つい、油断していた。
ともかく単調な田舎道だったのである。
白浜一家に、何だか妙な若い男——高校生ぐらいだろう——を加えて、引越しトラックは、ひたすら郊外へと走り続けている。
それを尾行する広沢の方も、いい加減うんざりしていた。
「えらい所へ越して行くもんだな」
と、広沢は呟《つぶや》いた。
眠気もさしていた。——ゆうべは女の所で泊まって来たのだ。
少々、年齢も考えずに張り切ってしまって……。おかげで、今ごろになって眠気がさして来る。
もちろん、半分眠って運転していたって、まあ事故なんか起しそうもない、空《す》いた道であった。
ただ——こういう道は、尾行には少々厄介だ。近付くと、すぐに見付かってしまう。幸い、ほぼ周期的に道がカーブしているので、トラックのバックミラーに映り込まない程度、間をあけて走っているのだ。
雑木林が両側に続き、所々、ポカッと空いた場所に家が建っている。古びて、空家になったものもあるし、新しく建ったばかりの家もある。
こんな所に住んでる奴は、何の仕事をしてるんだ?——退屈しのぎに広沢はそんなことを考えていた。
道は上りが続いた後、下りにさしかかっていた。町が、遠くの木立ちの間から、すけて見えている。
あれが、白浜一家の目的地らしいな、と広沢は思った。そうであってほしい。
ガソリンも、少々心細くなっていた。途中、ガソリンスタンドもあったが、戻って間に合うすれすれの所だ。あの町より先だったら、かなり面倒なことになる。
それにしても……。何とまあ!
広沢は、「取り立て屋」として、こんな遠くまで出張して来たことはない。毎日ここまで通うんじゃお手上げだ。
といって、あんな町に旅館などないだろうし、あったとしても広沢が何のために泊っているか、不思議がられるに違いない。
まあどこか——この近くの国道沿いのラブ・ホテルでも捜す手だな。
それがいいかもしれないな、と広沢は、自分の思い付きに、ニヤリと笑った。適当に女を連れて来ることもできるし、あの白浜の女房や娘を呼びつけて……。
一人でニヤニヤしながら、広沢はまた眠くなって来て、大欠伸《あくび》した。
その時だった。——目の前に自転車が現われたのだ。
普通の道なら、ハンドル操作で、間に合ったろう。しかし——こんな所で、まさか、という思いが、動きを鈍らせた。
ブレーキを踏むのが、ぎりぎりのタイミングだった。辛《かろ》うじて、自転車を引っかけずに済んだが、車の方はお尻《しり》が振り回されて、押えが効かなくなっていた。
一瞬、死への恐怖が、広沢を捉えた。まさか!
こんな所で——。やめてくれ!
ガン、と車の横腹が、立木にぶつかって、広沢の体が、座席から飛び上がる。
車は、停った。ともかく停ったのだ。
エンジンの音が、静かに下がって、カタカタという呟きになり、やがて消えた。
張りつめた静けさの中で、荒々しい、風のような音だけが耳について、それが自分の呼吸の音だと分るのに、少し間があった……。
やれやれ、何とか助かったようだ。
車の窓を開けると、立木のぶつかった横腹へ目をやる。大きくへこんでいた。
「畜生!」
と、思わず言葉が出ていた。
これでまたいくら取られるだろう? こんな費用を、経費につけて見落としてくれるような依頼人でないことを、広沢はよく分っていた。
ともかく、このへこみだけですんだのならいいが……。
「あの——」
と、声をかけられて、広沢は、ギョッとした。
そういえば、今、よけようとした自転車のことを、すっかり忘れていたのだ。
振り向くと、三十そこそこぐらいの女が、自転車を引いてやって来るところだった。
少しやせて、やつれた感じだが、なかなかいい女だ、と広沢は思った。——もちろん好みの問題ということだが、広沢はむしろ、こういう普通の人妻などの方が食指を動かされるのである。
「やあ。大丈夫だったかい?」
広沢が愛《あい》想《そ》良く言ったので、女はホッとしたようだった。
「ええ、私は……。おけがはありませんでしたか?」
と、女は訊《き》いた。
「車が、ちょっとけ《ヽ》が《ヽ》したようだけどね」
と、広沢は肩をすくめた。「しかし、体の方は何ともないようだ」
「まあ、良かった」
と、女は微《ほほ》笑《え》んだ。「凄《すご》い音がしたんで、びっくりして……」
広沢は車を降りてみた。もし、オイルとかガソリンが洩《も》れていたら、危い。
しゃがみ込んで、車の下を覗《のぞ》き込んだが、洩れているところはないようだった。油くさい匂《にお》いもしない。
「大丈夫らしい。——あんた、あの町の人かい?」
と、広沢は立ち上がって、遠くに見えた町の方向を顎《あご》でしゃくった。
「ええ。一応は」
と、女は言った。
「一応?」
