小西は落ちつかなかった。
なぜ落ちつかないのか、なぜ会議に集中できないのか、自分でもよく分らないだけに、いっそう、不安が募った。
九時半に始まった会議が、予定の十二時になっても終らない。——小西は珍しく苛《いら》立《だ》って、説明に立った部長に、
「もっと要領良くやれないのか」
と、きつい言葉を叩《たた》きつけたりした。
居並ぶ重役たちも、小西がいつもに比べて苛々していることに気付いて、首をすぼめている。そんな重役たちの態度が、ますます小西を腹立たしい思いに駆り立てるのだった……。
十二時を十五分ほど過ぎた時だった。小西が、手もとの書類を見ながら、口を開きかけると、会議室の電話が鳴った。
秘書の女の子が、あわてて電話へ駆けつける。よほどのことでない限り、会議中に電話はつながせないことになっているのだ。
「——はい、会議室。——社長は今、お出になれませんが。——はい?——分りました。お待ち下さい」
秘書は、いつ怒鳴られてもいいように、キュッと表情を固くして、
「社長、お電話が。急を要するということです」
「そうか」
正直なところ、小西もホッとしたのだ。
却《かえ》って、外の人間と話した方が、気持が落ちつくような気がした。
「——小西だ」
と、受話器を取って言う。
会議室の中に、ホッと安《あん》堵《ど》の息が洩《も》れた。中には、顔を見合わせて、肩をすくめている者もいる。——怖いな、社長は。無言の会話が、そこここで交わされていた。
「いつだ、それは!」
突然、小西の鋭い声が会議室に響き渡って、みんな、飛び上がりそうになった。小西は、青ざめていた。
「——捜したのか?——どうして、すぐ連絡しなかったんだ!」
その声は、たとえ電話を通してでも、相手を震え上がらせているに違いなかった。
だが、小西も、やっと自分がどこにいるか、思い出した様子だった。普通の声に戻って、
「分った。今からすぐそっちに行く。——そうだ。もちろん、そうしてくれ」
小西は電話を切って、席に戻った。会議室の中は、咳《せき》払《ばら》い一つ出ない。
「今日はこれで終ろう」
と、小西は穏やかな声で言った。「急用で出なくてはならなくなった。後は追って連絡する。長期出張の者は、メモを秘書に渡して行ってくれ。これで終る」
小西は足早に会議室を出る。秘書が走って追いついて来た。
「車を」
小西が、書類を秘書へ渡す。
「はい!」
秘書の女性は、手近な電話へと駆けて行った。急いで地下の駐車場を呼ぶ。
「——あ、もしもし。社長の車を大至急!——え? 昼食?——もう下へ向ってるのよ、社長は。急いで捜して!」
小西は早くもエレベーターに乗って、一階へと向っていた……。
——三神には、やはり予感があったのだろうか、五分ほどで、近くのソバ屋から戻った。
駐車場の係が飛んで来るのを見ただけで、聞かなくても分った。
「おい!」
「社長だな。すぐ出すよ」
「もう、玄関へ出られるころだ」
三神は車へと駆け出した。
ベンツがビルの正面へ着くのと、ビルから小西が大《おお》股《また》に出て来るのと同時だった。
「出なくていい」
小西は自分でドアを開け、乗り込んだ。「病院だ」
「はい」
「急いでくれ。しかし、白バイに捕まって、手間取ったら却って面倒だ。加減しろ」
「分りました」
三神は、頭の中に、この時間、渋滞に引っかからず、かつパトカーや白バイに見付からずにスピードを出せるルートを描き出した。
ベンツは表通りから一気にビルのわきを回って裏手へ出た。
「どこへ行くんだ?」
小西が面食らった様子で言った。
「ビルの駐車場を次々に通り抜けて行くんです。近道です」
「なるほど」
「駐車料金を取られるかもしれませんが」
「構わん」
小西は、三神に任せて、息をついた。それから手帳を取り出すと、車内の電話を手に取った。
二、三件、電話をかけると、小西は少し落ちついた様子だった。
車はもう広い道に出て、かなりスピードを上げて走っている。
「——こんな道があったのか」
と、小西は言った。
「大分研究しました」
と、三神が答える。「少し距離はありますが、早いんです」
「そうか。——熱心だな」
「下心があるんです。給料を上げてもらおうと思って」
三神の言葉に、思いがけず、小西は笑った。その笑いが、大分小西の気持を楽にしたようだった。
「いい運転手を見付けたよ」
と、小西は言った。
車の中の電話が鳴った。
「私が出る」
と、小西は取って、「もしもし」
「あ、小西さんですか」
若い娘の声に、小西は一瞬戸惑った。向うもその気配を察したのか、
「あの、白浜仁美です」
「そうか。すまん、ちょっと取り込んでいたものでね」
「かけ直しましょうか」
「いや、構わんよ。何かあったのかね」
「実は、変なことがあるんです」
