「どこに行く?」
と、仁美は訊《き》いた。
「そうだな」
と、武彦は道に立って、周囲を見回した。「あの丘に上ってみるか」
「丘?」
と、仁美は武彦の視線を目で追って、「——ああ、あれね」
小高い丘が、ちょうど町を見下ろす格好で、屋根の向うに覗《のぞ》いている。
「町全体を見渡すには、高い所へ上るのが一番さ」
と、武彦は言った。「行こう」
「だけどさ——」
「何だよ?」
「馬鹿は高い所に上りたがる、とも言うわよね」
「こいつ!」
二人が道を歩いて行くと、少し遅い出勤らしいサラリーマン風の男が二人、三人と連れ立って、やって来た。
「——バスでしょうね、ここからは」
と、仁美は言った。
「うん。——よく、こんな所から通う気になるよな」
「仕方ないじゃない。家族持ったら、働くしかないし」
「まあ、そりゃそうだけど」
武彦と仁美の方を、誰もがチラチラ見て行く。
「——ちょっと有名人になった気分」
「呑《のん》気《き》な奴だな」
と、武彦は苦笑した。「今の中に、ゆうべの妙な行進に加わってたのが、二人はいたぜ」
「確か?」
「人の顔は忘れないよ」
仁美は首を振って、
「でも、こうして見てると、別に、どうってことのない、小さな町だけどね」
と、言った。
「その電話して来た男の子が言ったんだろう? 『夜は外へ出るな』って」
「うん。——昼間は大丈夫、ってことなのかもね」
「ともかく、町の中をよく知っとかないといけないな」
二人は、もう町の外れまで来ていた。
「その辺から上れそうだぜ」
「細い道があるよ」
「行ってみよう」
二人は、ゆるい上りになっている林の中の道を、辿《たど》って行った。
「——そうだ」
と、仁美は思い出したように、「ねえ、武彦」
「何だ?」
「私たちのこと、どうする?」
「何だよ、いきなり」
と、武彦が面食らって、「どうする、って悩むような仲じゃないだろ、まだ」
「馬鹿」
と、仁美は武彦をつついてやった。「町の人たちに何て言うか、よ。——兄妹ってことにしとく? まさか恋人で同《どう》棲《せい》させてますとも言えないでしょ」
「よせやい」
と、武彦、少し照れている。
「じゃ、番犬ですって言っとくか」
「犬扱いするな!」
と、ムッとした様子で、「いいよ。俺《おれ》は——従兄《いとこ》ってことにしよう」
「従《い》兄《と》妹《こ》同士か。——それ、いいね」
仁美は、武彦の腕を取って、「ちょっとスリルもあるし」
「お前、何考えてんだよ」
と、武彦は照れている。「スリルなら、いくらでも、これから出て来るぜ」
——ともかく、二人は、丘の一番高い所まで上ってみた。
「町全体も、少し高低があるのね」
と、仁美は言った。
そうなのだ。町の中にいるとよく分らないのだが、仁美たちのいる家は町の高い方にあり、そこから、だらだらと下りになって、町の端まで続いている。
もう、朝の仕事に、主婦たちが精を出し始める時間だった。
どの家でも、窓のカーテンが開けられ、中に忙しく動く人の影が見えた。
「今ごろ出かけてく人もいる」
と、仁美は指さした。
「どこかの奥さんだな。パートか何かに出てるのかもしれないぜ」
「——別に、どこといって、変った所もないみたい」
「一見したところじゃな」
と、武彦が肯《うなず》いた。「だけど、やっぱり何か起こってるんだ。ゆうべのことだって、まともじゃないもんな」
「うん……」
しかし、何が起こっているというのだろうか? 仁美には、見当もつかない。
少し、風が吹いて来た。
「風、冷たいね」
と、仁美が首をすぼめる。「やっぱり、都心の方に比べると寒い」
「そうだな。——大丈夫か?」
「抱いてくれないの。冷たいのね」
「だって……」
仁美の方から体を寄りかからせて行くと、武彦は、
「重てえな……」
とか何とか言いながら、仁美の肩に手を回した。
ふと、仁美は、背後にガサッという、枝のこすれるような音を聞いて、振り返った。
「あら」
五つか六つぐらいの、女の子が立っていた。
「やあ」
と、武彦が言った。「君——町に住んでるの?」
女の子は、答えなかった。警戒するような目で、二人を見つめている。
どこか、妙な印象を受けた。——仁美は、ふと、どうしてこの女の子がこんな所にいるのかしら、と思った。
子供が一人で遊びに来る、といった場所ではない。それに——どこから来たのだろう。いつ?