「少し外れた所に住んでるんです。でも、あの町の一部ですけど」
「なるほど」
広沢は肯いた。「小さな町らしいね」
「そりゃもう……。みんなが親《しん》戚《せき》みたいなものですわ」
と、女は言った。「町へおいでなんですか?」
「うん、ちょっと用事でね」
「お引越しにも見えませんね」
一見、人付合いの苦手なタイプに見えたが、結構話し好きらしい。
「引越しがあるのかい?」
「ええ。——江田さんのお宅に。やっぱり親子三人で来られるようですわ」
白浜一家のことだろう。ああいう小さな町では、そういうニュースはすぐに広まる。
「その家はどの辺だい?」
と、広沢が訊くと、女はクスクス笑った。
「何かおかしいことを言ったかな」
「ごめんなさい。そうじゃないんです。——でも、どの辺っていうほど大きな町じゃないから」
「なるほど。行きゃ分るってことか」
広沢は笑って、「ありがとう。気を付けてな」
「どうも」
女は、自転車の向きを変えると、またがって、ゆっくりとこいで行った。——その尻の形に、広沢はポカンと見とれていた。
「——仕事だ、仕事だ」
車に乗って、エンジンをかける。
ところが、エンジンがかからなくなってしまったのである。——どこか、立木にぶつかったショックで、電気系統がいかれてしまったらしい。
「参ったな!」
こんな所で立ち往生か。——広沢は、今の女を呼び戻そうかと思ったが、もう自転車は見えなくなっている。
どうしたものか……。
広沢は、もう一度外へ出て、考えた。
町まで歩けないこともないが、見えてはいても、かなりありそうだ。電話して、修理に来てもらうとしても、こんな場所で……。
それに、白浜たちに気付かれる心配もあった。
「——そうか」
今の女。自転車で、町の方からやって来たのだ。当然、帰りもここを通るだろう。
呼び止めて、電話を頼んでもいいし、広沢が、女を後ろに乗せて、自転車をこいで女の家まで行ってもいい。どっちにしろ、その方が楽だ。
よし、ここで、女が通るのを待とう。
白浜たちの引越し先は分ったも同じだ、焦ることはない。
広沢は、車に入ると座席を倒して、ゆっくりと寛《くつろ》いだ。あの女、そう遠くへ行ったわけではないだろう。
ほんのしばらく——少し目をつぶっていよう……。
思いの他、疲れていたのかもしれない。
広沢は、すぐに眠り込んでしまっていたのである。
静かな木立ちを、風が吹き抜けて行く以外、周囲は「死」そのもののように、静まり返っていた……。
トラックのスピードが落ちた。
仁《ひと》美《み》は、頭を上げた。——雰囲気が変っている。
「町へ入ったな」
と、武彦が言った。
「そうらしいわね。きっとこ《ヽ》こ《ヽ》だわ」
「いよいよか」
荷物の山の間で、布団包みにのっかって、二人は横になっていた。といって、もちろん、何かあったというわけではない。
ただ、並んで一緒に横になっていただけだが、仁美もはっきり、武彦のことを「好きだ」と思えるようになっていた。
奇妙なものだ。
「別に、武彦に遺書を書こうなんて、思わなかったのにね」
と、仁美は言った。
「遺書?」
「ホテルで、死のうとした時よ。武彦のことなんか、全然思い出さなかった」
「どうせ」
と、武彦はむくれた。
「聞いてよ。——だけど、今は、武彦のことが一番気になる」
仁美は、両手を武彦の肩に回して、「ね、武彦にもしものことがあったら、いやだわ。——帰ってよ」
「ふざけんな」
と、武彦がムッとしたように、「こんなに尻《しり》の痛い思いして来たのにか?」
仁美はふき出した。
「——じゃ、生きるも死ぬも一緒だよ」
「ああ」
「約束する?」
「約束するさ」
と、武彦は言った。「お前より先にゃ、絶対死なねえぞ」
「うん。——うん」
仁美は肯《うなず》いて、しっかりと肯いて、武彦にキスした。
トラックの中で、仁美は小西の娘と、孫を襲った、恐ろしい運命について話してやった。武彦も、この町での生活が、予測もつかないものになりそうだということは、分っていたのだ。
トラックが停った。
ドアの開く音。——足音がして、荷台の扉が開いた。
「起きた起きた! 着いたぞ」
と、父親の白浜省一が元気に声をかけた。
「誰も寝てやしないわよ」
と、仁美は言い返した。「武彦、手伝ってね」
「もちろんさ」
武彦は、ポキポキと指を鳴らした。
仁美はトラックからポンと飛び下りる。
「——お母さん」
「仁美。家の中を見ましょう」
「うん」
鍵は、あの小西老人から、預かって来ている。
二人は、初めて、町の中を見回した。
——寂しい町だった。
少し、空に暮色が漂い始めているせいもあるだろうが、冷ややかな、沈んだ空気は、まるで町全体を封じ込め、凍結させているかのように見える。
中央の広い通り。それを挟んで、両側の町並。
