デスクの電話が鳴っても、小西晃介は、すぐには取ろうとしなかった。
それは珍しいことだ。小西は、決して、こういうことを面倒がらない人間なのである。
「取りましょう」
見ていた女性秘書が急いで立って来ると、
「いや、いい」
やっと、小西は受話器を取った。「——もしもし」
「小西さんですか」
元気な若い娘の声だ。「白浜仁美です」
「やあ。どうかね」
小西は微《ほほ》笑《え》んで言った。「そろそろ着いたころかな、と思っていたよ」
「今、あの家です」
「そうか。変りはないかね」
「多少は」
「ほう」
仁美が、金井と名乗った奇妙な老人のことを話すと、小西は、「なるほど。充分に用心してくれよ」
と、言った。
「はい。——父も母も、荷物を片付けるので手一杯ですから、よろしく、と言ってます」
「こっちこそ」
と、小西は言った。「無理を言ったが、よろしく頼むよ」
「はい」
仁美の返事は、爽《さわ》やかなほど元気だった。「また、ご連絡します」
「うん。いつでも——自宅の方でも、構わんよ。夜中だろうが、遠慮することはない」
「分りました。それじゃ」
電話が切れる前に、仁美が、「ね、その椅《い》子《す》は私のよ!」
と、叫んでいるのが聞こえて来て、小西は低く笑った。
「——ずいぶん楽しそうなお電話ですね」
と、秘書が言った。
「うん、若い女の子さ。十五歳の恋人だ」
「まあ、社長さん、捕まりますよ、そんな若い娘に手を出したら」
「恋は年齢に関係ないさ」
小西は、真《ま》面《じ》目《め》な顔で言った。
秘書の机の電話が鳴った。
「はい、社長室です。——え?」
秘書が目をパチクリさせて、小西の方を向いた。「あの……お客様です」
「誰かな。予定はなかったろう」
「刑事さんだそうです」
「刑事?」
「まさか社長さん、本当にその女の子のことを——」
「よしてくれよ」
と、小西は苦笑した。「分った。応接室へ通してくれ。——会議を二十分遅らせると連絡だ」
「はい」
小西は、ゆっくりとお茶を飲んだ。
「お茶を出します?」
と、秘書が訊《き》いた。
「もちろんだ。コーヒーがいいかもしれんな」
小西は、何本か電話をかけた。それから、特に急ぐでもなく、社長室を出る。
「——お待たせして」
と、応接室へ入って、小西は言った。
「お忙しいところを、どうも」
刑事は、ちょっと腰を浮かした。
四十五、六というところか。少し髪が白くなって、老けた感じではあるが、五十にはなっていないだろう、と小西は思った。
「ご用件は何でしょうか」
と、小西はソファに腰をおろした。
「色々、大変なことでしたね。お嬢さんはお気の毒なことで」
「恐れ入ります」
と、小西は言った。「しかし、あの事件はもうすっかり終ったと思っていましたが……」
「確かに」
と、刑事は肯いて、「ああ、失礼。——私は市村といいます」
「娘の事件の時、お目にかかりましたか?」
「いや、お会いするのは、今日が初めてですな」
市村という刑事は、出されたコーヒーをゆっくりと飲んで、「——旨《うま》い。刑事部屋で飲む紙コップのコーヒーとはまるで別ものですよ」
と、笑った。
小西も、自分の分のコーヒーを飲んだ。
「お嬢さんの事件は——」
と、市村が言った。「夫の江田洋介の一時的な錯乱によるもの、ということで、結着しています。私も、それが間違いと思っているわけではないのですが」
「何か問題が?」
小西の問いに、市村はすぐ答えなかった。どう切り出したものか迷っている、という様子である。
「実は、妙な訴えがありましてね」
と、市村は言った。
「ほう?」
「ある男からです。自分の妹の一家が行方不明になった、というのですが」
「なるほど」
「妹は三十歳。夫がいて、子供は男の子で七つ」
少し間があった。
「娘の宏子と孫の久弥が、全く同じ年齢でしたね。それはご心配なことだ」
