心臓が打つ度に、わき腹に苦痛が走った。
——三神は、ゆっくりと体を起こそうとして、思わず呻《うめ》き声を上げた。
何が起こったのか、しばらくは分らなかった。気を失っていたことは確からしい。
車は目の前にあった。
そうか。——思い出した。
暴走族たちは、姿を消していた。この車は持って行かなかったようだ。自分たちのバイクもある。こんな車を盗んでも、却《かえ》って扱いに困るだろう。
——三神はハッとした。
あの女! あの女はどうしただろう?
立ち上がると、目の回りそうな苦痛があったが、それはやがて治まって行った。
周囲は闇だった。足下に懐中電灯が落ちていて、拾ってみると、ちゃんと点灯した。
あの女……。どうしてあんな真《ま》似《ね》をしたのだろう。
俺《おれ》のことなんか、ろくに知りもしないのに。あんな奴らの前に体を投げ出すなんて、正気じゃない!
——捜すほどのこともなかった。
道から少し外れた草むらの中に、女は倒れていた。もちろん裸で、何も身につけていない。
急いで手首をつかんでみると、脈は打っていた。
懐中電灯の光の中に、あざや引っかききずだらけの、柔らかい肌が浮かんだ時、三神は、息をのんだ。
十四、五人の、獣のような連中だ。どんな目に遭わされたか……。
「馬鹿め!」
三神は思わず口走っていた。「何てことしやがるんだ!」
三神は、女の体を起こし、肩にのせると、急いで車へ運んだ。
どこか——病院へ運ぼう。
見たところ、ひどいけがはないようだが、診察してもらわなくては……。
毛布をトランクから出して来て、後部座席に寝かせた女の体にかける。
運転席に戻って、エンジンをかけ……。
病院? それなら、あの病院へ連れ戻せばいい。
そうだ。本当なら、とっくにこの女をあの病院へ送り届けているところなのだから。
しばらく、三神はエンジンをふかしながら、じっと前方の闇を見つめていた。
そして、車を大きくUターンさせると、スピードを上げた。
——この女は、逃げ出したのだ。あの病院へ戻りたくないから、と。
それなのに、三神を助けるために戻って来た……。
理由が何なのか、どういうつもりで、この女があんなことをしたのか、それは三神にもよく分らない。
ただ、この女が命の危険まで犯して、三神を救ってくれたのは事実である。
それなのに、この女をいやがっている場所へ送り返すわけにはいかなかった。
女が、少し大きく息をついて、動いた。
三神は、チラッと後ろを振り向いた。大丈夫、眠っているようだ。
病院か……。そうだ。あそこがいい。
三神が昔からよく知っている医者がいる。ケンカでけがなどすると、いつもそこへ行って、手当してもらったものだ。
あそこなら、秘密を守ってくれる。
三神は、行先がはっきりすると、アクセルを更に強く踏み込んで、夜の道を突っ走った……。
——もちろん、都内へ入ると、そう飛ばすわけにもいかなくなる。
赤信号で車を停めていると、後ろの席で動く気配がした。
「——気がついたか」
と、三神は振り返って言った。
女は起き上がって、毛布をしっかりと引き寄せ、
「どこなの?」
「俺の知ってる医者の所へ行く。大丈夫。あの病院へは送り返さないよ」
「本当に?」
「約束する」
女はホッとした様子だった。
「——大丈夫か? ひどい目にあわせたな。すまない」
「あなたのせいじゃないわ」
と、女は淡々とした調子で、「あなたに迷惑をかけたくないと思っただけよ」
「——変った女だぜ、あんたは」
と、三神は言った。
「お医者さんって……」
「心配するな。気心の知れた仲だ。口も固いしな」
「私なら、大丈夫よ」
「いや、一応診《み》てもらってくれ。俺の気がすまない」
と、三神は言った。
女は、少し間を置いて、
「分ったわ」
と、肯《うなず》いた。「でも、その後は?」
「さあ……。小西さんは今日は家にいない」
「そう」
「どこか、行く所はあるのかい?」
と、三神は訊《き》いた。
「いいえ」
「俺のアパートへ来るか」
三神はそう言って、「もちろん、変な意味で言ってるんじゃないぜ」
と、付け加えた。
「ええ」
驚いたことに、女は、即座に言った。「連れて行って」
女の声には、感情が——どこか暖かい、ホッとしたような気分がこめられていた。