近付いて来れば、足音がするはずだ。
そう思って、初めて気付いた。——女の子は裸《ヽ》足《ヽ》だった。
「あなた、お名前は?」
と、仁美が訊《き》く。
女の子は、仁美の言葉が耳に入らなかったのか、武彦の方を、じっと見つめていた。
「——武彦のこと、気に入ったみたいよ」
「よせやい」
——女の子の格好も、何だか妙ではあった。白のブラウスと、えんじ色のスカート。
よそ行き、という格好だが、どっちも、土や埃《ほこり》で、ずいぶん汚れてしまっている。
髪の毛も、ずいぶん長いこと、洗っていないようで、細かい枯葉が、引っかかったりしている。まるで、地べたに寝ている、とでもいう様子だ。
「どこの家なの?」
と、仁美は女の子の方へかがみ込んで、訊いた。「お姉ちゃんに教えてくれるかなあ、指さして」
女の子は、仁美のことを完全に無視していて、武彦の方へと近寄って行くと、何を思ったのか、ぐるっと武彦の周囲を回った。
「何してんだ?」
武彦は戸惑っていた。
「ね、ちょっと——」
と、仁美が手を伸し、女の子の肩に触れると、突然女の子は、電気にでも打たれたように飛び上がり、金切り声を上げた。
これには仁美の方がびっくりして、呆《あつ》気《け》に取られた。
「ごめん! びっくりした?」
女の子が、パッと駆け出す。
「おい、待てよ!」
と、武彦が素早く女の子の腕をつかまえた。
と——女の子がパッと振り向き、いきなり武彦の手にかみついた。
「ワッ!」
武彦が声を上げた。不意の出来事で、仁美も、すぐには動くこともできなかった。
武彦が、右手を押えて、うずくまる。女の子の方は、信じられないような早さで、たちまち走り去り、木立ちの間に姿を消してしまった。
「——あの子、何なの?」
と、仁美は呆《ぼう》然《ぜん》としている。
「まるで犬だぜ! 畜生!」
武彦が顔をしかめた。
「——大丈夫?」
「そうでもねえよ」
かまれたところを押えていた左手を離すと、血が流れ落ちた。
「ひどい! ね、ハンカチ——これで縛ってあげる」
「まるで牙《きば》でも持ってるみたいだったぜ」
と、武彦は息をついて、「ただかみついただけにしちゃ、凄《すご》いよ」
「ほら……。ほら、手を上げて。——ここで縛るから」
思い切り、力をこめて、仁美は武彦の腕を縛った。——まだ出血している。
傷は割合深いようだ。
「お医者に見せないと」
「なに、平気さ。血さえ止れば」
「だめよ! 何か菌でも入ったら……。あの子、まるで浮浪児みたいだったわ」
「そうだな。しかし、都会ならともかく、こんな所に浮浪児なんて、いるのか?」
「知らないわ。——ともかく、家へ戻りましょ。この町じゃ、いいお医者さんなんて、ないかもしれないわね」
仁美は、武彦の腕を取って、急いで丘を下りて行った。
「何だ」
と、声がした。「お前、こんな所で何してる」
小西のベンツを洗っていた三神一郎は、手を止めて、振り返った。
「何だ、刑事さんか」
市村刑事だったかな、こいつ。三神は辛《かろ》うじて名前を思い出した。
「どこかで見たことのある顔だな、とさっきから思ってたんだ」
ビルの裏手の駐車場。——三神は、小西の外出の前に、車を洗ったところだった。
「市村さんだったね」
と、三神は息をついて、「何か事件なのかい?」
「いや。ちょっとな」
市村は、きちんと背広を着て、ネクタイをしめた三神を眺めて、「いや、びっくりした!」
「馬《ま》子《ご》にも衣装さ」
と、三神は笑った。
市村という刑事には、割合、いい印象を持っている。三神のように、年中何かやらかしていると、刑事も頭から犯人と決めてかかるので、ずいぶん、やってもいないことで挙げられたりもしたものだ。
しかし、市村は、そんな時でも一応、三神の話に耳を傾けてくれる数少ない一人だった。
「この車は?」
と、市村がベンツを見て、訊く。
「小西さんのだよ」
「小西晃介?」
と、市村が、びっくりしたように言った。
「何かまずいのかい」
「いや、そんなことはないが……。ちょっと、この前、用事で会ったもんでな」
と、市村は言って、「じゃ、小西の運転手をやってるのか」
「うん。——ちゃんと、正式に雇われてるんだぜ」
「分ってる」
市村は肯《うなず》いて、「しかし、良かったな。お前は真《ま》面《じ》目《め》に働く方が似合ってる」
「そうかな」
と、三神は少し照れて肩をすくめた。「——おっと」
ポケットで、ブーッとブザーが鳴った。
「お呼びか」
「ああ。じゃ、仕事だから、失礼するぜ」
「頑張れよ」
市村は、ポンと三神の肩を叩《たた》いて、歩いて行った。
三神は、ベンツに乗り込むと、エンジンをかけた。——よし、この音なら、大丈夫だ。
しかし……。刑事がどうして、こんな所をうろついてるんだろう?