と、小西は同情するように言った。
「全くです。——ところがその男の話では、小西さん、お宅のお嬢さんとお孫さんが殺された事件で、実《ヽ》際《ヽ》に《ヽ》殺されたのは、自分の妹たちだ、というのです」
「何ですって?」
小西は目を見開いた。
「びっくりされるのも当然です。しかし、その男が、あまりそう言い張るものですから」
と、市村は首を振って、「もちろん、単なるその男の思い込みとか妄想ということもあり得ますが」
「そんなことは……。いや、その人の言う通りなら、うちの娘と孫は生きていることになりますからね。私としても、嬉《うれ》しい、と言ってもいいくらいです。しかし——私自身、娘と孫の遺体をこの目で見ているのです」
「分っています」
と、市村は肯《うなず》いた。「その点を、確かめたくて、うかがったんです。ともかく、その男が、あんまり強く主張するものですからね」
「確かめるというと?」
「お嬢さんは、夫の江田に、かなり何度も刺されて、ひどい状態だったと聞いています」
「ええ」
小西は目を伏せた。
「もし——万に一つ、ということですが、死体が別の女性のものだったという可能性はありませんか」
「つまり……」
「親ごさんにとって、死体の確認というのは辛《つら》い仕事です。チラッと見ただけで、着ているものなどから、これで間違いない、という——」
「刑事さん」
と、小西は遮って、「確かに、あの時、私は、大変なショックを受けていました。気も動転して、いつものようには頭も働かなかったかもしれません。しかし、親は、もしかして自分の子ではないのではないか、と祈りながら見るものですよ。——本当に別人なら、こんな言い方をしては何ですが、嬉しいわけですから」
「それは当然でしょう」
「ですから、間違いはありません。あれは娘と孫でした」
「なるほど。——いや、良く分りました」
市村は、コーヒーを飲み干した。「念のためと思ってうかがったんです。——申し訳ありませんでした」
「いやいや」
小西は、そう言ってから、「しかし刑事さん」
「何か?」
「その男性は——名前は何というのか知らないが——どうして、妹さんたちが私の娘と入れかわっている、などと考えたんでしょうね」
「その辺のことが、どうもその男にもよく分っていないようなのですがね」
と、市村は言った。「ただ、妹さんが、あなたのことを話したことがあるようでしてね」
「ほう。妙な話ですな」
「まあ、世の中、色々な人間がいますから。——どうも失礼しました」
市村は立ち上がった。
——小西は、社長室へ戻った。
「お話はおすみになったんですか」
と、秘書が言った。
「うん。何とか逮捕されずにすんだよ」
と、小西は笑って言った。「ちょっと頼まれてくれないか」
「はい」
——秘書を使いに出すと、小西は内線の電話で、ビルの一階受付を呼んだ。
「——小西だ。今、市村という男が出て、そっちへ行く。すぐに帰るかどうか、見ていてくれないか。——そうだ。五十ぐらいの、コートをはおった男だ」
小西は、しばらく落ちつかない様子で、社長室の中を歩き回っていた。
電話が鳴ると、すぐに取って、
「——うむ。どうだ?——すぐ帰った? 確かか?——そうか、それならいい」
小西は肯いて、受話器を置いた。
席に戻ると、小西はしばらく考え込んでいたが、やがて引出しを開ける。——直通の私用電話が入っている。
小西は、その受話器を取ると、記憶させてある番号のボタンを押した……。
頭がヘッドレストから外れて、ガクッと落ちる。
その拍子に、広沢は目を覚ました。
「おっと……」
眠ってしまったのか。やれやれ。
車の外へ目をやって、目を丸くしてしまった。
外は真暗だ。
「畜生!」
時計を見ると、もう九時を回っている。
たっぷりと寝てしまったものだ。——あの自転車の女、ここを通ったのかな?
