いくら用心しているとはいっても、仁美は十五歳だ。
一《いつ》旦《たん》眠ってしまえば、そう簡単に起きなくても仕方あるまい。
肩を二、三回揺すられて、やっと目を開くと、
「なあに、お母さん……」
と、舌っ足らずの声を出し、パチパチと瞬《まばた》きして——。「武彦!」
「しっ」
と、武彦が押える。
「——何時よ?」
仁美の目はベッドのわきの目覚し時計に向く。「三時? 夜中の三時でしょ」
「そうだ」
と、武彦が低い声で言った。
「何なの? まさか——」
と、仁美は武彦をにらんで、「一緒に来ていいとは言ったけど、だめよ、まだそんなことしちゃ」
「——お前、何考えてんだ?」
と、武彦は心外、という様子で、「いくら俺《おれ》でも、こんな時にそんな真《ま》似《ね》するわけないだろ。大体、お前の親父さんもお袋さんも、すぐそばにいるのに」
「じゃ、いなきゃ、やるわけ?」
「馬鹿。起きてみろよ」
「何なのよ」
「誰かが歩いてる」
仁美はベッドに起き上がった。
「どこを?」
「表さ。外の通りだ」
仁美はパジャマの上に、カーディガンをはおった。
廊下へ出る。——古い家だが、割合に広い。
「ちょっと」
仁美は足を止めて、父と母が寝ている部屋の様子をうかがった。ちょっと肩をすくめると、
「グーグー寝てる」
と、言った。「呑《のん》気《き》だなあ」
「人のこと言えるか。——こっちに来てみろよ」
武彦は、玄関を上がってすぐわきにある小部屋へと仁美を連れて行った。武彦は、ここで寝ているのである。
「何も聞こえないじゃない」
「しっ。——少し待ってろ」
表の通りに面した窓がある。もちろん、部屋の明りは消し、カーテンも引いてあった。
誰か忍び込むといけないというので、武彦が針金で即席の鉄条網みたいな物を作って、窓の所へ張ってある。
「ほら」
と、武彦は言った。
何の音か、初めは仁美にも分らなかった。風の音のようにも聞こえたが、やがてそれは小刻みな、時計の音のように変って、近付くにつれ、人の足音だと分るようになった。
「一人じゃないね」
と、仁美が言った。
「ああ。いいか、カーテンの隅の方を少し上げて、覗《のぞ》いてみろ」
「うん」
「少しだぞ、向こうもこの家のことは気にしてるはずだ。気付かれないようにしろ」
「分った」
——何だろう? 夜中の三時に、何人もの人間が、なぜ町の中を歩いているのか。
仁美は、頭を低くして、カーテンの隅の方へと膝《ひざ》で進んで行った。
「針金に引っかかるなよ。けがするぞ」
「分ってるわよ」
仁美は、カーテン全体が動かないように用心しながら、隅の方を静かに持ち上げた。
目が慣れないので、少しの間は、何も見えなかった。しかし、月が出ていて、その明りが、青白く道を照らしているのに気付くと、目に入る物がはっきりと見分けられる。
足音は、ほとんどこの家の前まで進んで来ていた。
狭い視野の中に、そ《ヽ》れ《ヽ》が入って来た。
五、六人……いや、十人以上いる。
男たちが、二列になって進んで来る。顔までは見えないが、町の男たちだろう。服装も別々だった。
異様なのは——一人一人が、みんな手に手に武器を持っていることだった。二、三人は、銃を手にしている。残りは、太い棒や、鉛管か鉄パイプらしい物。一人は、どうやら日本刀を手にしている様子だ。
その奇妙な武装した一団は、しかも、なぜか軍隊のように、しっかりと固まって歩いているのだった。
何だろう、この光景は?
