八時から会食。——それなら、終るのはどんなに早くても九時半になる。
三神は頭の中で計算していた。アパートまでこのベンツで走って、レストランの駐車場へ戻るのに、一時間はかかるまい。
「——社長。もうすぐです」
車を、歩道側の車線に寄せながら、三神は言った。
小西は、病院を出てから、ずっと眠っていたのだが、三神のごく普通の声で、すぐに目を覚ました。
「——何だ、眠っちまったか」
と、息をつく。
「お疲れじゃないんですか」
「ゆうべは女と一緒だったんだがな」
と、小西は、自分をからかうように言った。「——車は駐車場へ回しといてくれ」
「はい。社長」
と、三神は車をレストランの正面につけて言った。
「何だ?」
「一時間ほど……この車で行って来たい所があるんですが」
「ふーん」
と、小西は肯《うなず》いた。「今日だけなら、構わん。どこへ行くんだ?」
「女の所です」
嘘《うそ》ではない。小西は怒るかと思えば、笑って、
「そうか。一時間で足りるのか?」
と訊《き》いた。「一時間半は充分かかる。行って来い」
「すみません。今日だけです」
「ああ」
レストランの人間が駆けて来て、ドアを開ける。小西は降りようとして、
「おい、車の中ではよせよ。腰を痛めるぞ」
と、言った。「まあ頑張れ」
「はあ」
小西が、レストランの支配人に出迎えられて、中へ入って行く。三神は店のボーイに、
「ガスを入れて来ますから」
と声をかけ、車をスタートさせた。
アパートまで三十分、と思ったが、意外に道はよく流れて、二十五分ほどで、近くまで来た。
しかし、こんな大きなベンツを置く場所などないので、少し離れた空地に、取りあえず車を入れた。こんな車なら、少しぐらい置いておいても、みんな文句は言わない。
三神は、アパートへと急いだ。——あの女は大丈夫だろうか? 何か変ったことが起きていないか……。
いやに明るい夜だ、と歩きながら思った。街灯がついているのかと思った。
そうではなかった。夜空を見上げて、三神は月の明るさに、びっくりした。——まるで作りもののような大きな月が、白い光を放ちながら、夜空にかかっている。
「満《ヽ》月《ヽ》か」
と、三神は呟《つぶや》いた。
ふと、背筋に冷たいものが走った。この明るさは、どこかま《ヽ》と《ヽ》も《ヽ》じゃないような気がしたのだ。
いや、もちろん——どこでも、晴れている場所なら、同じこの月の光が降っているわけで、何も特別なものではないのだ。
もちろんだ。ただ、気のせいなのだ。
三神は自分に言い聞かせた。
もちろんさ。まさか、月から誰かがあの女を迎えにやって来る、ってわけじゃないだろうしな。
ことさらに、冗談めかしたことを考えてみたが、一向に不安はおさまらなかった。道にのびる、黒々とした自分の影が、まるで生きものみたいに、勝手に動き出しそうに見える。
しかしアパートまでの道は、そう遠くない。三神は、少し息を弾ませて、自分の部屋のドアの前に立った。
なぜ、こんなに不安なんだ?——心臓がどうして高鳴っているんだろう?
何てことはないのに。ただ、女が一人中にいるというだけじゃないか……。
鍵《かぎ》を回す手が、少し震えた。
ドアを開けるのに、勇気が必要だった。
「——あら」
と、女が言った。「びっくりした。早かったのね」
——三神は、ポカンとして立っていた。
あの女が、少《ヽ》し《ヽ》も《ヽ》変《ヽ》り《ヽ》な《ヽ》く《ヽ》、三神のTシャツとジーパンという格好で、台所に立っていたのだ。
「勝手に借りて着ちゃったけど」
と、女は、少し照れたように言った。
「ああ。構わないよ、何でも」
俺《おれ》は何を考えてたんだ? この女が、とんでもない化物か何かになって、牙《きば》をむいているとでも? SF映画じゃあるまいし!
