泉、と呼ばれたその娘は、パーラーの前で迷っていた。
入って何か飲んで行こうか。でも、遅くなると叱《しか》られるかしら……。はたで見ていても、悩みが聞《ヽ》こ《ヽ》え《ヽ》て《ヽ》来るようだ。
「ちょっと」
と、白浜が声をかけると、娘はギクッとした様子だった。「ああ、びっくりしないで。ちょっと話を聞きたいんだけどね。中で何か食べながら、どう?」
でも——どうして——いやだわ——だって——。娘は、ブツブツ言いながら、結局、パーラーへとすんなり入ってしまったのだった……。
白浜は娘が、ちゃんと昼食も食べたというのに、甘いものだけでなく、サンドイッチまで取って、いとも簡単に平らげてしまうのを見て、びっくりした。
「——江田さんのこと?」
と、その娘——泉というのは姓の方で、泉佐和子というのだった——が、目を丸くして、言った。
「うん。江田君の奥さんと、ちょっとした知り合いだったんだ」
「ああ……。ひどかったですね。あのニュース聞いて、まさかあ《ヽ》の《ヽ》江田さんのことだなんて、思わなかった」
「君に言い寄ってたって、本当なのかい?」
白浜が訊くと、泉佐和子は、少し複雑な表情になった。
「ええ、まあ……」
「はっきりしないね」
「今でもよく分らないんです」
と、泉佐和子は首をかしげた。
「どういうことが?」
「あの人——江田さんって、そりゃあいい人でした。正義感が強くて、何というのかな……そう、奉仕の精神、ってのに徹してましたもん」
「なるほど」
「あの受付に座ってるおじいさんと年中、やり合ってました。あの人は、図書館に来る人はみんな、目を離すと本を盗もうとしてる、と信じてるんです」
「じゃ、江田君は違ってた?」
「ええ。あの人は、『僕らは公務員なんだ。奉仕するのが仕事で、監視することじゃないんだ』って言ってたんです」
「なるほど。正しいけど、そう考えてる人はま《ヽ》れ《ヽ》だろうね」
「だから私——」
と言うと、いきなり泉佐和子がグスグス泣き出したので、白浜はびっくりした。
「ね、君——。落ちついて」
「ええ……。大丈夫です」
と、涙を拭《ふ》いて、「——あと、チョコレートパフェ、食べてもいいですか?」
「いいよ、もちろん」
白浜には、とてもついて行けなかった……。
「——私、本当は、江田さんのこと、好きでした」
と、泉佐和子は「告白」した。
まあ、チョコレートパフェを食べながらの「告白」では、いささか切実な印象には欠けていたが。
「だから、変だな、と思ったんです」
「というと?」
「あんな風に——人目につくように私のこと誘ったり、抱きついたりしなくてもよかったんです。お昼休みとか、帰り道とかで、そっと誘ってくれたら、私、どこだってついて行ったのに」
「なるほど」
娘の言い方には、ちょっとついて行けなかったが、言わんとするところは分った。「江田君は、君に好かれてるってことを、知らなかったんだろうね」
「いいえ」
と、首を振って、「私、自分で言ったんですもの。江田さんがおかしくなる前《ヽ》に《ヽ》」
「前に?」
「ええ。好きです、って。でも、江田さんは、笑って、取り合ってくれませんでした」
妙な話だ。——すると、江田はわ《ヽ》ざ《ヽ》と《ヽ》目につくように、泉佐和子にちょっかいを出していたことになる。
「でも君は、言い寄られて困る、と言ってたんだろ?」
「そりゃあ、いくら何でも、職場の人の目の前で抱きつかれたりしたら……。そんな所で、ホテルに行ってからにしましょ、なんて言えませんよ」
「そりゃそうだね」
と、白浜は肯《うなず》いた。「その話を、誰かにしたかい?」
「いいえ。だって、別に訊かれなかったし。——あの事件があって、やっぱり江田さん、おかしくなってたんだなあ、と思いました。お付き合いしてたら、今ごろ、私も殺されてたかも……」
と言って、泉佐和子は、ため息をつくと、
「でも、江田さんになら、殺されても良かった!」
と、呟《つぶや》いた。
「ありがとう。いや、直接、君の話を聞いてみたくてね。仕事中に、悪かったね」
「いいえ、いいんです。仕事中ったって、みんな、外出したらどこかで遊んでるんですもん。——ごちそうさま」
と、泉佐和子は頭を下げた。
大分、予算はオーバーしたが、ともかく、それだけのことはあった。
白浜が支払いをして外へ出ると、泉佐和子が、ふと言った。
「本当に、江田さん、死んだのかなあ」
「どうして?」
白浜は、面食らった。
「私——一度見かけたんです」
「誰を?」
「江田さんです」
泉佐和子はあっさりと言った。白浜は、愕《がく》然《ぜん》としていた。
「あ、もちろん、人違いかもしれないんですけどね」
「しかし——どこで見たんだい?」
「あの図書館、寝たきりのお年寄りとかに、出張貸出しっていうのを、やってるんです。ほとんど頼まれることないんですけどね。だって、寝たきりのお年寄りが相手なのに、一週間以内に本を返すこと、なんていうんですもの。無茶ですよね」
「なるほど。それで?」
「あ、そうか。——江田さんのことでしたっけ。私、あの事件の後、少しして、あの町へ行ったんです。その本の貸出しで」
と、泉佐和子は、のんびりと歩きながら言った。「江田さんの家、閉めたままになってて、ちょっと前を通ったんですけど、気味悪かったわ……。その帰り道に——。私、自転車で行ったんですけど」