仁美は何となく、背筋の寒くなるような思いを味わった。——これが自衛隊とか警官隊のような、制服姿の一団なら、行進していても少しもおかしくはない。
しかし、私服の人々が、しかも武器を持って整然と歩いて行く様《さま》は、どこか不つりあいで、歪《ゆが》んでいた。不自然そのものだった。
狭い視野の中をその行列が通り過ぎるのに、何十秒もかかってはいないだろうが、しかし、仁美には、ずいぶん長い時間のように感じられた……。
「——行ったわ」
仁美は、体中で息をついた。知らない内に、息を殺していたのだ。
「どう思う?」
と、武彦は言った。
「よく分らないけど……。一番最後にくっついてたの、昼間この家にいた、金井って人じゃない?」
「ああ、そうだ」
「何だか……気味が悪いわ。どうしてなのかよく分らないけど」
「みんな凄《すご》い目つきして歩いてただろう」
そう言われて、仁美も気が付いた。
確かにそうだ。この家の前を通り過ぎる時も、みんな油断なく左右を見ていた。
「どういうことだと思う?」
と、仁美は言った。
「分らねえよ、俺《おれ》だって」
と、武彦は肩をすくめた。「ただ、どうもまともな奴らじゃねえな、ってことは分る」
「そうね。——自警団みたいなものかしら?」
「かもしれないな」
と、武彦は肯いて、「それにしちゃ、あんな風に固まって行進したりして……。妙だよな」
「うん」
——二人は、しばらく黙っていた。
「あれ、ずっと夜の間、やってるのかしら?」
「どうかな。さっき気が付いてからは、二回、この前を通ったぜ」
「そう……」
「ま、いいさ。ともかく寝ろよ。別にここを襲って来る様子もないしな」
「起こして、あんな物見せといて、寝ろって言われたってね」
「あれ。そんなにデリケートだったっけ、お前って」
仁美は、ちょっと笑った。その笑いで、大分気が軽くなる。
「——じゃ、寝るわ。悪い夢でうなされたら、見に来てね」
「俺を起こすんだったら、よっぽど大声で叫ばないとだめだぜ」
と、武彦は笑って言った。「おやすみ」
「おやすみ。——明日はどうするの?」
「町の雰囲気次第だろ」
「そうね」
「ともかく、町を隅から隅まで一回りしてみないとな」
「私も行く」
「好きにしな」
——仁美は手を振って見せ、廊下へ出ると、自分の部屋の方へ歩いて行った。
途中、父と母の寝室のドアをそっと開けてみる。——寝息をたてて、二人ともぐっすり眠っていた。
やや部屋が狭いせいもあって、父と母は布団で寝ている。もちろん二組敷いてあって……。でもよく見ると、母が父の布団に入って、身を寄せるようにして眠っている。
仲のいいこと……。仁美はそっとドアを閉めた。
自分のベッドへ入って、目を閉じる。
ふと、昼間の電話を思い出した。小さい男の子の声の……。
「夜は外へ出ちゃいけない」
と、その男の子は言った。
あの奇妙な行進があるからだろうか? それとも、他の理由からか。
そうだ。明日は、あの電話をかけて来た男の子を捜そう。
きっと、見付けられる。こんな小さな町である。男の子といっても、数は多くないだろうし。
あの話し方、それに、声がとても近かったことからみて、この町に住んでいる子だというのは、ほぼ確実だし……。
よし、と。——これで明日やることができた。
人間、やるべきことが決まると落ちつくものだ。
仁美も落ちついて——そしてすぐに深い眠りに落ちて行った。
奇妙に寝苦しかった。
畜生……。広沢は、何度も寝返りを打ったが、その内、根負けしたように目を開けた。
夜があった。深い闇《やみ》が。
ここは?——どこだったろう?
ベッドの上。そうか。
あの女だ……。自転車に乗っていた女。
名前も聞いてなかったな、と広沢は思った。
しかしまあ……。別に知らなくたっていい。どうせ明日になりゃ、出て行くのだ。
女は、ベッドにいなかった。どこへ行ったんだろう?
