「今晩は」
と、仁美は言った。
その男の子は、ただ黙って頭を下げただけだった。
「まあ。ちゃんと挨《あい》拶《さつ》ぐらいしなさい」
と、母親が顔をしかめる。
「いいんです。二人になったら、ちゃんと話すもんね」
仁美は、ニッコリと笑って見せた。
「本当に、人見知りな子で……」
田所弘江は、仁美にお茶を出した。「——以前はそうでもなかったんですけどね。父親がいなくなってから、やっぱり寂しいんだと思いますわ」
仁美は、あんまり色々当人のことを、母親と目の前で話さない方がいい、と思った。
「じゃ、早速始めようか」
と進へ声をかける。
「いいよ」
と、あまり気のない様子で、進は言った。
「じゃ、よろしくお願いします」
と、田所弘江は仁美に頭を下げた。
中学三年生で家庭教師をやるというのも、何だか照れくさかったが、別に仁美の方から売り込んだわけではない。弘江が、白浜家へやって来て、
「お宅にお嬢さんがおられるそうですけど、うちの子の勉強を見ていただけませんか」
と、頼んだのだ。
五年生といえば、算数の問題など、結構むずかしい。しかし、仁美は、まあ成績もいい方だし、男の子相手に、教えるのも面白いだろうと思ったのだ。
それに、大人の話はどこまで信じていいか分らないところもあるが、子供となら、勉強途中の雑談などで、何か、手がかりらしいものがつかめるかもしれない。
「——ふーん」
と、仁美は、進の部屋へ入って中を見回すと、「なかなかよく片付いてるじゃない」
「そう?」
と、進は面白くもなさそうで、「教科書はこれ」
「はいはい。——じゃ、一番の問題は、算数ね」
進の机のそばに、もう一つ椅《い》子《す》を置いて、仁美はそこに腰をおろした。
「そんなに成績悪くないよ」
と、進は、やや不本意という様子。
「ま、ともかく五年生だもんね。もう来年は六年。中学受験ってこともあるから、お母さん、心配してるんでしょ」
仁美は、進の教科書を広げながら、言った……。
——この町へ、白浜たちがやって来て、一週間たつ。
生活のテンポも、やっと少しでき始めて来たところだ。
しかし、肝心の、小西からの頼みの件は、一向にはかどっていない。——もちろん、そう焦って、危険を招くことはないのだが。
町へ着いた夜、武彦と見た、「奇妙な行進」も、あれ以来ないようだ。
町の人たちとも、大分顔見知りになっていたが、少なくとも、表面上は何事もなく過ぎていた。——愛《あい》想《そ》のいい人も、悪い人もいる。
どこの町でも、それは変らなかった。
奇妙な出来事といえば、あの武彦にかみついた女の子のことだろうが、あれ以来、一度も見かけていない。かまれた傷も、やっと良くなって来ていた。
時々、小西から電話が入る。
しかし、小西も、
「決して急がずにやってくれよ」
と、念を押していた。
仁美は、この町へ来た時、夜は外へ出るな、と電話して来た男の子のことが、気になっていた。
それらしい年齢の男の子は、町に四、五人いた。この進もその一人で、家庭教師を引き受けたのも、それが理由の一つだったのである。
——勉強を始めると、進も結構熱心になった。
仁美としても、ちょうど教えやすい感じで、あまり経験のないことだけに、楽しかった。
「あ、もう一時間以上たったね」
と、仁美はふと気付いて、「じゃ、一息入れようか」
「うん」
進は肯《うなず》いた。「じゃ、お母さんにそう言って来る」
途中でお茶菓子を出してくれるのである。——まあ、家庭教師の役得の一つだろう。
進が部屋を出て行くと、仁美は椅子から立ち上がって、腰を伸した。
慣れていないので、つい力が入ってしまうのだろう。
ゆっくりと頭をめぐらして、本棚の本を見る。——なかなか、健全な読書傾向である。
ふと、一枚の写真に目が止った。
古いカラー写真で、本の隙《すき》間《ま》に、雑誌の付録らしいボール紙の写真立てに入れて、置いてあった。
一人は進だ。——二年くらい前のものか。
そして一緒にうつっている女の子。おそらく、進の妹だろうか……。
もしかして、この女の子は——。
面影がある。武彦にかみついた、あの女の子の。
進の父親は、仕事の関係で、ここを離れているという。そして進の妹は、病気で長期に入院している、という話だった……。
「——はい」
と、ドアが開いて、進が自ら盆を運んで来た。
「あら、悪いわね」
と、仁美は盆を受け取った。
二人で紅茶を飲み、ケーキを食べながら、
「進君の妹って、何ていう名?」
と、訊《き》いた。
「ルミ」
「ルミ、か。ルミちゃんって、いくつなの、今?」
「五歳だよ」
五つ。——あの女の子も、それぐらいではなかったか。
「そう。五つで、入院か。可《か》哀《わい》そうだね」
「うん」
進は、あまり話したくないようだった。
ふと、仁美は、進の目に光るものを見たような気がした。——涙か?
