「あなた……名前は何ていうの?」
と、女が暗がりの中で訊いた。
「三神」
「名の方は?」
「つまらない名だよ。一郎っていうんだ」
少し照れていた。
「私は宏子」
「宏子か」
「江田というのよ」
「旦《だん》那《な》の名?」
「ええ。——もし生きてれば」
宏子は、かすかに首を振った。「いつか、あなたにも話す時が来るかもしれない……」
「いいさ」
三神は、宏子の裸身を抱き寄せた。「身を寄せ合ってるだけでもな」
——充実した時が、ゆっくりと流れて行った。
三神は、時計を見て、起き上がった。
「もう行かなきゃ。親父さんを待たせるわけにゃいかない」
何時間もたったような気がしていたが、実際は三十分ほどのものだったのだ。
時間ってのは、不思議なものだ、と三神は思った。
「間に合う?」
「ああ。俺《おれ》の運転の腕は一流だぜ」
三神はそう言って笑った。
宏子が明りを点《つ》けた。毛布を体に巻きつけて、
「先にシャワーを浴びて行って。私は後でいい」
と、言った。「若いのね」
「二十歳だよ」
「遠い昔だわ」
と、宏子は笑った……。
——十分で仕度を終えた三神は、アパートを出る時、玄関で言った。
「電話する時は、一《いつ》旦《たん》、三度鳴らして切るからな。それからすぐにもう一度、かけ直す。そしたら俺だ」
「分ったわ」
宏子は三神にキスした。
三神は、ベンツまで走って、急いで車を出した。——よほど、事故でもない限り、間に合うだろう。
ベンツの姿が見えなくなると、方々の道の角から、オートバイが進み出て来た。その数十三台。
「——さて」
と、リーダーの男が、唇を歪《ゆが》めて笑った。「女を訪問するか」
何時だろう?
広沢は、半分眠っているような状態の中で、考えていた。
昼か夜かも定かでない。——いや、夜だろう。
この白い光は、たぶん月明りだ。
広沢は、ビールの空びんを転がした。子供じみた真《ま》似《ね》でもしていなくては、気が狂ってしまう。
「畜生……。あの女、しめ殺してやる!」
と、呟《つぶや》いてはみるが、果してこの家から出られるのかどうか……。
——白浜一家の後を尾《つ》けてこの町へやって来た広沢だが、妙な子連れの女の誘いにのって、この町外れの家へやって来たのがとんでもない間違いだった。
女と寝て、目覚めた時には、一人でこの家に閉じこめられてしまっていたのだ。
たかがボロ家と、何とか戸や窓を叩《たた》き破ろうとしてみたが、むだな努力だった。頑丈の上にも頑丈に、外から打ちつけられてしまっているのである。
そして——もう何日たったろう?
もちろん、飲まず食わずなら、広沢はとっくに死んでいただろう。
奇妙なことだが、広沢をここへ閉じ込めた誰《ヽ》か《ヽ》は、毎日きちんと、廊下の一番上の高い窓から、食事や飲物を投げ入れて来るのだ。
それも三食分、もちろん高級レストラン並とはいかないが、決して少食とも言えない広沢がちょっと持て余すほどの量なのである。
それが投げ込まれる時にでも、どんな奴が来ているか、覗《のぞ》いてやろうかと思うのだが、いつも夜中——それも深夜の二時前後で、いくら頑張っていても、広沢は眠り込んでしまうのだった。
飲物にしても、お茶や缶ビール、カップ酒まで揃《そろ》っていて、アルコールをとらせるのは眠らせるためもあったのかもしれない。
それにしても……。
気味が悪いのは、なぜ自分がこんな所へ閉じこめられるのか、広沢には全く思い当らないことで、日がたつにつれ、苛《いら》立《だ》ちはつのって来た。もちろん、誘《ゆう》拐《かい》して身代金を取るのに、広沢ほど不適当な人質はいないだろうし、大体、ここの誰にせよ、広沢のことを知っているとは、とても思えない。
「やれやれ……」
広沢は、ゴロリと横になった。
まあ、何かやらかして、留置場へでも入っていると思えば、我慢できないこともないが、それにしても、口をきく相手が一人もいない、というのはこたえた。
どんなつまらない奴でも、もし目の前に出て来たら、広沢は抱きついていたかもしれない。
いやに今日は月の光が明るい。——満月なのかな。
そういえば、犬が盛んに吠《ほ》えているようだったが……。満月の夜には、多少犬もおかしくなるのかもしれない。
広沢はいつしかウトウトしていた。——時計は何だか知らないが止ってしまっていて、役に立たないのだ。
何時ごろになったか……。
メリメリ……。何か板の裂ける音で、広沢は目を開いた。
何だ?——耳の方がおかしくなったのかな。
いや、そうではなかった。キーッ、と板のきしむ音がする。バリッ、と板が割れる。
どこか、戸を開けようとしている奴がいる!