と、仁美が言った。「この町で、犬にかまれる人がいて、かまれた人がひどく暴れたりして」
小西の顔が厳しくなった。
「君も、かまれたのかね?」
「いいえ。でも、ボーイフレンドが——あの、勝手について来ちゃったんですけど——その子が、やっぱり山の中で、小さな女の子にかまれて、傷が熱を持ったんです。お医者さんも首をかしげました」
「——妙な話だね」
と、小西は慎重に言った。
「その女の子のこと、今、調べてるんですけど、山の中に、誰か他にもいるんじゃないかと思って。—— 大《ヽ》人《ヽ》に《ヽ》かまれたら、きっとひどい症状が出るんじゃないでしょうか」
仁美はそう言ってから、「あの——もちろん、これ、私の想像だけかもしれないんですけど」
と、付け加えた。
「いや、君の話は、とても興味がある」
と、小西は励ますように言った。「調べてみてくれたまえ。ただ、充分に気を付けるんだよ」
「はい。お嬢さんの事件も、このことと何か関係があるんじゃないかと思います」
「頑張ってくれ。頼むよ」
「はい。またご連絡します」
—— 小西は、電話を戻すと、
「いいもんだな、若い子と話すだけでも」
と、言った。
しばらく、三神は黙って車を走らせていたが、やがていつも通っている道に出ると、
「あと十五分ほどです」
と、言った。
「なるほど、早いな。——この辺に、大分詳しくなったか」
「多少は」
「そうか」
小西は肯《うなず》いた。
三神が、少しためらってから、
「社長。病院で何があったんですか」
と、訊《き》いた。「あの——もちろん、僕には関係ないことですが」
「そうだな」
小西は少しの間、窓の外を見ていたが、「秘密は守れるか」
と、言った。
「もちろんです」
「君も、察しているんじゃないか?」
と、小西は言った。「その病院には、私の身内が入っている」
「そうですか」
「その一人が逃げ出したのだ」
「逃げた……。何か危険でも?」
「もちろん、当《ヽ》人《ヽ》も危険だ。まともじゃないからな。しかし、それだけじゃない」
「——というと?」
小西は、ちょっと首を振って、
「他の人間に害を与える心配があるのだ。それが怖い」
害を?——三神はそれ以上、訊かなかった。しかし、三神のアパートで、おとなしく待っている女。
あの女が、果してどんな危害を加えるのだろう?
「——いつか、君に飛びかかった女を覚えているか」
と、小西は訊いた。
「はい」
「あの女だ。あれが逃げ出した。どうしても見付けなければ。君も力を貸してくれないか」
「もちろんです。しかし……」
「遠くへは行っていないはずだが、何といっても、林の中にでも逃げ込んだら、行方が分らなくなる。早く見付けないとな」
病院が見えて来た。
三神は、それ以上、何も訊かなかった。
「——二千八百円です」
と、雑貨屋の奥さんが言った。
財布をあけて、もうお金を用意していた白浜千代子は、
「あら」
と、思わず言った。「でも、細かいお金が……。二千八百と四十……」
「結構ですわ、おまけします」
と、その奥さんは、ニッコリ笑って、言った。
その言い方が、いかにも自然で、押し付けがましくもないので、千代子は嬉《うれ》しくなってしまった。
「まあ、すみません」
「いいえ。——新しく越して来られたんですよね」
と、その奥さんは言って、「私、馬《ま》渕《ぶち》紀子です。よろしく」
「白浜千代子です」
と、お金を払っておいて、「静かな町ですね。今までずっとにぎやかな所にいたものですから」
「まあ、そうかしら」
と、馬渕紀子は笑って、「——ね、もしよろしかったら、ちょっとお上がりになりません?」
「でも、ご商売が——」
「お客さん? そう来ませんし、来れば、すぐ分りますもの。ね、お茶でも一杯」
「じゃあ……。お言葉に甘えて」
と、千代子は、奥へ上がった。
「どうぞ、楽にして下さいな」
と、馬渕紀子は言って、台所へと入って行った。
千代子は、古びた茶の間を見回して、ゆっくりと座った。
馬渕紀子は、たぶん千代子とほぼ同年代だろう。小太りの、のんびりした感じの女性である。
千代子が、馬渕紀子の誘いを断らなかったのは、一つには、小西から頼まれてここへ来たことを考えたからでもあった。
自分たちは、死ぬところを小西にいわば「買われた」のである。——この町での生活も、少し慣れて来た。
そろそろ仕《ヽ》事《ヽ》にかからなければならない。
千代子は、自分自身が楽しんでいたことを、いささか恥じていた。
いや、もちろん、この町に何か恐ろしいことが起こっているのかもしれないということは、よく分っている。決して、忘れたわけではなかった。
しかし、今の千代子は、一度死を覚悟したことが信じられないくらい、生きることを楽しんでいたのである。——生きていることはすばらしい!
