二、三度、激しく揺さぶられただけで、さして頑丈とは言えない鍵《かぎ》は壊されてしまった。
ドアが開くと、女は部屋の中に座って、顔を伏せていた。
「——やあ」
と、暴走族のリーダーが言った。「また会ったな」
意外だったのは、女が大して驚いた様子も見せなかったことだ。三神のものらしいセーターを着て、ジーパンをはき、部屋の中央に、きちんと座っていた。
部屋の明りは消えて、カーテンを一杯に開けた窓からは、白い月の光が射し込んで、女の影を畳の上に落としている。
「三神の奴は、行っちまったぜ」
と、リーダーの男は言った。「助けにゃ来てくれないだろうな」
女が、ゆっくりと顔を上げた。
「——分ってるわ」
と、女は平板な声で言った。
「俺《おれ》たちが来るのを知ってたのか?」
と、男は少し緊張して言った。
三神も気付いていたのだろうか。こっちは人数が多いが、三神には用心する必要があった。
「三神さんは知らないわ」
と、女は、まるで相手の考えを見すかしているように言った。「私だけが、気が付いてたの」
「ほう。どうして分ったんだ?」
「匂《にお》いがしたわ」
「何だって?」
「あなたたちの匂いが。——ゆうべの匂いと同じ匂いよ」
「なるほど」
「獣の匂いだわ」
女の声に嫌悪の思いがこもった。
「悪かったな」
と、男は上がろうとした。「また、たっぷり匂いをかがせてやるぜ」
「上がらないで」
女の言い方は、ごく普通の調子だったが、どこか、男の足を止めさせるものがあった。
「ここはあの人の部屋よ」
「だから、何だ?」
「下の部屋や、隣の部屋にも、人がいるわ。ここで乱暴なことをしたら、警察が来ることになるわよ」
女は、ゆっくりと立ち上がって、窓から射す月光を正面から浴びて立つと、「——外へ行きましょう」
「外へ?」
「人の来ない所に。——いいでしょう? 目当ては私なんだから」
「逃げようって気なら——」
女は、背を向けたまま笑った。
「そんなに大勢いて、女一人、逃がすのが心配なの?」
男は口を歪《ゆが》めて笑った。
「よし。じゃ、出て来い」
「行くわ」
クルッと女が振り向いた。
暴走族の男たちは、戸惑っていた。女が少しもためらわずに外へ出て来たからである。ゆうべ、されるままにえじきになった、これが同じ女だろうか?
「どれに乗ればいいの?」
と、女は集まったオートバイを見回した。
「おい、お前、後ろに乗せろ」
と、リーダーが部下の一人に言った。「逃げないように縛るか」
女は、またちょっと笑った。
「飛び下りて大けがするほど馬鹿じゃないわよ」
「よし、乗れ。——おい、N公園だ。裏手の林へ行くんだ」
十三台のオートバイのエンジンが一斉に唸《うな》りを立てる。次々にオートバイは走り出した。
月明りの下、オートバイの影がもつれ合うさまは、広げた網の上をオートバイが走り続けているようにも見えるのだった……。
「——参ったな」
と、苛《いら》々《いら》して、三神は呟《つぶや》いた。
これじゃ、とても小西を迎えに行くのに間に合わない。——いや、小西の会食も時間通りに終るとは限らないのだが、車が遅れた時に限って、早く用事がすむというのは、世のならいである。
いくら三神がすぐれたドライバーでも、突然の事故を予知することはできない。
トラックを追い越そうとした小型の乗用車が、対向車線にはみ出して、バスと衝突したのである。
さらにトラックもその乗用車に追突、結局、乗用車はバスとトラックにはさまれる格好で、めちゃくちゃになってしまった。
道はほとんど完全にふさがれて、車はもう何キロもつながっている。——このままではあと一時間はかかると思わなくてはならないだろう。
通れるのはたった一車線。そこを交互通行で両方から車を通しているので、一向に進まないのである。
時計を見て、三神は首を振ると、車内の電話を取った。小西のいるレストランへ、かけてみる。
小西を呼び出すと、すぐに出て来た。
「三神です」
「君か」
小西がホッとしたような声を出した。小西が、病院からの連絡かと思ったのに違いない、と三神は気付いた。
「申し訳ありません。戻る途中で、事故に巻き込まれまして」
「そうか。こっちもまだしばらくかかる。焦らなくても大丈夫だ」
「そうですか」
三神は少しホッとした。「できるだけ早く戻ります」
「分った……」
電話を切って、三神は息をついた。——今夜はいやに事故が多いようだ。
アパートへの往復でも、ずいぶん救急車のサイレンを耳にした。やっぱり普通の人間も、月明りに浮かれたりすることがあるのだろうか?
