつ》の先が見えた。あれはなかなかいい靴だった。サイズはたぶん二六ぐらい……」
こりゃだめだ。——隆志は首を振《ふ》って、
「詩織たち、どうしたのかなあ。僕はそれが気になりますよ」
「もちろんだ。では行ってみるか」
「詩織の家へ?」
「お竜《りゆう》の所だ。あいつ、ヘリコプターなど使いおって!」
と、花八木は怒《おこ》っている。
「いいじゃないですか、自分のなんだから」
「この私を、なぜ乗せて行かなかったのだ?」
と、花八木はふてくされるのだった。
さて、一方、詩織は別《べつ》荘《そう》から逃《に》げ出したものの、小さな島である。どこへ逃げると言っても……。
「そうだわ!」
ボートがあった。あれを使おう。
どうやれば動くのか、よく分《わか》らないが、ここで殺人犯が追って来るのをぼんやりと待っているよりいいだろう。
さっきの岩かげに駆《か》けて行ってみると、ボートはちゃんとそこにあった。
こわごわ乗り込《こ》み、手で岩をえいっと押《お》すと、ボートは波に乗って、上下に揺《ゆ》れながら岩から離《はな》れた。
「きっと、これを引っ張るんだわ」
エンジンについている紐《ひも》を、思い切りぐいと引くと、ブルル、と音を立て、エンジンがみごとにかかった。
「やった!」
私の腕《うで》も捨《す》てたもんじゃないわ、などと感心していると、突《とつ》然《ぜん》、ブオーッと音をたててボートが走り出した。
「キャッ!」
詩織はボートの中で引っくり返ってしまった。
「ちょ、ちょっと!——あのね、そんなにあわてないで! 落ちついてよ!」
そんなことを言ってもボートが聞くはずもない。激《はげ》しく右へ左へとカーブしながら、ボートは海面を走り出した。
「ええと——舵《かじ》、舵——」
これだ。——舵を両手でつかんで、エイッと真《まつ》直《す》ぐにすると、ボートは一直線に走り出した。
「これでいいんだわ」
詩織はホッとした。やってみりゃ、結構簡《かん》単《たん》じゃないの。
海は穏《おだ》やかで、天気はいいし、なかなかいいドライブ(?)日《び》和《より》だった。
詩織も鼻歌など歌って、いい気分……。
問題はただ一つ。——詩織は気が付いていなかったが、ボートは陸地と反対の方向へと走っていたのである。