千代子は、今になってみると、あんなにも簡単に死のうと決めたことが、不思議でならない。どうして、もっと頑張ってみようとしなかったのか。
生きて、闘った上で死ぬのなら、まだ諦《あきら》めもつく。でも——今、千代子は「死にたくない」と思っていた。
絶対に、死にたくない、と。
「お待たせして」
と、馬渕紀子が、お茶をいれて運んで来る。
「まあ、お構いなく」
と、千代子は言った。
「いいえ、何もありませんの」
——ひとしきり、社交辞令と、身《み》許《もと》調査風の会話が続いた。
千代子は、この気の良さそうな主婦から、何か役に立つことを聞き出せるのではないかという気がしていたのである。
紀子は、子供がなく、夫と二人暮しということだった。
「ご主人はお勤めなんですか」
と、千代子は訊《き》いた。
「いえ、このお店をやってるだけなんですよ。二人きりですから、別にぜいたくもしませんしね」
「まあ、そうですの」
千代子は、しかし何となく家の中に、「男の匂《にお》い」みたいなものがない、と感じていた。
タバコの匂いとか、読みかけの新聞とか、どこかに置いたままのメガネとか……。
男が一人いれば、何かその辺りに放り出してあったりするものである。
「主人は今、実家の方へ行ってまして」
と、紀子は言った。「母親が倒れたもんですからね。家を手伝いに。もう一カ月くらい帰って来ていないんです」
「まあ。お寂しいですね」
「でも、少々見飽きましたから、ちょうどいいですわ」
と、紀子は言って笑った。
「まあ、そんなこと」
千代子も一緒になって笑う。「この辺の方、夜は外食とかされないんですの?」
「夜ですか?——ええ、あまり外へ出ませんね。行くところもありませんし」
「そうですか。でも、静かでよろしいですね、本当に」
「若い人は退屈してますよ。高校ぐらいから、もう東京の方へ出て行って……。段々年寄りばっかりになりそうですね、この町は」
——何となく話が途切れた。
千代子は、何かもう少し訊いてみたいという気もしたが、初めからあまりしつこく話し込んで嫌われても、却《かえ》って良くないかもしれない、と思い直した。
「じゃ、そろそろ主人が帰ると思いますんで、私、これで——」
と、腰を上げた。
「そうですか? あんまりお引き止めしてもね。——じゃ、またいつでもいらして下さいな」
店先まで送ってくれて、千代子はちょっと恐縮した。
「じゃ、どうも」
と、会釈して、千代子は家へ向った。
とても良さそうな人だわ。なにかの時には、相談相手になりそうな。
千代子は、なかなか心楽しい気分だった。
——千代子の遠ざかる姿を見送っていた馬渕紀子は、店に戻ると、レジの所の電話を手に取った。
今時、どこを捜しても見当らないような、黒い重い電話機で、長話をしていると、手がくたびれて来るやつである。
紀子はダイヤルを回した。
「——もしもし。——あ、馬渕です」
と、紀子は言った。「どうですか、あの男の人は。——じゃ、大丈夫ですね、今夜は。——そうなんです。今、例の江田さんのとこへ越して来た奥さんが。——ええ、上がってもらって話したんですけどね。なかなか良さそうな人ですわ。——決めたわけじゃありませんけど、次《ヽ》は《ヽ》あの人なんかどうかしら、と思って。——ええ、もちろん、もう少しよく知ってからでないと。ただ、越して来たばかりでしょ。こんな町に越して来るなんて、きっと、あんまり人に知られたくない事情があるんですわ。——ええ、私もまた話してみますから。——はい、それじゃ夜に……」
紀子は受話器を置くと、深く息をついて、両手で顔を覆った。
まるで、一気に十歳も老け込んだように見えた……。
