「——あれだ」
と、小西は、遠くに見える灯を指して、言った。「二十五分だ」
「楽に着けるぜ」
と、若者は言った。「——おい」
「何だ?」
「向うに、トイレあるか」
「ああ、もちろんだ」
「そうか。——肝を冷やした」
若者の顔は、汗で濡《ぬ》れていた。
信号無視、パトカーをふっ切ること二回。
「こんな思いは初めてだ」
と、若者は言った。「年中こんなことをやるのかい?」
「いいから急いでくれ」
小西は、じっと前方を見つめている。
その顔には、汗の一粒も見当らなかった。
「——ここを入るんだな」
わき道へと車が入る。タイヤの下で、砂利が鳴った。
ぐるっと回りながら、小高い丘へと上って行く。目の前に、三階建の、どっしりとした石造りの建物が立ちはだかった。
「正面につけろ」
と、小西は言った。「二十六分だ。よくやった」
「ああ……」
若者は体中で息をつくと、車を停めて、エンジンを切った。
建物の玄関が開いて、誰かが駆け出して来る。
「小西さん! ずいぶん早く——」
「様子は?」
小西は、もう車から出ている。
「今は少し落ちついています。——どなたか?」
「運転手です。ああ、トイレを借りたい、と……」
「分りました。ともかく中へ。先生が待っています」
「分りました」
小西が中へ入って行こうとして、振り向くと、
「私は小西だ。君の名前は?」
若者は、車から出て、
「三神。三神一郎だよ」
「三神か。待っててくれ」
「ああ」
——三神一郎は、小西が足早に中に入って行くと、息をついて、その建物を見上げた。
何の建物か、見当もつかない。
個人の家にしては、大き過ぎるという気がした。といってホテルでもない。
「どうぞ」
と、初めに出て来た男が、三神を促《うなが》した。
中へ入って、三神は納得した。——ここは病院なのだ。
薬の匂《にお》いが、しみついている。
「そっちがトイレです」
「ありがとう」
三神は、トイレで用を足すと、洗面所で、何度も顔を洗った。
まだ心臓が高鳴っている。——運転に自信はあったが、しかし、現実にやるのは別の話だった。
あの小西という男……。
「妙な奴だぜ」
と、鏡を見て、呟《つぶや》く。
くたびれはしたが、気分はさっぱりしていた。こんなに爽《そう》快《かい》な思いをしたのは、久しぶりのことだ。
玄関ホールへ戻って、三神は、中を改めて見回した。
大理石の冷たい床。階段も手すりも、石造りで重苦しい。
照明は、ほの暗かった。
病院か。——すると、あの小西の家族かなんかがここへ入院していて、具合が悪いのかもしれない。
しかし、車がどんな危なっかしい場面に出くわしても、身じろぎもしない、あの男。
三神は、小西という男に、参っていた。
やられた、と思った。とてもかなわない、と……。
三神が、こんな気持を抱く人間に出会ったのは、おそらくこれが初めてだった。
しかし……何の病院なんだろう?
所在ないので、三神は、階段をゆっくりと上って行った。
すると——奇妙な声がした。
声? いや、「音」だろうか?
よく分らない。しかし、ともかく人の声とは思えなかった。細く、長く、嘆き悲しむように——あるいは何かを訴えるように……。
そう。まるで、映画とかで聞く、狼《おおかみ》の遠《とお》吠《ぼ》えのようだ。
何だか気味が悪くなって、三神は、上りかけた階段を、また下りてしまった。
表に出てみる。まだ、少し頬《ほお》がほてっていたのだ。
空を仰ぐと、月が冴《さ》え冴《ざ》えと青白い光を発散している。
月夜か。——やっと、気付いた。
建物を見上げると、二階のいくつかの窓に明りが灯っていた。さっきは暗かったから、小西が、あそこへ行ったのかもしれない。
明りが点《つ》いて、窓に鉄格子がはまっているのが分った。
自殺防止かな。——してみると、ここはノイローゼとか、分裂症の人間を入れているのだろうか。
こういう郊外には、確かに珍しくはないが……。もちろん、間近に見るのは、初めてである。
三神は、玄関のドアの所へ戻った。
ドアを開けて、中へ入った時、階段の上の方から、絞り出すような女の叫び声が響いて来て、飛び上がりそうになった。
と——騒ぐ声。
「捕まえろ!」
「早く!」
と、口々に怒鳴っている。
バタバタと足音がして、目の前に——若い女が飛び出して来た。
呆《あつ》気《け》に取られている三神の方へ、その女は真直ぐに向って来た。
白い寝衣が旗のように翻って、長い髪が波打つ。蒼《そう》白《はく》な顔の女は、目を大きく見開いて、三神に向って走って来た。
「おい——」
三神は、反射的に女をよけていた。
しかし、女は、そのまま駆け抜けるのではなく、三神につかみかかって来たのだ。あわてて、手を払いのけようとしたが——。
凄《すご》い力だ! 三神は焦った。
女の手を振り離そうとしている内に、床へ押し倒されていた。
「おい! 何だ! よせ!」
女の指は、三神の目を狙《ねら》っていた。目をえぐられそうだ。
三神は、必死で、女の両手首をつかんで、押し返した。
しかし女は体重をかけて、指を伸ばして来る。女の目には、殺気以上の何かがあった。
「誰か! 誰か来てくれ!」
三神は助けを求めていた。恥も何もない。