広沢は起き上がって、耳を澄ました。——どこだ? もう一度やってくれ!
メリメリ……。バン、と板が弾けるように割れる音。
玄関の方だ! 広沢は立ち上がって、用心しながら、玄関へと出て行った。
誰かが入って来るのかもしれない。広沢を助けてくれるためとは限らない。用心が必要だった。
そっと玄関を覗くと、表にタタタッと駆け去る足音が聞こえた。
しばらく待ってみる。——人の気配はなかった。
広沢は玄関へ下りた。格子戸にそっと手をかけ、力を入れてみる。
ガラッ、と戸が開いた。広沢はびっくりして、思わず声を上げてしまうところだった。
——こんなことがあるのか?
夢ではない。——目の前に、外の風景があった。
広沢は、靴をはくと、外へ出た。
「やった……」
自分の力で出たわけではないが、しかし呆《ぼう》然《ぜん》としつつも、何度も外の空気を吸っては吐いた。
かなり寒かったが、そんなことは気にもならない。ともかく、この家から出られたのだ!
寝込んでいたわけでもないのに、足もとが少しふらついた。
記憶が定かでない。どっちが町の方向だったろう?
ま、いい。ともかく道を辿《たど》って行きゃ、どこかへ出るさ。
広沢は大きく、思い切り伸びをして、歩き出した。
「たぶん、井戸なんだ」
と、進は言った。
「井戸?」
仁美は訊《き》き返した。「——シッ。こっちへ隠れて」
進の手を引いて、傍の茂みの中へ身をひそめる。
男たちが、少し先に立ち止って、何か話し合っている様子だった。
「井戸って……」
と、仁美は低い声で話を続けた。「あなたの家の?」
「庭に、古い井戸があったんだ」
と、進はしゃがみ込んだまま、言った。「板でふたがしてあって、大きな石がのせてあった」
「その井戸が、どうかしたの」
「ルミの奴、中がどうなってるのか、知りたがった。たぶん、板のどこかが、割れかけてたんだよ」
「ふーん」
「ルミが中を覗《のぞ》こうとして、井戸のふたを開けた。たぶん、そこに何《ヽ》か《ヽ》いたんだ」
「何か、って?」
「分んないけど……。みんなを狂わせちゃうもんさ」
仁美も、進が真《ま》面《じ》目《め》に話していることはよく分っていた。普通なら化物の話なんかを、すぐには信じられない。
しかし、仁美も、この町に起こっていることが、普通の理屈ではとても割り切れないものかもしれない、と感じていたのだ。
「——ルミちゃんは、病院じゃないのね」
と、仁美は言った。
進は、黙って肯いた。
「山の中?」
「——どうして知ってるの?」
「会ったの」
「そう」
と、進は大して驚く様子もなく、肯《うなず》いた……。
「私の友だちがかまれたの」
進がギクリとして、仁美を見た。
「かまれた? ルミに?」
「うん。大した傷じゃなかったけど」
「熱は出た?」
「しばらくしてからね。もう下がったけど」
「今日は?」
「今日?」
「昼間、熱が出てなかった?」
「夕方まで一緒だったけど、何ともなかったわ」
進は、少しホッとしたように、
「じゃ、大丈夫かもしれないね」
と、言った。
「ねえ。——何なの、一体? 病気?」
進は、首を振った。
「知らないよ、僕も。でも……熱が出て、段々、犬のように唸《うな》ったりするようになって……。歯が尖《とが》って来て……」
仁美はゾッとした。——狼《ヽ》男《ヽ》?