「江田を見たの?」
「はっきりしませんけど……。林の間の道を走ってると、急に誰かが飛び出して来たんです。びっくりして、ひっくり返りそうになっちゃいました」
と、大げさな身ぶりを見せて、「それでも何とか倒れずにすんで、誰が飛び出して来たのかと思って見たら……。江田さんだったんです」
白浜は胸の高鳴るのを覚えた。
「それは確か?」
「だと思うんですけど……。でも、見たのはほんの一、二秒だし……」
しかし、いつも江田を見ていた人間なのだ。他の人間と見間違えることはあるまい。
「でも、凄《すご》く妙だった、江田さん」
「どういう風に?」
「髪がボサボサで、不《ぶ》精《しよう》ひげがのびて、服もボロボロで……。何だか浮浪者みたい」
「君を見てた?」
「ええ。私のこと、分ったんじゃないかと思います。パッと駆け出して、林の中へ消えちゃったけど」
「その話を、誰かにした?」
と、白浜は言った。
「いいえ」
「黙っていてくれ。誰にもね」
白浜は、財布から五千円札を抜いて、「これで、何かお菓子でも買いなさい」
「ええ? いいんですか?」
と言いながら、もう五千円札は、彼女の手の中に握りしめられていた。
「君の連絡先、教えてくれるかな?」
「いいですよ」
娘のアパートの電話番号を聞いて、白浜はメモした。
「じゃ、ごちそうさま!」
と、手を振って、駆け出して行く。
あんな話をした後で、元気よく走って行けるというのは、やはり若さなのだろうか。
それにしてもとんでもない話を聞いてしまったものだ。
もちろん、あの女の子の見間違いという可能性もないではない。しかし……。
「ん?」
パチンコ店の前を通りかかった白浜は、ふと足を止めて、店の中を覗《のぞ》き込んだ。「おやおや……」
店の中へ入って行くと、相変らずの苦虫をかみつぶしたような顔でパチンコの玉をにらんでいる老人の肩を、ポンと叩《たた》いて、
「出ますか?」
と、声をかけた。
あの図書館の入口にいた老人である。白浜の方を不審げに見て、それからギョッとする。
「お昼休みにしちゃ、妙な時間ですね」
と、白浜は言ってやった。「ま、いいです。記事にしないでおきますよ」
ポンと肩をもう一度叩いて、
「じゃ、頑張って」
呆《ぼう》然《ぜん》としている老人を残して、白浜はさっさとパチンコ店を出た。
実にいい気分だった……。
「帰るぞ」
と、小西が、三神の肩をつかんで揺さぶった。
ソファで眠っていた三神は、ハッと目を覚まして、
「あ、すみません」
と、起き上がった。「すぐ車を」
「うん。——そう急がなくてもいい」
小西は、腕時計を見た。「八時に会食だ。それに間に合えばいい」
「もうそんな時間ですか」
三神は頭を振って、「夜になったんですね」
「ああ」
「何か……手がかりは?」
「だめだ」
と、小西は首を振った。「こう暗くなっては、捜してもむだだろう」
「そうですね……。じゃ、車を正面に回します」
三神は、病院の玄関を出て、わきに停めたベンツへと急いだ。
気が咎《とが》めないこともない。——あの女は、三神のアパートにいるのだ。
しかし、あの女には借りがあった。三神としては、それを返すまでは、小西に女のことを話すわけには行かなかった……。
ベンツを玄関前に寄せて、ドアを開けて待っていると、小西が病院の医師と一緒に出て来た。
「——手を尽くしますので」
と、医師が言っている。
「よろしく」
小西は会釈した。
玄関のドアが開いていて、そこから奇妙な声が——まるで狼《おおかみ》の遠《とお》吠《ぼ》えのような声が、聞こえてきた。
小西が動揺した。
「閉めて下さい! 早く!」
と、医師に向って叫ぶ。
医師が、急いでドアを閉じると、その声は、ほとんど聞こえなくなった。
しかし、小西は急いで車に乗り込みながら、
「早く出してくれ!」
と、叫ぶように言った。
車が走り出しても、小西はしばらく、両手でしっかりと耳を塞《ふさ》いでいた。まるで、あの声が追いかけてでも来るかのように……。
——やがて、耳から手を離すと、
「何か音楽をかけてくれ」
と、小西は言った。
「はい」
小西の声は、潤んでいた。——泣いているのだ。
あの強い男が。
三神は、おそらく、孫のことだろうと思った。小西を、こんなにも動揺させるというのは……。
あの声。遠吠えのような奇妙な声が、きっと孫のものだったのではないだろうか。
だからこそ、小西は聞いていられなかったのだ。
——静かなクラシック音楽が流れると、小西も少し落ちついた様子だった。
「ご心配ですね」
と、三神は言った。
「うむ……」
小西は、窓の外へ目をやった。「親というのは、たとえどんな風になっても、我が子に生きていてほしいと思うもんだ」
どんな風になっても……。
ふと、三神は不安になった。あの女は、息子と同じ病気なのだろうか?
だとしたら、今ごろアパートで……。
あの女に、何か異変が起こっているかもしれない。
しかし、まさか小西を乗せたまま、アパートへ駆けつけるわけにはいかない。
焦る気持を抑えて、三神は何とか車を、不自然でないスピードで走らせていた。小西は、いつしか後ろの座席で、眠っているようだった……。