「何してるんだ?」
「ちょっとお腹《なか》が空《す》いちゃったの」
と、女は笑って、「ラーメンがあったから、作ろうと思って」
「そうか。——悪かった。気が付かなかったよ」
ホッとすると同時に、三神は恥ずかしくなった。「待ってろ。弁当でも買って来るから」
「でも——」
「いいんだ。忘れてたよ」
「え?」
「俺も腹が空いてたんだってことをさ」
と、笑って、「何がいい? すぐ近くだ。何でもあるぜ」
と、三神は訊いた。
「何でもいいわ」
「じゃ、普通の幕の内みたいなもんにしよう。お茶でもいれといてくれ」
「ええ」
女は、嬉《うれ》しそうに肯いた。
三神は、表に駆け出した。——現金なもので、今度は満月のことなど、まるで気にもならなかった。
——三神が弁当屋に駆けて行くのを、少し離れた物かげから二人の男が見ていた。
「——今、聞こえたか」
と、一人が言った。
「ああ。女の声だったな」
「あの女かな」
「そうだろう」
三神たちを襲った暴走族の二人である。
「知らせるか?」
「ああ、お前、知らせて来いよ。俺はここで見張ってる」
「よし」
オートバイのエンジンが唸《うな》った。——一台が、夜の道を滑るように駆け抜けて行った……。
三神と女は、アッという間に弁当を空にしてしまった。
「もう一つずつぐらい、買って来りゃ良かったな」
と、お茶を飲みながら、三神が言って笑った。
「私はもう沢山。——あなたは、また出かけるんでしょう」
と、女は言った。
「うん。しかし、三十分ありゃ、向うへ着く」
三神は時計に目をやって、「四十分ぐらいはのんびりしても大丈夫」
三神は、ネクタイを外した。
「休む時にゃ、苦しいな」
「片付けるわ」
と、女が立ち上がった。
「放っとけよ。今でなくても」
女は、手早く片付けると、畳にきちんと座った。
「今日一日、まるで生き返ったようだったわ」
「そうか。まあ、病院なんて、楽しい所じゃないだろうからな」
「ええ……。辛《つら》いわ、鉄格子の中にいるのはね。特に——」
女は言いかけてためらった。
「無理に話すな。別に聞かなくてもいいよ」
と、三神は言った。「あんたにゃ、借りがあるからな。好きなだけ、ここにいるといいさ」
女は、カーテンを引いた窓の方へ目をやった。
「——明るいわね」
「うん。満月だ。昼間みたいに明るい」
「満月ね……」
と、女は独り言のように呟《つぶや》いた。
「なあ」
と、三神は女を見た。「ここにいるのは構わない。だけど、どこか具合が悪いのなら……。いいのか、医者に診《み》せなくて?」
「お医者様でも、どうにもならないのよ」
と、女は首を振った。「私も——久弥も」
「久弥?」
「私の子よ」
「そうか」
「父が何か言っていなかった?」
「いや。——別に」
「そう」
女は、カーテンの合せ目の細い隙《すき》間《ま》を、じっと見ていた。ふと立ち上がると、明かりを消す。
「おい……」
カーテンの合せ目から、一条の白い光が、描いたような鮮やかさで、部屋を横切る。
「抱いて」
と、女が言った。「今夜、ゆっくり眠りたいから」
「だけど——」
「時間はあるでしょ」
女が、手早く服を脱いだ。目が慣れて、女の白い肌のつやも見分けられた。
「だけど……」
「黙って」
女は、三神の肩に両腕をのせた。「お願い。黙って……」
——三神は黙っていた。
女を抱きしめて、我を忘れて行くのに、言葉はいらなかった。
ただ一言、
「布団を敷こう」
と、言った以外は——。
武彦のそばにいれば良かった。
仁美は寝返りを打ちながら、そう思った。
——眠れない。
まだ、そう遅くはないから、眠れなくても不思議ではない。しかし、何か、目に見えない大きな手が胸を押えつけているかのようで、胸苦しさに、汗すらかいてしまいそうなのだ。
なぜだろう?——何が起ころうとしているのか。
そう。何《ヽ》か《ヽ》を感じていたのだ。仁美は目を開けて、暗い天井を見ていた。
オーン、ウォーン……。
ま《ヽ》た《ヽ》聞こえて来る。
犬が鳴いている。——犬? いや、あの声は、犬じゃないようだ。
もちろん、仁美は狼なんて見たこともないが、でも、もし狼が月に向かって吠《ほ》えるというのが本当なら、あんな声なのに違いない、と思った。
今までも、夜中に時々、あれに似た声を聞くことはあった。でも、今夜は……。
ひっきりなしに聞こえる。それも、一匹や二匹ではない。じっと耳を澄ましていると、何種類もの鳴き声が混っているのが分って来る。
何があったんだろう?