ところで——仁美と千代子の二人に町のことを任せて、夫の白浜省一は別に遊んでいたわけではない。
一応、通勤しているように見せかけるために、十時ごろから出かけて行ったり、夜遅く帰ったりという暮しをしていたが、もちろん小西からの依頼を、忘れてはいなかった。
「——ここか」
と、白浜省一は、〈市立図書館〉というプレートに目をやって、呟《つぶや》いた。
ここに、小西の娘の夫、江田が勤めていたのである。
ここへ来てどうしようという、はっきりした考えがあったわけではない。ただ、そもそもの事件の発端になった出来事を、よく知っておきたい、と考えたのである。
白浜の性格というものかもしれなかった。
図書館の建物は、まだずいぶん新しかった。入口もきれいだし、廊下はツルツルに光っていて、中はシンとして、物音もないという感じだ。
スリッパにはきかえて入って行くと、入口のすぐわきの机から、
「カード」
と、声がかかった。
「え?」
思わず訊《き》き返すと、その気難しい顔の年寄りは、苛《いら》々《いら》した様子で、
「利用カードだよ。カードをここで見せるんだ。それぐらい分ってるだろ」
と、言った。
「ああ。あの——いや、ただ見学したいんです、中を。いけませんか」
と、白浜は言った。
その老人は露骨にいやな顔をした。
「あのね、何かあったら、こっちの責任になるんだよ。分る?」
「ただぐるっと見て回りたいだけですよ」
「ちゃんと許可を取ってもらわんとね」
と言ったが、〈ご自由にお入り下さい〉という玄関の札のことを、知らないわけでもないらしい。「——どこかの記者とか、そんなんじゃないね?」
「違います。この近くへ越して来ることになりそうなので、この辺りを見て回ってるんですよ」
と、白浜は穏やかに言った。
「ふん……。ま、いいよ。あんまり長くかからんようにしてくれよ」
と、老人は言って、週刊誌に目を落とした。
——白浜は、苦笑しながら、書架の並ぶ間を歩いて行った。
まあ、お役人というのは、えてしてああいうものだ。「責任」という言葉にアレルギーでも持っているのだろう。
白浜は、歩きながら、俺《おれ》も変ったな、と思っていた。
以前なら、ああいう手合いとはすぐ喧《けん》嘩《か》になったものだ。しかし、今はこうして、笑ってすませることができる。
死を覚悟したことは、人間をこんなに変えるのだろうか?
——利用者の姿は、ちらほらとしか見えなかった。あんな口うるさい年寄りに見張られていては、クシャミ一つで、追い出されそうだ。
あの女性? いや、違うな。あれはどう見ても、二十四、五歳だ。いかにも司書然としている。
江田が言い寄っていたというのは、十八歳の女の子ということだった。
もうやめてしまったのだろうか。名前も分らないのでは、訊《き》くわけにもいかない。
すると、そのメガネをかけた司書らしい女性が、
「泉さん」
と呼んだ。
「はい」
本棚のかげから、ヒョイと顔を出したのは、少しふっくらとした感じの、十八、九の娘だった。
あれかもしれない。
「悪いけど、このコピーを市役所まで届けて来て」
「はい。今ですか?」
「ええ。そっちはまだ明日でもいいから」
「分りました。じゃ、ちょっと手を洗ってから」
本というのは、埃《ほこり》になるものである。
あの娘は出かけるのか。ちょうどいい機会かもしれない、と白浜は思った。
先に外へ出て待っていよう。——さっきの老人に、
「どうも」
と、声をかけると、老人は無言でジロッと白浜を見た。
目が白浜の上衣を探るように見ていたのは、どこかに本を隠して持っていないか、と疑っていたからだろう。
ああも人間が信じられないというのも可《か》哀《わい》そうだな、と図書館を出ながら、白浜は思っていた……。