「では第三楽章の冒頭《 あ た ま》から」
指揮科の土《つち》屋《や》教授が指揮棒を取り上げると、みんな、一斉にパラパラと楽譜をめくる。
「言うまでもないことだが、この楽章は、この交響曲の中で、最も難しいところだ。他の楽章はそれぞれ軽快なリズムがあり、憶《おぼ》えやすいメロディーがあり、変化がある。だが第三 楽章はちょっと気を抜くとたちまち平板で退屈なものになってしまう。分かるかね?」
みんなやれやれといった顔で土屋先生の話を聞いている。何しろ練習に入る前に、必ず短い演説が付くのが、この先生の癖なのだ。——そんなこと言われなくたって分かってますよ、先生。早く始めて下さい。瞳はそう言ってやりたいところだったが、コンサート・マスターとしては熱心に聞いているふりをしなくてはならない。辛いところである。
曲はベルリオーズの「幻想交響曲」。海外のオーケストラが、よく公演曲目に取り上げるのは、この曲がオーケストラの実力を見せるのに適しているからで、言いかえれば、それだけ高度の演奏技術を要する曲だということになる。
天下に冠たるBBC交響楽団を向こうに回して、この曲をやろうというのだから、それはちょっと無謀な企画と言ってもよかった。実際の共演の形態は、この曲の時だけBBCの弦楽セクションをT学園弦楽オーケストラとまるまる入れ替えるという、大胆な試みになるはずだった。トランペットを始めとする金管楽器、ティンパニなどの打楽器などは、とても高校生の体力ではもたないので、BBCのメンバーが残る。木管——フルート、クラリネットなどは、第二以降をT学園のメンバーが受け持つことになった。
この曲はプログラムの最後に置かれているから、BBCだけの演奏と比較されることになる。瞳を始めとするメンバーたちが必死にトレーニングを重ねているのも、当然の話だった。
土屋先生のタクトが動いて、練習が始まった。ガランとして人気のないT学園ホールの中に、美しい弦の調べが立ちこめる……。
一段落ついて、ほっと手を休めると、瞳は後輩の男子学生の方を振り向いて、
「五十嵐《いがらし》君、G線の音が合ってないわよ」
「はい」
「私のに合わせて」
合奏していて、一人のメンバーの音程の狂いに気付くのは、やはり瞳の、持って生まれた音感というものだ。
「よし、十分ばかり休憩」
ああ、やれやれ。とたんに緊張が解けて、オーケストラは騒がしい高校生の集団に変わった。瞳は何気なく空っぽのホールの方を眺めて、思わず、
「あら」
と言った。目立たない隅の席から、ジェイムスがこっちを眺めている。急いでステージを降りて行く。
「やあ」
「何があったんですの?」
「いや、ただちょっと演奏を聞かせてもらおうと思ってね」
とニヤリとする。
「ああ、何だ。何か起こったのかと思って……。事件の手掛かりは?」
「今日あたり犯人から金の支払いについて何か言って来るはずだよ」
「じゃ、こんなところでのんびりしてて、いいんですか?」
「猟師は獲《え》物《もの》が動くのを待つものさ」
瞳は思わず微《ほほ》笑《え》んだ。不思議な人だわ。命にかかわるような仕事をしているらしいのに、少しも肩を張ったところがない。リラックスして、いわば危険を楽しんでいるようだ。
「演奏はいかがですか?」
「素晴らしい」
即座に言う。「目を閉じて聞いていたら、世界でも有数の名門オーケストラだと思うよ」
「まさか!」
「いや、本当さ。ただ——」
「ただ?」
「もう少し気楽にやったらどうかな。あまり必死にならないで」
「ええ。そうですね」
瞳もコンサート・マスターとして、それは気にしているのだが、つい固く、気負ってしまうのだ。
「演奏」という言葉は英語ではプレイであり、ドイツ語ではシュピーレンである。つまりどちらも「遊ぶ」という言葉を使っているのだ。本来、音楽は、演奏する人間も楽しむ遊びでなくてはならない。ところが日本人は「演奏」とは崇高な使命であるかのように身構えてしまう。
「——あ、また始まりますから」
「何時に終わるの?」
「今日は大学オーケストラの演奏会があるんで、六時ごろには終わります」
「じゃその頃、迎えに来るよ」
「何か私にご用ですか?」
「昨日、気絶させたお詫びに夕食をおごろうと思ってね」
ジェイムスが出て行くと、瞳は訳の分からないときめきに頬を上気させながら、ステージヘ戻った。座ろうとして、思わず足が止まった。自分の席に、二つヴァイオリンが置いてある。一つは今日持って来た古いヴァイオリンだ。もう一つは……ストラディヴァリとすり替えられた自分のヴァイオリンではないか!