——仁美は起き上がった。どうせ眠れないのだ。苛《いら》々《いら》しているよりも、ベッドを出た方がいい。
結構寒いような気温である。仁美はカーディガンをパジャマの上にはおった。
表を覗《のぞ》いてみようと思った。——玄関のわきの小部屋の窓がいい。
廊下をそっと歩いて行きながら、仁美は両親の部屋を覗いた。
ぐっすり寝ちゃって!
まあ、仁美も父と母が仲良くしてくれることに異議はない。しかし……。
どうも、自殺決行のつもりだった夜に、ホテルで愛し合って以来、両親は新婚時代の感激を取り戻してしまったらしいのである。
これから弟か妹でもできるなんてことになったら……。ま、いいけどね。ともかくここから無事に出られなきゃ仕方ないんだから。
小部屋の襖《ふすま》をそっと開けて、仁美は、中へ入った。表の通りに面した窓の前に座り込んで、カーテンの端をそっとからげて見る。
——一瞬、何か照明でも用意されているのかと思うほどの明るさに戸惑った。
月光なのだ。満月である。
満月。——狼《おおかみ》。
武彦をかんだ、あの少女……。
馬鹿げてるわ! これはただの月明りじゃないの。
仁美は自分にそう言い聞かせた。
通りに人影はなかった。みんな、家に閉じこもっているのだろうか。
しかし、気が付くと、目に入る家々のほとんどで、一つ二つ、窓に明りが見えていた。
起きているのだ。
そして、あの遠《とお》吠《ぼえ》えが一段と入り乱れ、高まった。——今や、何匹ではない。何十匹の声だ。
窓ガラスを震わせるほどの力で、その声は町の中を、高い天空を、駆けめぐった。
そして——不意に、ピタリと声は止《や》んだ。
あまりにも突然で、仁美は驚いた。
どうしたのかしら? なぜ急に……。それもパチッとスイッチでも切ったように、一斉に止んだのだろう?
今度は、完全な静寂が来た。
いや、それは「静寂」ではなく「沈黙」だった。
何かが息を殺している。この「白い夜」の中で。——仁美も、いつしか、固くカーテンの端を握りしめていた……。
そして、一軒の家の玄関が開いて、誰かが出て来た。男だ。ジャンパーを着込んで、手袋をして、革のブーツ。
もちろん、夜はかなり寒くなるが、それにしてもいささか厳重すぎるような格好であった。そして、手には太い鉄パイプのようなものが光る。—— いや、光っていたのは銃身だ!
散弾銃だろう。映画やTVでしか見たことはないが、二本の銃身が並んで光っているさまは、どこかゾッとするほど美しく見えた。
男たちが——四人、五人、と集まって来た。
十人近くになっただろうか。みんな一様に分厚く服を着込んで、出ているのは、顔だけという様子。
そして、手に手に、銃をかかえている。中に二、三人、手ぶらの男もいた。
集まった男たちは、低い声で話し合っているようだったが、やがて一人が声をかけ、ゾロゾロと一緒に歩き出した。
男たちが視界から消える。——どこへ行くんだろう?
仁美は、何が起こるのか、もちろん知らなかった。しかし、きっとそれはとんでもなく恐ろしいことのようで……。
とても、ここから出て、一人で見《ヽ》物《ヽ》に行けるようなものでないことは、仁美にも、分っていたのだ。
このまま、表を見ていれば、男たちは戻って来るだろうし——。
何《ヽ》か《ヽ》が、暗がりで動いた。仁美は目をこらした。
小さな人影が、暗い所を選んで、進んで行く。——誰だろう?