少なくとも、血が騒ぐ、といったことはあるのかもしれない。
宏子のことを思い出した。どうしてあの女は俺に身を任せて来たのだろう。——しなやかな、すばらしい体だったが。
ふと、思い付いて、三神はもう一度電話に手を伸ばした。どうせ待つしかすることがないのだ。
アパートの電話へかけてみる。——三度鳴らして一《いつ》旦《たん》切り、それからもう一度かける。
呼出し音が続いた。誰も出ない。
何してるのかな? もう眠ってしまったのか。
もう一度、やってみた。三度鳴らして一旦切り、またかける。
やはり同じだ。——いくら鳴らしても、誰も出なかった。
三神は首を振った。狭いアパートである。あれだけ呼んで気付かないはずがない。ということは……。
部屋にいない?——なぜだ? どこへ行くというんだ?
三神はハンドルに手をかけて、じっと考え込んだ。何もなければ、あの女が家を出るはずはない。
もし出たとすれば……。もう戻らないつもりかもしれない。だからこそ、三神に身を任せたのかも……。
迷いは短かった。小西を迎えに行くことなど、誰でもできる。しかし、あの女は——しかも、あの女は小西の娘なのだ。
三神はハンドルを思い切り回した。強引にUターンして、他の車がクラクションを鳴らす。もちろん、そんなことを気にする三神ではなかった。
ぐいとアクセルを踏み込んで、三神は再びアパートへと車を走らせた。
——まだそれほど来ていなかったので、十分ほどでアパートに着く。
ドアの鍵《かぎ》が壊れているのを見て、何かあったな、と察した。
隣の部屋のドアを叩《たた》いてみた。
「——何ですか?」
いつも眠そうな顔をした奥さんが顔を出す。「ああ、お隣の人ね」
「知り合いがいたはずなんですが、戻ってみると、姿が見えなくて。何か変ったことはありませんでしたか」
と、三神は訊《き》いた。
「さあ……。ずっとTVを見てたから……。歌番組とか、いつも大きな音でかけてるもんですからね」
「そうですか。——どうも」
と、三神が行きかけると、
「ああ、何だかオートバイの音がしてたわね」
と、その奥さんが言った。
「オートバイ?」
「ええ。それも一台や二台じゃなくて。——十台ぐらいはいたんじゃないかしら。凄《すご》い音たてて走ってったわ。きっと暴走族ね、とか話してたんだけど」
三神の顔がこわばった。
「そうですか。そのオートバイの連中、どっちへ行ったか、分りますか?」
「たぶん……。そうね。あっちの方よ」
と、指さす。
「どうも」
三神は、外へ飛び出した。
あいつらが、またやって来たのだ! 畜生!
宏子をどこへ連れ去ったのか。見当もつかないが……。
しかし、希望がないわけではなかった。何といっても、けたたましい爆音をたてて走る十台以上のオートバイである。相当に目につくに違いない。
方向だけでも分れば。——そう遠くへ行くはずがないし、しかも人気のない場所を選ぶだろう。
三神はベンツを、オートバイが向かったという方向へ向けて、ともかく、アクセルを踏んだ。何とか、手遅れにならない内に、見付け出すのだ。
しかし、三神は、自分が追い求める先に待っているものが何なのか、何も知ってはいなかったのである。
あれは銃声か?
広沢は、足を止めて、耳を澄ました。さっきから、何度か聞こえている。
それに叫び声のようなものも。——しかし、遠すぎてはっきりしなかった。
あの閉じこめられていた家から出て、もう十五分ぐらい歩いただろうか。
月明りの下なので、歩くのに不便はなかったが、ともかく、一向に町は見えて来ないし、道はますます山の奥へ入って行くような気がした。
方向を間違ったのかもしれないな、と思った。戻って、反対の方角へ歩いてみるか。
それとも、どうせこんな夜中なのだ。どこかで腰をおろして、明るくなるのを待つか。眠るだけは充分に眠ったから、朝まで起きているのは辛《つら》くない。しかし——。
突然、広沢は、誰かが道の真中に立っているのに気付いて、ギョッとした。いつ出て来たんだ?