「人がいない」
と、仁美は言った。
「うん……」
母親の千代子は、不安げに肯いた。
いないわけではない。あちこちの家の窓から、こっちを見ている、何十もの視線を、仁美は感じた。だが、道に出ている人影は一つもなく、通りは閑散としている。
「人見知りが揃《そろ》ってんのよ、きっと」
と、仁美が明るい口調で言った。「さあ、中へ入ろうよ」
「ええ」
千代子は、仁美に促されて、家の玄関へと歩いて行った。
口には出さないが、二人とも、分っていたのだ。ここが、江田洋介と宏子の住んでいた家——江田が、宏子と子供の久弥を殺して、自らも命を絶った家だということを。
もちろん、小西の手で、家の中はちゃんときれいになって、血《けつ》痕《こん》など残ってはいないはずだが、それでも、玄関のドアに鍵《かぎ》をさし込もうとする千代子の手は、震えていた。
「お母さん。——私が開けるわよ」
と、仁美は母の手から鍵を取った。
大体、千代子は気が弱いのだ。仁美の方がよほど——。
すると、仁美が鍵をさし込まない内に、ドアがスッと開いた。
「キャーッ!」
千代子が声を上げた。仁美も、声こそ上げなかったが、飛び上がるほどびっくりした。
「ああ、失礼」
と、その老人は言った。「あなた方は?」
仁美は、大きく息をついた。——出て来たのは、六十歳ぐらいの、温厚な感じの老人だった。上衣はなかなか上等なもので、少なくとも身なりからは、怪しい感じは受けない。
「どうした!」
叫び声を聞いて、早速武彦が顔色を変えて飛んで来た。「——誰だ?」
「私は、ここの管理を頼まれている金井という者ですがね」
「あの——」
と、千代子が、やっと口をきいた。「ここへ越して来たんですけど」
「ああ、そんじゃ——白浜さん? いや、びっくりさせて失礼」
と、金井というその老人は笑って、「明日かと思ってました」
「あの——管理というと、誰に頼まれたんですか?」
と、仁美は訊《き》いた。
小西は何も言っていなかったのだ。
「地元の警察です。勝手に誰かが入り込んだり、中の物を盗んだりしてはいけないのでね」
と、金井は言った。「今、念のためにと思って、中を見ていたところです。——越して来られたのなら、安心だ。お手伝いすることでも?」
「いいえ、結構です」
と、千代子は言った。「人手は充分足りますから」
「そうですか。じゃ、何かあればいつでも声をかけて下さい」
金井は愛想《あいそ》良く言って、「じゃ、私はこれで」
と、行こうとした。
「すみません」
仁美が呼び止めて、「この玄関の鍵を」
「鍵?」
と、金井が戸惑ったように訊き返す。
「入られたんですから、鍵をお持ちなんでしょう」
「ああ、そうそう。——鍵でしたね」
金井は、上《うわ》衣《ぎ》のポケットから鍵を出し、仁美に渡した。「いや、失礼。うっかりしていましてね」
武彦が、その間にそっと金井の後ろへ回っていた。そして金井の上衣の、もう一方のポケットへさっと手を入れると、中に入っていた物を取り出した。
「何するんだ!」
金井があわてて振り向く。
「中を見回るのに、どうしてこんな物がいるんだよ」
武彦が手にしていたのは、ナイフだった。「これは飛出しナイフだぜ。普通の人間は持ってない」
突然、金井が武彦を突き飛ばすようにして、駆け出した。たちまち姿が見えなくなる。
「何かしら、あれ?」
「さあな」
武彦はナイフを自分のポケットへ入れ、「ともかく、もらっとこう。——中をよく調べた方がいいよ。あんな奴が出入りしてたんだったら」
「初めっから、波乱ね」
と、仁美は言った。「面白そう」
「お母さん、少しも面白くないわ」
と、千代子が情ない声を出した。
「鍵を取りかえた方がいいね」
と、武彦は言った。
「そうね」
「ともかく入ろう」
と、武彦は言った。「俺《おれ》、先に入るよ」
中は、小西の言った通り、きれいに掃除され、血の飛んだ壁や襖《ふすま》なども全部取りかえられていた。
「別に問題ないみたいね」
と、仁美も一通り家の中を見て回ってから、ホッとして言った。
「この電話は?」
と、武彦が、居間——といっても狭いものだが——の床に置かれた電話機を見て、言った。
「通じるはずよ」
仁美がしゃがんで手を伸ばした時、待っていたように電話が鳴り出した。
「誰かしら」
「出ようか」
「いいわよ」
仁美が受話器を取る。「——もしもし。——え?——あなた、誰?——もしもし」
仁美が、
「切れちゃった」
と、呟《つぶや》くように言った。
「誰から?」
「男の子みたい。——小さな」
「何て言ったんだ?」
仁美は、チラッと台所にいる母親の方へ目をやって、低い声で言った。
「『夜は外へ出ちゃいけないよ』って。『絶対に出ないで』って、そう言ったわ」