そんなのは、映画か小説の中だけの話だ!
「そしてね——満月の夜に——」
と、進が頭上の月を見上げる。
その時、鋭い叫び声が二人の耳を打ったのだった。
「——やられた!」
男たちの一人が、金切り声を上げた。「かまれたぞ!」
「逃がすな!」
「そっちだ!」
銃が火を吹いて、銃声が夜を震わせた。
「追いかけろ!」
何人かが、木立ちの中へ駆け込んで行く。
一方で、
「深追いするな!」
という声も飛んだ。
「早く手当だ!」
と、誰かが叫ぶ。
「町へ戻るんだ! 早く血を吸い出さないと……」
「俺《おれ》がついて行く」
「分った。任せる」
「送って行って、すぐ戻るよ」
「よし。じゃ、みんな先を急ぐんだ」
木立ちの中へ入って行った数人も戻ったらしい。——腕をかまれた男が、ハンカチで手首の上の辺りを縛って、銃を手にしたもう一人の男に付き添われて戻って来る。
「奥へ」
と、仁美は、進をつついて、促した。
今の場所では、戻って来る二人に見られてしまう。
仁美と進は、木立ちの間をそっと通って、その奥に身をひそめた。
「誰だ!」
と、銃を持った男が叫んだ。
しまった、と仁美は思った。——枝を踏んだ音を、聞かれてしまったようだ。
「——音がしたぞ。待ってろ」
「それより手当てを……」
「分ってる。その辺に隠れてるかもしれないじゃないか」
銃を構えて、その男が、「おい。誰かいるのか?」
と、声をかけた。
仁美は息を殺した。——日本刀は持っているが、もちろんここで争っても仕方ない。
「撃つぞ。——死んでもこっちは知らないぜ」
仕方ない。出て行こうか。
ここで殺されちゃったらかなわない。
仁美は、進の手をつかんで、軽く握りしめると、立ち上がろうとした。
その時——全く気付かなかったが、ほんの数メートル離れた木のかげから、黒い影が猛烈な勢いで飛び出したと思うと、銃を構えた男に飛びかかった。
声を上げる間もなかった。引金が引かれて、夜の中に赤い火が爆発した。
頭上の枝が吹っ飛んだのか、バラバラと雨のように降って来る。仁美は、進の頭をかかえ込むようにして、伏せた。
呻《うめ》き声、唸り声——。どっちも人間の声のようではなかった。
二つの影は、地面で激しくもつれ合った。
タタタッ、と足音がした。さっきかまれて、けがをした男が逃げ出したらしい。
悲鳴が、枝さえ震わせた。それが突然、ピタリと止って、低い、声というよりは「物音」のような、持続音に変った。
仁美と進は、ゆっくりと頭を上げた。
激しい息づかいが聞こえる。——男に飛びかかったのは、女のように見えた。白い服が汚れて裂け、白い腕をむき出しにしている。
長い髪が、肩に揺れていた。
仰《あお》向《む》けに倒れた男は、もう動かなかった。その上に重なっていたその女は、体を起こして、仁美たちに背を向けたまま、肩で息をしていた。
——その時、男たちが進んで行った先の方で、銃声がした。二度、三度。
その女はハッと立ち上がると——駆け出して、木立ちの中を影となって走り去った。
信じられない早さ!
仁美は、今、自分の見たものが、幻ではなかったのか、と問いかけたかった。
「——あの人は?」
と、進が言った。
「ここにいる?」
「一緒に行くよ」
仁美にとっても、ありがたかった。
——月の光が、男を照らしていた。かみ裂かれた喉《のど》がパックリと口をあけ、血潮は池のように広がっている。
「ひどい……」
仁美は、気を失わないのが、不思議だった。
しかし、月の、あまりにも明るい光の下で、その死体が異様な美《ヽ》し《ヽ》さ《ヽ》を感じさせるのも事実で、それが却《かえ》ってリアリティを奪っていたのだろう。
銃声に混って、悲鳴が聞こえて来た。
「僕、行くよ」
と、進が言った。
「分ったわ」
仁美は肯いた。——ここまで来て、引き返すわけにはいかない。
二人は、道へ出ると、走り出した。