三神は、女が寂しいのだ、と思った。
誰かを求めている。誰か、安心してよりかかれる相手を。
おそらく、ずっと年上のこの女に、三神は奇妙にひかれるものを覚えていた。
「オス」
病院のドアを開けて、仁美は言った。「おとなしくしてるか?」
「どうしようもねえだろ」
と、武彦はむくれている。「腹が減って死にそうだい」
「ごめん。仕度に手間取ってさ」
入院したはいいが、簡単な朝食ぐらいしか出ないとあって、仁美が昼食を運んで来たのである。もちろん、作ったのは大部分、母の千代子だった。
「個室だね」
と、椅《い》子《す》にかけて、仁美は包みを開いた。
「——ちょっと! がっつかないでよ!」
武彦は、見る間におにぎりを三つ、ペロリと食べてしまった。
「——呆《あき》れた」
「お茶くれ」
「はいはい」
仁美は持って来たポットのお茶を、紙コップに入れてやった。
入院患者など、他に一人もいないので、病室は四つのベッドがあるのだが、武彦の個室みたいなものだったのだ。
「——具合は?」
と、仁美は訊いた。
「今朝、少し熱があったけど、もう下がった」
「そう。でも、心配ね。やっぱり」
「何てことないさ」
と、武彦は肩をすくめた。
「ねえ」
仁美は声を低くして、「何かつかめた?」
「それとなく話してみたけどな」
と、武彦はお茶を一気に飲み干して、「——もう一杯」
「よく飲むわね」
「このところ、犬にかまれた患者ってのは見てないそうだぜ。今時珍しいわね、とか言われちまったよ」
「そう」
「例の女の子のこと、何か分ったのか」
「まだ。——小西さんにあの娘のこと、知らせて調べてもらおうかと思って」
「それがいいな。色々ルートも持ってるだろうし」
「あの進って子とね、もう少し打ちとけられれば、何か訊き出せると思うんだけど」
「恋仲になるなよ」
「小学五年生よ、向こうは」
「冗談だよ」
と、武彦は笑った。
「病人とも言えないね、その元気じゃ」
と、仁美は冷やかした。
「あの山には入るなよ」
と、武彦が真顔になって言う。
「うん。——でも、いざとなったら、あの子を捜して見付けるしか……」
「あの女の子だ《ヽ》け《ヽ》だとどうして分る?」
と、武彦は言った。「大《ヽ》人《ヽ》だっているかもしれないぜ」
「それは……そうね」
仁美も、渋々肯《うなず》いた。「ともかく、小西さんに電話してみようと思うの。向こうがどう言うか——」
仁美は言葉を切った。
「何だ、あれ?」
と、武彦が言った。
——叫び声が聞こえる。
病院の入口辺りだろうか。
叫ぶ、といっても、何か言葉とか悲鳴とかではない。喉《のど》の奥から絞り出すように、意味のない、呻《うめ》き声に近いようだった。
「何かしら」
と、仁美は立ち上がった。
「ここにいろ」
武彦がベッドから出ると、急いで病室を出て行った。もちろん、仁美もおとなしく待ってはいない。
「誰か、手を貸して!」
と、あの看護婦が叫んでいる。
仁美は唖《あ》然《ぜん》とした。——まるで獣のような声を上げて、暴れているのは、四十ぐらいの女性なのだ。
そう体も大きくないし、力もないようだが、看護婦が二人がかりでも、押え切れないでいるのだった。
何かの発作?——仁美には、初めて見る光景だった。
武彦が駆けつけて、女を背後からしっかりと抱いて押える。
「そのまま!」
医師が注射器を手に、飛び出して来た。
「腕を押えろ」
腕をまくって、針を射すのも一苦労だった。
しかし、何とか鎮静剤らしい注射をうつと、やがて女も、肩で何度か息をつきながら、静かになって行った。
「——眠ったみたい」
と、看護婦が汗を拭《ぬぐ》う。
「寝かせておけ」
と、医師は息をついて、「いや、すまんね、手伝わせて」
「そんなこといいです」
と、武彦は言った。「何ですか、この女の人?」
仁美も近寄って見た。
ごく普通の、主婦に見える。——どこかで見たことがあった。
「同じ町の人だわ」
と、仁美は言った。
「そうだよ」
と、医師は言った。「私も知ってる。経理の仕事をして、子供を育ててる未亡人だ」
「町ですれ違ったことがあるわ」
と、仁美は言って、「でも——どうしたのかしら」
「分らんね」
医師は首を振った。「これから調べてみるよ」