ドタドタと数人の足音が響いて、三人の男が女を捕まえ、三神から引き離した。
「——大丈夫か?」
と、小西が言った。
「何とか……」
三神は起き上がって、頭を振った。「びっくりしたぜ……」
「すまん。用心したんだがな。けがはなかったか?」
「うん」
三神は、立ち上がって、「しかし——物騒な所だな」
と、言った。
三神は、玄関脇《わき》の小部屋へ通されて、コーヒーを出してもらった。
ゆっくり飲んでいると、ドアが開いて、小西が入って来る。
「うまいよ、コーヒー」
「そうか」
小西は、ソファに身を沈めた。
しばらく、沈黙があって、
「——ここは、病院か」
と、三神が言った。
「まあ、そんなところだ」
「誰か、知り合いが?」
「うむ」
「ま、俺《おれ》にゃ関係ない」
と、三神は肩をすくめて、「もう帰るのかい?」
「運転を頼めるか?」
「いいけど……」
「帰りは一時間でいい」
「助かった!」
と、三神はホッとして言った。
「確かに君の腕はいい。どうだ、私の車をずっと運転しないか」
「ずっと?」
「そうだ。私も運転はできるが、考える時間が少しでもほしい。君に運転を任せれば、楽だ」
「運転手か」
「いやなら、無理にとは言わん」
三神は、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。
「——給料は出るのかい?」
「当り前だ」
「分った。やるよ」
アッサリと返事をしたのが、自分でも、意外だった。
自分で思っていた以上に、この小西という男に惚《ほ》れたらしい。
「一つ、条件がある」
と、小西が言った。
「何だい?」
「この病院のことを、一切他言しないこと。どんな親しい人間にも、だ。一言でも洩《も》らしたら、即座にクビだ」
小西の言葉は明快な、間違えようのないものだった。
「OK。承知した」
「では、今から、『分りました』と言ってもらう」
三神は肯いて、
「分りました。——社長、かな?」
「それでいい」
小西も微《ほほ》笑《え》んで、「行こう」
と、立ち上がった。
目が開くと、朝の光が、ほの白く天井に映っていた。
「あ、もう……」
仁美は、起き上がった。
台所の方から、音がする。仁美はパジャマ姿で、歩いて行った。
「お母さん。早いね」
と、声をかけると、
「あら、起きたの?」
千代子が振り向く。「そう早くもないわよ。武彦君は?」
「叩《たた》き起こしてやる」
「よしなさい」
ヌッと当の武彦が顔を出して、
「誰を叩き起こすって?」
「何だ、起きてたの?」
「お前なんか、まだパジャマじゃないか」
「エッチ!」
仁美は舌を出してやった。
「それでも女か、お前?」
「大きなお世話」
仁美は、着替えをして、顔を洗うと、朝食のテーブルについた。
「お父さんは?」
「まだ寝てるわ。疲れたんでしょ」
と、千代子が、ご飯をよそって言った。
「お母さんがお父さんの布団へ入ってったからよ」
「何言ってるの」
と、千代子が、赤くなった……。
「——一つ問題がありますね」
と、武彦が言った。「おじさんの仕事、それから、僕と仁美の学校」
「そう。主人はね、自由業ってことになってるの。何か、ボロの出にくい、いい仕事、ないかしら」
「そんな都合のいい仕事なんて」
と、仁美は笑って言った。「私はね、病気療養中なの」
「どの辺が? 頭の中か」
「ひどい!」
と、仁美はムッとして言った。「見るからにき《ヽ》ゃ《ヽ》し《ヽ》ゃ《ヽ》でしょ」
「そうかなあ……」
と、武彦は真剣に考えている。
その内に、白浜も起きて来て、取りあえずは、映画のプロデューサーだということにしよう、と決まった。
「たまに出かけりゃ、そう見えるだろう。ラフな格好をして、歩き回ったり」
「歩き回る暇がありゃね」
と、仁美は言った。「ね、武彦、ゆうべのこと」
「うん」
武彦がゆうべの奇妙な行進のことを話してやると、千代子は、
「気味が悪いわね」
と、眉《まゆ》をひそめた。
「そりゃ、この話がもともと気持のいいもんじゃないからね」
と、仁美は言った。「ともかく、朝ご飯すんだら、武彦と二人で、町を歩いてみる」
「気を付けてね。私は、ご近所を回ってみるわ」
「大丈夫よ。武彦がついてるもん。——ねえ?」
「え?——ああ」
「何よ、気がないわね」
「ゆうべな……」
「ゆうべのことなら——」
「いや、お前が眠った後だ。何だか妙な声を聞いたんだよ」
「声?」
「いや——人間の、かどうか分らないけど。何だか獣の声みたいだった。狼の遠《とお》吠《ぼ》えみたいな、さ」
「狼?」
「いや、犬かもしれないけど、本当に、狼みたいに聞こえたんだ」
「日本にはもう、いないのよ」
「知ってる。——何だったのかな」
武彦は、何か、引っかかることがある様子だった。
——食事の後、武彦と仁美は、町へ出てみることにした。
「待ってろ」
と、武彦は出がけに、一《いつ》旦《たん》引っ込んで、戻って来た。
「どうしたの?」
「これさ」
武彦の手には、ここへ来た時、あの金井という老人から取り上げたナイフがあった。
「持って行くの?」
「万が一、ってこともあるからな」
「そうだね」
二人は町へ出た。
もう、日射しは大分高くなっていた。