たぶん、何かあるのだ。ただ、病気で入院しているという以上のことが、何か……。
今夜は、仁美もそれ以上訊かないことにした。
「——小西さんは、よくできた人だね」
と、受付の男は、三神にコーヒーをいれながら、言った。
「そうですね。まだ短い付合いだけど……」
三神は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。「旨《うま》いなあ!」
「そうかい?」
と、男は嬉《うれ》しそうに、「これでもね、なかなかこってるんだよ」
「——小西さんの家の人ですか、入院してるのは?」
と、三神はさりげなく訊いた。
「そいつは、秘密さ」
「ああ、それじゃいいです。すみません」
「いや」
受付の男は、首を振って、「それにね、私も知らないんだ。正確なところはね」
と、言った。
「そうですか」
「ま、年齢とか、面会した時の感じで、大体、見当はつくけどね」
「でしょうね」
「まあ……。小西さんは大変だ。二《ヽ》人《ヽ》だからね」
「二人?」
「そう。たぶん、娘さんと孫じゃないかな」
娘と孫……。
三神は、ちょっと眉《まゆ》を寄せた。
小西のビルで働いている人間から、聞いていたのだ。小西の娘と孫が、かなり悲《ひ》惨《さん》な死に方をした、と。
——では、ここに入っているのは、誰なのだろう?
「長居しちまって」
三神は、空のカップを置いて、「ごちそうさま」
と、立ち上がった。
「もう行くのかい」
「ええ。何しろ遠いですからね」
三神は会釈して、病院を出た。
ベンツを運転して、広い道へ入ると、少しスピードを上げる。
小西の娘と孫、か……。
何かありそうだ。——もちろん、三神の知ったことではないのだけれど。
——工事中の灯が見えた。
赤いランプが点滅している。三神は、スピードを落とした。
すると、突然、
「停らないで」
と、後ろで声がした。
三神は、びっくりして振り向いた。
「停めないで! このまま走って」
女がいる。——後ろの座席の床に、うずくまっていたのだ。
「君は——」
「このまま走って!」
「ああ……」
ベンツは、工事のわきを抜けて、走って行く。
少し先まで行って、三神は車を道のわきへ寄せた。
「——さっきのは、パトカー?」
と、女が言った。
「いや、工事だよ」
女が、ホッと息をつくのが聞こえた。
「ごめんなさい……。てっきりパトカーが、私を捜してるのかと思って」
三神は車を出ると、後ろのドアを開けて、
「ともかく、座れよ」
と、言った。「そこじゃ、お尻《しり》が痛くなるぜ」
「ええ……」
女は、白い、ダブダブの服を着ていた。
「——君か」
「え?」
「この前、俺《おれ》につかみかかって来た女だ」
「私が?」
「うん」
「いつのこと?」
「一週間ぐらい前かな」
女は、少し考えて、
「一週間前ね……」
と、肯《うなず》くと、「具合が悪かったの。憶《おぼ》えていないわ」
「そうか」
三神は、どうしたものか、と思った。「どうしたんだ?」
「逃げたの」
「あの病院から?」
「ええ」
「何か、いやなことでも?」
「そうじゃないわ」
と、女は首を振った。「あの病院の人は、みんな親切よ」
「じゃ、どうして——」
「わけがあるの。訊かないで」
と、女は言った。
「そうか。しかしね……」
三神としては、知らん顔を決め込むわけにはいかない。
「お願い。連れて帰らないで」
と、女は三神の手をつかんだ。
女の手は、やわらかく、暖かかった。
「だけど、大騒ぎしてるぜ」
「分ってるわ。——私も、することがあるの。それが終ったら、病院へ戻るわ」
「自分で?」
「ええ」
「することって、何だい?」