まるで地面から飛び出して来たかのように、その女の子は広沢の行く手に、立っていたのだ。
月明りに照らされたその女の子は、五、六歳に見えた。白のブラウスと、濃い赤のスカート。そして、なぜか少女は裸足だった。
「どこから来たんだ?」
と、広沢は声をかけた。
「家へ帰るの」
女の子は、意外にしっかりした声で答えた。
「そうか。——こんな時間に外に出て、何してたんだ?」
「ご用事」
「なるほど」
と、広沢はちょっと笑った。「家は町の中かい?」
「うん」
と、女の子は肯《うなず》いた。「そっち」
指さしたのは、広沢の斜め後ろの方角だった。
「そうか。道に迷っちまったんだよ、俺《おれ》も。連れてってくれるかな」
「うん」
女の子は近付いて来ると、広沢の手を握った。小さな体に似合わず、強い力で、ギュッと握って来る。
「この道を戻るのか」
「そっちに近道がある」
「ふーん」
広沢も、用心はしていた。何しろ、あの妙な女にコロッと騙《だま》されて、ひどい目にあったのだ。
しかし、これは小さな女の子だ。騙すといっても……。それに、広沢も腕力には自信があった。あんな風に油断していればともかく、今度は充分に用心している。
何が来たって、やられやしないぜ、と広沢は挑《いど》みかかるように空を見上げた。
「凄《すご》い月だな」
と、広沢は思わず言っていた。
こんなに、白い、まぶしいほどに輝く月を見たのは初めてだ、と広沢は思った。
「お月様って好き?」
と、女の子が訊《き》いた。
「さあな。こんなにでっかいと、何だか気持悪いや」
「そう? 私、大好き」
道は、少し細くなって、木立ちの間へ入って行った。しかし、ゆるい下りになっているし、少し先は開けているようで、本当に町に近付いているのかもしれない、と広沢は思った。
「おい」
広沢は足を止めた。
「どうしたの?」
「何か聞こえなかったか?」
「なんにも」
「——いや、音がしたんだ」
左右の黒い木立ち。月明りが、枝の間から細く、いく筋か忍び入っている。その中を、黒い影が動いていた。草を踏む音。木の幹に何かがこすれる音。
右から、左から。——一つや二つではない。
黒い影は十、二十という数のようだった。
「誰だ!」
広沢は怒鳴った。「こそこそしてねえで、出て来い!」
女の子が、広沢の手を離すと、静かに、背後に回った。広沢は全く、気にも止めなかった。
「隠れてるのは分ってるぞ。出て来たらどうだ!」
影たちは、動きを止めていた。身を潜め、息を殺している。
何か武器になるものでも持っていれば良かった、と広沢は思った。あまり大勢が相手だと面倒だ。二人、三人なら、負けやしないんだが——。
「俺《おれ》に何の用だ? 出て来ないと——」
突然、右のふくらはぎに、激痛が走った。叫び声を上げて、振り向いた広沢は、目をむいた。
あの女の子が、ふくらはぎにかみついている。凄《すさ》まじい勢いだった。歯が食い込み、血がほとばしるのを感じた。
「はなせ! こいつ!」
広沢は、女の子の髪の毛をつかんで、引っ張った。女の子が悲鳴を上げて、顔を離す。
月明りに、口の囲りを血まみれにした少女の顔が見えた時、広沢はゾッとした。
女の子は、両手を振り回し、足で、自分がかんだ広沢のふくらはぎをけった。広沢が苦痛に呻《うめ》いて手をはなすと、女の子は駆け出した。
まるで飛びはねるような勢いだ。人間ではないような駆け方だった。
血が流れ出している。広沢は、苦痛に歯を食いしばりながら、歩き出した。
とんでもない所へ来てしまったのだ。逃げなくては。ともかく、逃げるのだ。
片足を引きずるように……。
木立ちの間から、黒い影が一つ、飛び出して来た。
「ワッ!」
よけそこなって、仰《あお》向《む》けに倒れた広沢の上に、そ《ヽ》れ《ヽ》はのしかかって来た。
女だ。髪をふり乱し、目を血走らせた女だった。
「何だ——やめろ! 何をする!」
女が口を開いた。鋭く尖《とが》った歯が見えた。牙《きば》、と呼んだ方がいいような。
女の歯が、広沢の肩に食い込む。骨に当るガリッという音がした。
広沢は叫んだ。女を押しのけようとしても、腕がしびれていた。
土を踏む音がした。次の瞬間、右の太《ふと》股《もも》に、鋭い刃《やいば》を突き立てられるような激痛。かまれたのだ。その歯は、肩に食い込む女の歯の何倍も巨大なように、広沢には思えた。
広沢はめちゃくちゃに暴れた。黒い影たちが、次々に飛び出して来て、広沢の上を覆う。月の光が、広沢の視界から消えた。
腕をがっしりつかまれたと思うと、いくつもの歯が同時に肉を貫いた。筋を裂き、骨を砕いた。
広沢は、苦痛の頂点から、ゆるやかに下り始めた自分を、ぼんやりと感じていた。——良かった。助かるんだ、と思った。
単に、激しい出血で、たちまちの内に意識が消え入り、命が絶え入ろうとしているのだとは、考えられなかったのである。
広沢は身を激しく震わせた。太股に食い入った歯が、肉を食いちぎる音を、広沢の耳はかすかに聞いた。
何だ? 俺はどうしてこんなことに……。
プツリ、と糸が切れるように、広沢は死んだ。
しかし、さらに体が裂かれ、血が溢《あふ》れても、なお広沢の手は何かをつかもうとするように、指を動かし続けていた……。