「ね、このヴァイオリン、誰が置いていったの?」
瞳は周囲の学生に訊いてみたが、誰もが休憩中で、特別気が付いた者はいなかった。そのうち、一人の女学生が、
「何だか男の人が置いてったみたいよ。学生さんかと思って気にもしなかったけど」
裕二が来たのだ! 瞳は急いでステージの袖《そで》へ走って行ったが、もう誰の姿もない。戻って来たヴァイオリンは傷一つなく、元のままだった。ふと気が付くと、弦に小さく折りたたんだ紙片が挟んである。取り出して広げてみる。鉛筆の走り書きだった。
〈君の愛器を無断で借りてお詫びします。裕二〉
どう考えていいのか、瞳は途方にくれてしまった。
「瞳、始まるわよ」
学友の声に、瞳はコンサート・マスターの席へ戻って行った。
「——そうか、君のお父さんは、あのマサオ・シマナカなのか」
「ご存知ですか?」
「実際には残念ながら聞いたことがない」
ジェイムスはワイングラスを置いた。「確か、今度BBCを振っているサー・ジョンは君のお父さんがBBCに客演した時の指揮者だったろう」
「ええ、そうなんです。お目にかかるのが、とても楽しみで……。でももうきっと憶えておられないでしょう」
サー・ジョン・カーファックスは今年七十八歳。英国指揮界では、サー・エードリアン・ボールトと並ぶ大御所である。
「いや、そんなことはないよ。たまたま私はサー・ジョンを知っていてね、よく彼は君のお父さんのことを口にしている」
「本当ですか?」
瞳は目を輝かせた。
「惜しい天才だった、と口癖のように言っているよ。君が娘さんだと知ったら喜ぶだろう」
ホテルのレストランの一隅に、二人は席を取っていた。
「十分食べてくれよ、君は若いんだから」
「ええ、遠慮なく」
大きなステーキに取り組みながら、瞳はちょっと照れくさそうに笑った。
「その裕二という若者、一体何者なんだろうね」
「さっぱり分からないんです」
瞳は首をかしげた。「悪い人じゃないと思うんですけど」
瞳は土曜日の夜の、国電での出来事を話した。
「なるほど。勇気のある若者らしいね」
「ええ……」
「君の恋人というわけじゃないんだろう?」
瞳は首筋まで真っ赤になった。
「おやおや、怪しいね」
「別に……ただ、ちょっとキスしただけです」
「なるほどね。君がキスしたくなるような男性なら、ますます悪人ではなさそうだ」
ジェイムスは真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で、「私も悪人じゃないんだがね」
「でも……何だか、得体が知れません、あなたって」
ジェイムスは心から愉しそうに笑った。
デザートを終え、コーヒーを飲んでいると、急にジェイムスのポケットでブザーが鳴った。
「おやおや、ちょっと失礼」
ジェイムスは席を立つと、公衆電話で、ほんの三十秒ばかり話して戻って来た。
「気のきかん犯人だ。コーヒーを飲み終わるまで待っていればいいのに」
「連絡があったんですの?」
「そうらしい。大使館へ戻らなくては。途中、家まで寄ってあげよう」
「私なら大丈夫です」
そう言ってから、ちょっと様子をうかがうように上目づかいになって、「あの……ついて行っちゃいけませんか?」
「君が?」
「事件がどうなるか見届けたいんです」
「しかし、少々危険だがね」
「でも、もし楽器が戻らなかったら、せっかくの記念コンサートが中止になるかもしれないでしょう? 私、T学園のコンサート・マスターとして、実現に努力する義務があると思うんです」
「いささかこじつけだね」
ジェイムスは苦笑した。「まあいいだろう。一緒に来たまえ」
「ありがとう!」
二人は早々にレストランを出た。エレベーターで地下の駐車場へ降りる。滑らかな曲線のポルシェが、メタリックな輝きを放っている。練習を終えてホールを出た時、瞳がこの車に乗って行ってしまうのを、学友たちは唖《あ》然《ぜん》として見送っていたものだ。
「さ、乗って」
ジェイムスがドアを開ける。乗り込もうとした瞳は、ふと少し離れて立っている人影に気付いた。
「あら!」
思わず叫んだ。「裕二さん!」
裕二は車から十メートルばかり離れた柱の陰から瞳を見ていたが、瞳に気付かれたと知ると、慌てて駆け出した。
「待って!」
「あの若者か?」
「そうです」
ジェイムスと瞳は裕二の後を追って走った。広い地下駐車場に、三人の足音が入り乱れて反響する。
裕二がゆるやかなカーブを曲がった時だった。突然、一台の大型乗用車が飛び出して来た。よける間もなかった。裕二の体がはね上げられて、車のボンネットにバウンドして床へ叩きつけられる。瞳が短い悲鳴を上げた。
「裕二さん!」
車はそのまま走り去ってしまった。駆け寄ったジェイムスが、裕二を抱き起こす。
「——大丈夫?」
瞳がのぞき込むと、裕二がかすかに目を開いた。喘《あえ》ぐような息づかいで、
「君か……」
「しっかりして!」
「聞いてくれ……犯人は……」
「え?」
「あれを……盗んだのは……楽団の……」
苦しげにうめいて、裕二はがっくりと頭を落とした。
「裕二さん!」
「死んではいない。救急車を呼ぶんだ」
「はい!」
瞳は、エレベーターヘ向かって走った。
「——楽団の? そう言ったんだね?」
救急車が走り去って、ジェイムスの車で、大使館へ向かいながら、瞳は裕二の言葉をジェイムスに伝えた。
「ええ。確かに」
「そうか。——そんなことじゃないかと思っていたんだ」
「というと?」
「内部の人間が楽器を盗む手配をしたに違いないということさ」
「まさか! BBCのメンバーがですか!」
「メンバーとは限らない。マネジメントの人間もいるし、日本側の関係者もいる。いずれにせよ、彼が意識を取り戻せばはっきりするだろう」
「助かればいいけど……。でも、やっぱりあの人も盗んだ一味だったんですね」
「しかし今は違うようだ」
「どうしてです?」
「命を狙われているからさ」
「え? まさか、あの——」
「あの車が事故でぶつけたと思っているのかい? いや、地下の駐車場で、あんなにスピードを出す奴《やつ》はいないよ」
「ひどいわ!」
「病院にも監視をつけよう。生きていると知ったら、またやって来るかもしれない」
瞳は急に疲れを感じて、シートに身を沈めた。——何てことかしら! まるでマフィアの映画にでも迷い込んでしまったみたいだわ!