ベッドの、女が寝ていた辺りに手を当ててみたが、女のぬくもりは全く残っていなかった。
子供のそばにでも行って、寝てるのかな。
広沢は、ベッドに起き上がって、欠伸《あくび》をした。
いつもなら、女を抱いた後はぐっすり眠ってしまうのだが……。今夜の女は、とんだ拾いものだった。女の方もかなりしつこかったが、広沢も大いに楽しんだ。
それでいて目が覚めたのは、やはりいくらか、奇妙な感じを持っていたからだろうか。
広沢は、シャツを着て、寝室を出た。
廊下は、ほの白く、明りに照らされている。それが月明りだと気付くのに、少しかかった。
高い所に窓があって、そこから月の光が射している。外は、結構明るいかもしれない。
広沢は便所に行って、戻りかけたが、ふと喉《のど》が乾いて、台所の方へ歩いて行った。
もちろん、どっちの方だったか、うろ憶えだ。
「おっと」
ドアを開けると、布団が敷いてあった。
やっぱり、女は子供に添い寝しているらしい。布団が盛り上がっていた。
広沢はドアを閉め、今度は台所へうまく行きついた。
明りを点《つ》けようとして、スイッチを捜す。カチッ。——カチッ、と二、三度やり直したが、明りは点かない。
「何だ。停電か」
と、呟《つぶや》く。
肩をすくめて、それでも大分目が慣れたせいもあるのか、ぼんやりと台所の中の様子は見える。
コップを見付けて、水を飲んだ。——ぬるくて、旨《うま》くもないが、仕方ない。
冷蔵庫、とも思ったが、電気が切れているのでは仕方ない、と気付いた。
寝るか。
広沢は、頭を振って、廊下を戻って行った。さっき開けたドアの前で足を止める。
もう一度、ドアを開けてみた。
布団が盛り上がって、あの女と子供が……。たぶん……。
何が気になったのか、やっと思い当った。
部屋の中が、全く静かなのだ。二人が寝ているのに、寝息が耳に届いて来ない。
もちろん、布団をほとんど頭までかぶっているからかもしれないが……。
広沢は、そっと部屋の中へ入った。畳が、キュッと鳴る。
かがみ込んで、広沢は布団の端をそっとつかむと、ゆっくりとめくった。
「何だ、これは?」
思わず、声が出ていた。
人ではない。布団を丸めた物が、人のように寝かしてあって、少し頭の先が出て見えたのは、ヘアピースだった。
どういうことだ?
これは明らかに、寝ているように見せかけるためにやってある。
誰に「見せかける」んだ?——俺《おれ》に、か。
他には考えられない。
広沢は、寝室へ戻ると、脱ぎ捨ててある自分の服を集めた。上衣の財布を確かめてみたが、別に中身もちゃんとある。
広沢は、ともかくまず服を着た。
あの女! 何を考えているんだ?
苛《いら》立《だ》っていた。何が起ろうとしているか分らないので、余計に苛立っているのだ。
ポケットにペンシルライトが入っていた。
いささか頼りない光源だが、仕方あるまい。これで、家の中を調べよう。
広沢は、慎重に、家の中を調べて回った。
もちろん、人はいない。そして気付いたことは、最近、人が住んでいなかったらしい、ということだ。
台所や寝室以外の部屋はほとんど見ていなかったので、気付かなかったのである。
すると、あの女は、空家へ広沢を連れて来たのか?
しかし、子供は家で待っていたし……。
時計を見る。——三時半を少し回っていた。
よし。外へ出よう。
しばらくすると夜も明けて来る。どうせ目が覚めてしまったのだし。
広沢は玄関へ行った。自分の靴だけが、きちんと揃《そろ》えて置いてある。
広沢は、ちょっと表の様子をうかがってから、戸を開けようとした。
動かない。——変だな、と思った。
鍵《かぎ》はかかっていないのに。
力をこめても、戸はミシミシときしむばかりで、一向に開かないのだ。
すりガラスをはめた格子戸で、そう頑丈とも思えなかったが、広沢が必死で力をこめても、だめだ。
「——畜生!」
どうなってるんだ!