じっと見ていると、その人影は、明るい月明りの下を、パッと駆け抜けた。
間違いない。仁美が家庭教師で教えに行った、田所進である。
進は、銃を手に出かけて行った今の男たちの後を尾《つ》けているようだった。
——仁美は、立ち上がった。
迷っている暇はなかった。急いで自分の部屋へ戻ると、パジャマを脱ぎ捨てて、服を着た。あの男たちのことを思い出して、厚着をする。
玄関の鍵《かぎ》は、台所の引出しに入っていたはずだ。
物音で両親が起きるかと思ったが、一向にその気配はない。——あれじゃ、何が起こったって、目は覚めないだろう。
玄関から出るのに、少しためらった。他の家の人たちが、表を覗《のぞ》いているのではないかと思ったからだ。
ドアを細く開けて、外を覗く。
ためらっていても仕方ない。ぐずぐずしていると、田所進に追いつけなくなってしまうだろう。
思い切って外へ出ると、手早く鍵をかけ、その鍵をジャンパーのポケットへしまった。
無鉄砲な、と自分でも思うのだが、どうにも止めることができなかった。——何が起ころうとしているのか、知りたかった。
その気持が、恐怖や警戒心を圧倒してしまったのである。
もちろん、進の姿はもう見えなかった。しかし、町の通りは一本しかない。その方向へと歩いて行けば、追いつけるだろう。
足を早めて、進の姿を、暗がりの中に捜して進んで行く。
いたいた。
何といっても、相手は子供である。大体、身を隠そうとする場所の見当はつく。
そろそろ町の外れだった。
大きな木の下へ、進は駆けて行った。——仁美にも、ずっと先の方に、固まって歩いて行く、あの男たちの姿が見えた。
進が、木の幹にもたれて、少し身をひそめている。すると——。
「おい」
突然男の声がした。仁美はびっくりして息が止りそうになったが、その男は、仁美に声をかけたわけではなかった。
「何してるんだ」
と、男が進に言った。「帰るんだ。家へ」
手に、バットか杖《つえ》らしい物を持っている。
「放っといてよ」
と、進は言い返した。
「そうはいかねえよ。知らせるつもりなんだろう、連中に?」
「関係ないだろ!」
進が、男の手を振りはなして、パッと逃げた。
「待て!」
男が追いかける。——月光の下、小さな進が素早く右へ左へと逃げ回るのを、男は杖を放り出して、必死で追いかけている。
それは何だか奇妙な光景だった。舞台のドタバタコメディか何か見ているようで。
しかし——とうとう、進は男に捕まって、腕をねじ上げられてしまった。
「痛いじゃないかよ!」
と、進が甲高い声を上げる。
「静かにしろ!——ぶん殴られたいのか、おい!」
仁美は、自分でも格別子供好きと思ってはいないが、ともかく大の大人が、子供に乱暴している、と思っただけで、やたらに腹が立って来た。
「はなせよ!」
「うるさい!」
バシッ、と男が進を殴る音がして、進の体が地面に転がった。仁美は駆け出していた。地面に落ちていた、男の杖を拾うと、
「ワーッ!」
と叫びながら、男に背後から打ちかかった。
ポカッ、とみごとに男の頭を直撃。
「いてえっ!」
男は悲鳴を上げた。そして急に、
「やめろ! よせ、助けてくれ!」
と、金切り声を上げると、町へ向かって、一目散に走って行ってしまったのだ。
「——何よ、あれ?」
仁美の方が面食らっていると、
「あ……。先生?」
と、進が起き上がった。
「大丈夫?」
「うん……。でも、凄《すご》いね、先生」
先生なんて呼ばれるのも、少々照れくさかったが、ともかく今は急がなくてはならない。
「あの男たちの後を尾《つ》けてるんでしょ? だったら、早くしないと、見失うよ」
と、仁美は言った。
「うん。——一緒に行くの?」
「いい?」
「いいけど……」
「その代り、話を聞かせて。あなたの妹のこと」
進は、仁美を見て、
「じゃ、歩きながら」
「OK。行こう」
仁美は、進の肩をポンと叩《たた》いた。「この杖、持ってようか」
「杖じゃないよ」
「え?」
「刀《ヽ》だ《ヽ》よ《ヽ》」
——仁美は、自分の手にしているのが、白木のさやにおさまった日本刀だということに気付いて、青くなったのだった。
月の光のおかげで、もともと青白く見えてはいただろうが……。