もし通ったとしても、眠っている広沢にわざわざ声をかけては行くまい。
「失敗したな」
と、首を振って呟《つぶや》く。
もしかしたら、と思ってエンジンをかけてみたが、むだだった。
こうなったら……。遠くても、あの町まで行くしかないだろう。まさかこんな所で夜明かしするわけにも……。
それに、腹も空いていた。
車を出ると、冷え込みが厳しいので、びっくりした。いくらかモヤモヤしていた頭も、すっきりしてしまう。
夜の道は、ほとんど見通しのきかないくらい、真暗だった。——車のダッシュボードから、懐中電灯を出して、ともかく歩き出す。
じっとしていると、寒くてたまらないのである。まだそう風がないから、いいようなものだが……。
十分ほど歩いた時だろうか、後ろの方で、カタカタという音がした。
空《そら》耳《みみ》かと思ったが、確かに近付いて来る音だ。
振り向くと——あの自転車が見えた。
女が、懐中電灯の中に浮かび上がる。
一瞬、広沢はギクッとした。女の目が、奇妙な光を放ったように見えたからだ。
——たぶん懐中電灯の光の反射だろう。
すぐに女は広沢に追いついた。
「まあ、さっきの——」
「やあ」
「どうしたんですの?」
「いや、車が動かなくなっちまってね」
「それで今まで?」
広沢は、肩をすくめて、
「あんたが通りかからないかと思って待ってる内に、眠っちまったんだ」
「まあ」
女は笑って、「でも良かった。私も、こんなに遅くなると思わなかったの。もしよろしかったら、ご一緒に?」
「そう願いたいね。俺《おれ》がこぐよ。後ろに乗ったらいい」
「え? でも重いですよ」
と、女は笑った。
「自転車が潰《つぶ》れなきゃ平気さ」
と、広沢は言った。「——さ、降りて」
幸い、自転車は二人の体重に、充分堪《た》えられた。
「こんなこと、久しぶり」
女が、広沢に後ろから抱きつくようにして、言った。
「そうかい」
「だって——子供の時ぐらいでしょ。こんな風に」
子供だったら、そんなに胸が大きくないだろうな、と広沢は思った。
背中に押しつけて来る胸のふくらみは、広沢の冷えた体を、中から暖めるのに充分だった……。
「どこへ行くんです?」
と、女が訊《き》く。
「どこでも。——電話を借りたい」
「じゃ、うちへ来て」
「いいのかい?」
「ええ。どうせ子供と二人ですもの」
「旦《だん》那《な》は?」
少し間があって、
「今夜は留守なの」
と、返事がある。
微妙なニュアンスを含んだ言い方だった。
広沢は、もしかすると、結構面白い夜になるかもしれないな、と思った……。
「——どうぞ」
女は、玄関の戸をガラッと開けた。
「じゃ、お邪魔するよ」
広沢は、中へ入った。
町をぐるっと迂《う》回《かい》するように回って、反対側へ出た町外れの家。
どうしてこんな所にポツンと家があるんだろう、と思うような一軒家だった。
家そのものは、そう古くない。狭いが、小ぎれいに片付いていた。
「不動産屋の口にうまくのせられたの」
と、女は言った。「まだこの辺に何軒もできる、ってことだったのに……」
「そうか。不運だな」
「——ママ」
男の子が出て来た。そして、広沢を見ると、ちょっと用心するように後ずさった。
「お腹《なか》空《す》いたでしょ。ごめんね」
女はそう言って、広沢へ、「そちらも、何か召し上がるでしょ?」
「そう願いたいね」
「じゃ、何か簡単なものを作るわ。休んでらして」
「すまないな」
小さな居間へ入ると、広沢は少し固めのソファに腰をおろした。
——電話しなきゃ、と思った。
しかし、今かけたところで、どうにもなるまい。明日でもいい。
ともかく、今は何か食べるものだ。
男の子が入って来て、まじまじと広沢をみつめる。
「やあ」
と、広沢は言った。
「お巡《まわ》りさん?」
「俺が? そう見えるかい」
「でなきゃ、探偵かな」
広沢は笑って、
「そうだな、似たようなもんだ」
と、言った。「パパは、どこへ行ってるんだ?」
「あっち」
と、男の子が言った。
「あっち?」
「うん。僕らとは違う所だよ。だから、会えないんだ」
会《ヽ》え《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》、というのは妙だった。しかし——まあ、子供の言うことだ。
「だめよ、邪魔しちゃ」
女が顔を出した。「さ、ご飯だから」
広沢も立ち上がった。
「——今夜は泊って行って下さい」
と、女は言った。
「悪いね、そこまで」
「いいえ」
女は微《ほほ》笑《え》んだ。「一向に構いません」
「旦那が帰ると——」
「帰りません」
女は即座に答えて、「当分は」
と、付け加えた。
「そうか。布団の余分がなきゃ、ここで寝るよ」
「ベッドがありますわ」
女が微笑む。
もう、はっきりしていた。——広沢も、ニヤリと笑う。
今夜は長い夜になるかもしれない、と思った。
しかし、それが本当に、どんなに長いものになるか、広沢には分っていなかったのだ……。