広沢は、靴を持って上がると、手近な部屋の窓から出ようとした。
そして、ペンシルライトで、窓を照らしてみて、愕《がく》然《ぜん》とした。
板《ヽ》を外から打ちつけて、完全にふさいである。
次から次へと、全部の部屋を調べてみた。
どの窓も、だ。
この家へ来た時は、外見などろくに見もしなかったが……。
ただ、廊下に月の光を誘い入れた高い窓だけが、板でふさがれていなかったが、その窓は細長くて、とても人間が出られる幅はないのだ。
全身に汗をかいていた。
——広沢は、自分がとんでもない所へやって来たらしい、とやっと気付いたのだった……。
小西晃介は、ベッドで目を開いた。
電話が鳴っている。——ほとんど無意識の内に手が動いて、受話器を取っていた。
「小西だ」
向うの話に耳を傾ける内、小西の顔は、厳しく引き締《しま》って、眠気はたちまち消し飛んでしまった。
「——分った。ともかく、何とかして落ちつかせておいてくれ」
と、小西は言った。「——ああ、すぐそっちへ行く。一時間かな。——よろしく頼むよ」
電話を切ると、小西はベッドから出た。
仕度をするのも、若者並みの手早さである。
小西は、都心の一等地のマンションに住んでいる。何といっても、通勤も楽であった。
部屋を出て、人気のない廊下をエレベーターへと急ぐ。
午前三時半だ。——いくら夜ふかしの多いマンション族も、この時間は眠っているだろう。
駐車場へ下りて行くと、小西は、自分の車へと急ぐ。
そして——足を止めた。
車と車の間に、誰かが身をかがめていたのだ。
「誰だ」
と、小西は言った。「出て来い」
少し間があって、
「分ったよ」
と、返事がある。
姿を見せたのは、革ジャンパー姿の、二十歳ぐらいの若者だった。
「何をしていたんだ?」
と、小西は言った。
「見りゃ分るだろ」
と、若者は肩をすくめる。
「質問しているんだ。答えろ」
小西の口調と、よく通る声には迫力があった。
「ケチな泥棒さ」
と、若者は言った。「高そうな車ばっかりだしな。うまく車ごと盗めりゃ、儲《もう》けもんだし、だめでも、中に何か金目の物があるかもしれねえだろ」
「ケチな泥棒か」
と、小西は言った。「ケチだと自分でも思うのか」
小西の言葉に、若者は戸惑った様子で、
「決まってるじゃねえか。少なくとも、大泥棒じゃねえしな」
「なら、なぜやるんだ」
「お説教はやめてくれ」
と、口を尖《とが》らす。「あんたに関係ねえだろう。警察を呼びたきゃ、呼べよ」
小西は、ちょっとの間、若者を見ていた。
細身だが、いかにもバネのいい体だった。
「——車の運転はできるのか」
と、小西は訊《き》いた。
「当り前だい。ただし、免許は取り上げられてて、持ってねえけどな」
「腕に自信は?」
「俺は元レーサーだったんだぜ。事故を起してやめたけどな」
「信じておこう」
と、小西は言った。「仕事がある。やるか」
「何だって?」
「私の車を運転して、できるだけ早く、目的地へ着くことだ。私の車はそのベンツだ。——どうする?」
若者は、呆《あつ》気《け》に取られて小西を見ていた。
「決めるのは早くしてくれ。急いでる」
「分った。やるよ」
と、若者は言った。「面白そうだしな」
「よし、乗れ」
小西は、キーを出して車のドアを開けると、自分は助手席に乗った。
若者は、運転席について、シートを調節した。口笛を吹いて、
「凄《すご》いシートだな。尻《しり》がくっついちまいそうだ」
と、言った。
「行先はここだ」
小西はメモを渡した。簡単な略図である。
「分るか?」
「暴走族だったころ、よく走ったぜ」
と、若者は言って、エンジンをかけた。
車体が震える。
「——どれぐらいかかる?」
「そりゃまあ——一時間だな」
「半分で行けるか」
若者は小西を見た。
「信号を守ってちゃ、無理だぜ」
「なら、守らなくていい。ただし、事故は起すな」
「分った」
若者は、ニヤリと笑った。「面白いな、あんたって人は」
「行こう」
いきなり車がバックして、
「ワッ!」
と、若者が声を上げた。「畜生、バックに入れたのか」
「大丈夫か?」
と、小西が顔をしかめた。
「見てろ」
ベンツが、猛然と飛び出した。
地下の駐車場から、一気に坂を上って、通りへとジャンプしながら躍り出ると、タイヤをきしませながら、スピードはたちまち百キロを超えていた。