「それは言えないけど」
——三神は、しばらく迷っていた。
この女を勝手にどこかへ連れて行ったら、小西が怒るだろう。
「お願い」
と、女は言った。「小西の所へ連れて行って」
三神は、ちょっと面食らって、
「君は? 誰なんだ?」
「私は……小西の娘よ」
と、女は言った。
「——どうも」
と、仁美は、田所弘江に頭を下げた。
「また、よろしく」
と、弘江は玄関まで出て来る、「進。——ちゃんとお送りしないと」
「大丈夫ですよ」
と、仁美は笑って、「すぐ近くなんだし」
「でも……。進」
「うん」
進が、サンダルをはいて、「そこまで、送る」
「まあ、ありがと」
仁美も、それ以上は断らないことにした。
「どうもありがとうございました」
弘江の声を背に、仁美は玄関を出た。
夜の町は、静かだった。
「——静かだね」
と、歩きながら、仁美は言った。
「うん」
「何だか、妙な感じ。ずっと都心の方にいたから、いつも何か聞こえてるのが、当り前だものね」
仁美は、道を少し来て、「——もういいわよ。進君、帰って。大丈夫だから」
「うん」
進は肯いて、「じゃ、さよなら」
「さよなら」
進は、足早に戻りかけたが、ふと足を止めると、振り向いて、「——先生、気を付けてね」
と、言った。
「ええ」
「夜《ヽ》は《ヽ》危《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》よ《ヽ》」
進が、一気に駆け出して行ってしまう。
やっぱり……。あの子だったのだ。
電話をくれたのは。——しかし、今、追いかけて訊《き》くわけにはいかない。
仁美は、ともかく、進だということが確かめられただけで、満足だった。
「ただいま」
玄関を上がって、「——お母さん」
「あら、仁美」
母の千代子が顔を出した。「どうだったの?」
「うん。まあ、無事にね」
「お腹《なか》は?」
「少し、空《す》いてる」
「じゃ、お茶漬でも食べる?」
「うん」
台所へ行って、お茶をいれると、仁美は、
「お父さんは?」
と、訊いた。
「お仕事。——もう帰るころよ」
「へえ。本《ヽ》当《ヽ》の《ヽ》仕事?」
「そうなの。小西さんとも会うんだとか、言ってたわ」
仁美は、アッという間にお茶漬を片付けて、
「——武彦は?」
「さあ。部屋にいるんじゃない?」
あの進っていう子のことを、武彦には話しておこう、と思った。
武彦の部屋のドアをノックして、
「武彦……。入っていい?」
返事がない。ドアを、そっと開けると、中は暗かった。
「どうしたのよ?」
と、声をかけると、
「お前か……」
「寝てるの?」
仁美は、びっくりした。
明りを点《つ》けると、武彦は、布団を敷いて、その上に横になっている。
「具合でも悪いの」
「少しな……。大したことないけど」
「どうしたのよ」
仁美は、かがみ込んで、「何だか、熱っぽいような顔ね」
顔に手を当てて、息をのんだ。——凄《すご》い熱だ。
「どうして黙ってたのよ!」
「この傷のせいかな」
右手の包帯を、武彦は左手で押えた。
「痛むの?」
「ああ……。大分治りかけてたのにな」
包帯の上からでも、傷の付近が、熱を持っていることが分る。
「お医者へ行かなきゃ。——待ってて」
仁美は、急いで台所へ行った。
「——まあ、熱が?」
話を聞いて、千代子も手を休め、武彦の部屋へと急いだ。
「お父さん、いつ帰る?」
と、仁美は訊いた。
「さあ……。そろそろだと思うわ」
「タクシーで?」
「たぶんね」
「じゃ、そのタクシー、そのまま使って、武彦を病院へ連れて行くわ」
ちょうど、表に車の音がした。仁美は、
「お父さんだ!」
と、急いで飛び出して行った。