三神は、ちょっと肩をすくめて、車を走らせた。
——ビルの正面につけると、ちょうど小西が一人で出て来るところだった。
「社長、早いですね。今日は」
と、ドアを開けながら、言うと、
「くたびれたよ。朝から会議だ。——人間に会うってのはくたびれる」
小西が、座席に寛《くつろ》ぐ。三神は運転席に戻って、
「どちらへ?」
と、訊《き》いた。
「うむ。——病院へやってくれ」
「分りました」
ただ「病院」と言う時は、あ《ヽ》の《ヽ》病院のことなのである。
三神は、車の流れの中へ、ベンツを割り込ませて、
「急ぎますか」
と、訊いた。
「そうだな。あの時ほどじゃなくてもいい」
「はい」
と、三神は答えて笑った。
——もう一週間になる。小西の車を、初めて運転してから。
しかし、三神にとって、この一週間は、いやに短く感じられた。
働くなんてことは、およそ性に合わないと思っていたのだが、小西という男への敬服の念が、三神を楽しくさせていたのだ。
あの病院のことを、三神は何も知ってはいない。
小西も、話したがらないのは明らかだった。
しかし、この一週間だけでも、小西があの病院へ行くのは、これで三回目。
多忙な小西のスケジュールを考えれば、大変な時間を費やしていることになる。
よほど親しい人間が、入院しているのだろう。——もちろん、三神の知ったことではなかったが。
あの時、階段を駆け下りて来て、三神に飛びかかって来た女。あれが、小西の見舞う相手なのだろうか?
もしそうだとすれば、あの女は、小西の娘ぐらいの年齢である。
何か時々、発作を起こして凶暴になるとか、大方、そんなところだろう。
家の中に病人がいるというのも、辛《つら》いものだ。——三神にも、経験があった。
「待て」
と、小西が言った。
ベンツを道のわきへ寄せて、
「——どうしました?」
「仕事を思い出した」
と、小西は舌打ちした。「仕方ないな。ホテルPへ行ってくれ」
「分りました」
三神は車を強引にUターンさせた。
少し走らせると、
「三神」
と、小西が言った。
「はい」
「私はホテルで降りる。その後、一人であの病院へ行ってくれないか」
「何かご用事でも?」
「これを届けてくれ」
小西に渡されたのは、小さな箱だった。きちんと紙に包んである。
「誰に渡せば?」
「あの入口の男でいい。電話して、分るようにしておく」
「はい」
その包みを、三神はダッシュボードの中へしまい込んだ。「その後は?」
「それだけだ。——たぶんホテルPに泊ることになるだろう」
「じゃ、明朝のお迎えは?」
「ホテルPへ電話を入れてくれ。朝の八時にな」
「分りました」
——ホテルか。女かな?
もちろん、小西に女がいても、おかしくはない。
ホテルの正面で、小西は降りると、
「じゃ、頼むぞ」
と、三神へ声をかけた。
一人になると、やはり何となくホッとする。
小西は、三神の免許証も取り戻してくれたし、女の所を転々としていたのを、小ぎれいなアパートの一部屋も用意してくれた。この背広も、もちろん小西の金で買ったものである。
全く、不思議な男だ。
ともかく、三神は再び車であの病院へと向かった。
——着いたころには、もうすっかり暗くなっていた。
三神が車を出ると、入口のドアが開いて、いつも受付にいる男が顔を出した。
「やあ、ご苦労さん」
「どうも」
と、三神は言って、「これを、小西さんから——」
「ええ、聞いてますよ。ともかく入って下さい」
「それじゃ」
三神は、病院の中へ入った。——あまり、長居したくなる所ではないが。
「そこで休んでて下さい。この箱ですね。確かに渡しますから」
人の好《よ》い、話し好きな男で、いつも小西が誰かを見舞っている間、三神にお茶など出してくれる。
「——どうです、コーヒーでも」
「ありがたいな。いただけますか」
「ちょうど、いれようと思ってたとこなんですよ。——ちょっと待ってて下さい。インスタントじゃ、おいしくない。ちゃんとドリップでいれますから」
「どうも」
と、三神は言って、小さな部屋のソファに腰をおろした。
一人になって、ドアが少し開いているので、つい、耳に神経を集中してしまう。
泣くような声、呻《うめ》くような声、甲高い笑い声……。
遠くから、様々に響いて聞こえて来るので、それはいっそう幻想的とでも言いたいような印象を与えた。
三神は、伸びをして、天井に目をやった。すると——布を引きずるような音がした。
開けたままのドアの方へ目をやると、何か白いものがチラッと見えたようだったが——。
しかし、錯覚かもしれない。
それくらい、ほんの短い間のことだったのだ。別に、どうってことじゃあるまい。
三神は、欠伸《あくび》をした。——すぐに、受付の男が戻って来て、
「やあ、お待たせして」
と、手をこすり合せ、「さて、旨《うま》いコーヒーをいれますよ」
と、やけに張り切っている……。