「前にもこんなことが?」
と、武彦は訊《き》いた。
「いや、初めてだ。——さっき電話をもらってね。犬にかまれたから、診《み》てくれないか、と言って来た」
武彦と仁美がハッと目を見交わした。
「ここまでは普通にして来たんだ。看護婦が、上がって、と言うと、突然暴れ出した」
「何か——犬にかまれたせいで、病気に?」
「いや、こんな風になるってのは、聞いたことがないね」
と、医師は肩をすくめて、「君の傷とは全然違うと思うよ。心配することはない」
「大丈夫です」
と、仁美は言った。「暴れ出したら、フライパンで頭を殴ってやって下さい」
「人のことだと思って」
と、武彦はふくれっつらで、言った……。
病室へ戻って、仁美は、
「武彦も、もしひどくかまれてたら、ああなったのかもしれないね」
と、言った。
「ゾッとしねえな」
「ともかく、おとなしく寝てなさい。私、急いで小西さんに連絡を取ってみる。あなた、あの患者のこと、気を付けてて」
「分った。——おい、何かデザートないのか?」
「お昼から?」
「じゃ、夕飯は?」
「食べることしかないの?」
仁美はすっかりむくれて、言った。「キスしてやらない!」
電話が鳴った。
小西は、すぐに目を覚ました。反射的に時計を見ている。
八時か。——八時に、三神に電話しろ、と言ってあった。
女と一緒かもしれない、という三神の勘は当っていた。広いダブルベッドの中で、女の裸身が寝返りを打った。
電話くらいで起きることはないだろう。
「——小西だ」
と、受話器を取って言う。
「おはようございます、三神です」
「やあ。——九時半に、会議がある。ここから三十分で行くか?」
「大丈夫です。ベッドからでなきゃ」
と、三神が言ったので、小西は笑った。
「九時に、ホテルの正面だ」
「分りました」
小西は、ベッドの中で伸びをした。
年々、体が固くなる。——健康だし、エネルギーもあるが、方々の「部品」にガタが来るのは、防ぎようがないようだ。
若い女と寝るのは、小西にとって、「潤滑油」を注入するようなものだった。
ベッドを離れて、バスルームへ入る。
熱いシャワーを浴びるのは、いつでも快いものだ。
小西は、シャワーのコックをひねった。
まだ、知らないんだ。
三神は、小西への電話を切って、思った。
あの病院から連絡が入っていれば、たとえ何時でも、三神は叩《たた》き起こされただろう。
小西は、高級ホテルのスイートルームで目覚めたのだが、三神の方は、ごく当り前のアパート。
もちろん、一人住いには充分過ぎるほどのアパートだ。
二《ヽ》人《ヽ》でも。
あの女は、眠っていた。
医者は、三神が女に手荒な真《ま》似《ね》をしたのか、と目を吊《つ》りあげたが、幸い、すぐ誤解はとけた。
診察の結果、三神が心配していたほどひどくやられてはいなかったらしい。
医者は、「精神的ショック」の方を用心しろ、と三神に言った。
このアパートへ連れて来ると、女は落ちついた様子になり、小さな風呂に一時間もかけて入ると、男物のパジャマを着て布団に入り、たちまち寝入ってしまったのだ……。
——どうしたものか。
ともかく、何にせよ、三神はこの女に「借り」があった。それを返すまでは、女のしたいようにさせてやるのだ。
出かけなくては……。三神は洗面所へ行って、顔を洗った。
タオルで顔を拭《ぬぐ》って、ふと見ると、女が起き上がっている。
「起こしたか」
と、三神は言った。「悪いな。俺《おれ》の顔の洗い方は、やかましいんだ」
「いいの」
と、女は首を振った。「出かけるの?」
「ああ」
「父の所に?」
三神は、ちょっとためらって、
「まあな」
と、言った。「しかし……。怒るなよ。小西さんの娘さんは亡くなったと聞いたぜ」
「ええ。表向きはね」
と、女は肯《うなず》いた。
「じゃ——隠してあるのか」
「そうなの。——ね、出かけていいわ。私、外へ出ないから」
女が、小西の所へ連れて行け、と言い出すかと思っていた三神はホッとした。
「じゃ、誰か来ても、出なくていいぜ」
「ええ」
女は、微《ほほ》笑《え》んだ。「——ここ、何だか落ちつくの」
「そうかい?」
「私が……夫と住んでた家も、こんな風に暖かかったわ」
女は、夢見るように、そして少し寂しげに言った。